白藤の斎宮
じゅり a.k.a ネルソン提督
前編
山部王の放った矢はかすかな唸りを上げて飛び、鹿の首に突きささった。
どうと音を立てて、若い牡鹿の身体が大地に倒れる。
一番好きな瞬間であった。
藤原雄田麻呂が素早く自分の馬を滑り下り、草叢の中で断末魔の息をついている鹿の傍に近寄った。
「おお、いつもながらお見事でございますな」
山部はゆっくりと自分の馬を雄田麻呂のところまで進ませた。雨の上がった後、たっぷりと水を吸った草から初夏の匂いがゆっくりと立ち昇ってきた。
若い主従は夕暮のなか、舎人たちに鹿を運ばせ、山部の母和新笠の待つ宮へと家路に着いた。
新笠は鹿を見て、長男を誉めた。
「まだ十三だというに、おまえは勇猛に育ったこと。母は将来が楽しみです」
だが母の表情のどことなく暗いのを、山部は敏感に見取っていた。
新笠は百済の帰化人の血を引いて、大和の者たちとは違う華やかな容貌をしていた。豊かな下ぶくれの頬、紅い唇、切れ長の瞳。きらびやかな声で、よく笑う母を山部は好きだった。しかし最近はその笑い声もめったに聞かれない。
「父上は」
傍にいた女官に尋ねると、首を振る。
「今宵は、いらっしゃらないそうでございます」
「また、新しいお妃のところだな」
山部はひとりごちた。この時代、男は幾人もの妻を持つことを許されている。屋形は一族の母から娘へと継がれ、男は定まった家を持たない。成人になるとその甲斐性に応じた数の通いどころを持ち、夜は女のところで過ごす。その内、定まった妻を決めて、共住みの生活に入るのである。
「雄田麻呂よ」
「はっ」
「女とは、よいものか」
「困りましたな」
雄田麻呂は山部より六歳年長で、すでに二人の妻を持っている。いっぱいにきびを浮かべた背のひょろ高いこの男は、利口そうな顔をおどけたようにゆがめて見せた。
「ただ、男としましては、やはり……新しい妻は可愛いものでございます。『前妻が 肴乞はさば 立稜麦の 実の無けくを 幾多聶ゑね 後妻が 肴乞はさば 斎賢木 実の
多けくを 幾多聶ゑね』という歌もございますようにね」
「ふうん」
山部はしばらく黙っていたが、やがて尋ねた。
「新しいお妃は、母上よりお若いのか」
「井上内親王は、寧良宮太上天皇(聖武天皇)の一の宮ですから、確かお母上と同じ年頃でございましょう。しかししばらく前まで伊勢の斎宮をお勤めになられたお方です。俗世の女性とはまた違った雰囲気をお持ちのお方なのかも知れませぬ」
この世に斎宮という女の存在があることは、山部も聞いて知っていた。天皇家の女性の中から選ばれて伊勢神宮に奉仕する。その女性は清い乙女に限られ、いわば神の花嫁となる。もちろん目にしたことがあるわけではないが、現し世の神である天皇の妃にも匹敵する神の御妻なのだから美しいのだろうとなんとなく思ってはいた。
「見てみたいな……」
「は?」
「そっと覗き見るくらいなら構わぬであろうな。雄田麻呂、ついてこい」
「お、お待ちください! ここがどこだかお忘れになったのですか」
「交野だ。私が育った地だ。おまえの顔のにきびの数よりよく知っておるわ」
「だったら寧良の都とどれほど離れているかもご存じでございましょう」
「うるさい。一刻もあればつく」
山部は馬を厩から引きずりだすと飛び乗り、鞭を当てた。慌てて雄田麻呂が続いた。
とろりとした朧月夜。深い、濃紺の闇。
やがて前方に、目指す灯りが見え始めた。斎宮を辞した井上内親王は、母親の県犬養夫人の館に共住みしている。県犬養夫人は他に二人の子供を生んでいたが、息子の安積親王は若くして亡くなり、井上内親王の妹の不破内親王は天武天皇の孫の塩焼王の許に嫁いだが、塩焼王は陰謀を企み伊豆へと流され、妻の不破内親王も内親王の称号を剥脱された。その後二人は許されたのだが、この家に漂う雰囲気はどことなく暗い。
しかし庭にはひどく大きなよじれた藤の木があり、棚に絡みついて重苦しいほどに白い花が咲き誇っていた。
山部は馬を下りた。
「雄田麻呂、見張っておれ」
そのまま垣を越えて、館を塞ぐ桧の妻戸を山部は次々に押していき、ひとつ、開いているそれを見つけた。
内に滑り込む。
響いたかすかな足音が、さすがに少年をどきりとさせる。
廊下に人影はなく、ただ戸の隙間より蒼い月の光が差し込むばかりである。
「白壁王殿のお渡りじゃ」
不意に女官の年老いた声がした。知らぬものの口から父の名が発せられるのを山部は不思議な気持ちで聞いた。
人の気配に柱の影に隠れる。間一髪といった間合いで今まで山部のいた辺りが女官の持つ灯りに照らしだされた。そして女官の後には、父と従者が続いていた。
父は山部の見たことのない優雅な唐渡りの錦の衣を纏っていた。前の斎宮に対する敬意なのだろうか、宮中に参内するときのように冠を被り、笏を手に持っている。何よりも、(酒を飲んでいない父上を見るのは本当に久しぶりだ)
心なしか胸を反らし、堂々と歩いている父を、山部はやや冷ややかな眼で見る。父は志貴皇子の息子、天智天皇の孫にあたり、女性である今上の天皇に仕えている。が、特に宮廷で功のあるわけでもなく、酒に溺れる廃れ皇子と陰口のひとつも叩かれているのを山部は耳にしないでもない。
この時代、天智天皇の子孫たちは尊い血こそ引いているものの、とうてい皇位など望めぬ運命にあった。遠い昔、天智の息子と弟とが皇位を争い壬申の乱と呼ばれる大乱を引き起こした。息子は死に、勝った弟は天武天皇と呼ばれた。それ以来、天皇の位に付けるのは天武の子孫と限られている。白壁王が皇位につける見込みなど望むべくもない。ましてその長子である山部など問題外だ。
だが井上内親王は天武の曾孫である前の天皇の娘だ。白壁王は彼の器量にはいささか手に余る妃をもらったことになる。
山部はほのかな薄笑いを浮かべながら、静かに父の後についていった。万一見つかっても父の供と言い張ることもできるだろう。
部屋に入る寸前で、山部は隅にあった几帳の後ろに飛び込んだ。
「白壁王さま、お待ちしておりました」
低い、まろやかな声がした。
山部は引きずられるように、几帳からそっと首を伸ばした。
父が腰を下ろしており、小柄な女性がその後ろに回って肩を揉んでいた。
(なんだ、采女か)
最初はそう思ったがすぐに、山部は女性が井上内親王その人であることに気づいた。
薄紫の絹の上衣に同色と白の裳。紫色は臣下には許されぬ禁色である。
「そなたは本当に上手じゃ」
父は目を細めている。
「しかしこのようなこと、普通は采女にやらせるものではないか」
「母から何でもするようにと云われております」
内親王が肩から右腕を揉むために身体の角度を変えたので、その顔立ちがほのかな灯りのなかに浮かび上がった。
その、光のなかに溶け込んでいってしまいそうな。
女性といえば今の山部には、母である。まだ、そういう年頃であった。母は大柄で豊かな胸と豊かな腰を持ち、おおらかに、堂々と歩く。
それに比べて目の前にいる内親王といったらどうだろう。山部は斑鳩の地で見た百済観音と呼ばれる仏像を思い出す。
父の腕を揉み続ける手首は白く、折れそうになよやかである。
ちいさな透き通るように白い顔に、涙ぐんだような黒目がちの大きな瞳が光っている。こればかりは豊かな髪に挿した金の簪がいかにも重そうだ。
采女が酒と肴の膳を持って入ってきた。
「疲れたであろう、井上。さあ」
白壁王が勧めるままに内親王は膳の前についた。
「儂の持ってきた鹿の肉膾じゃ。どうじゃ、おいしいか」
「申し訳ございません。獣の肉には、未だ慣れませぬ」
「酒によく合うぞ。肉膾が嫌いなら、今度は魚を持ってこようか」
白壁王はぎこちなく新婚の妻を労わる。
「伊勢で禊を致しますと、鮎がよくわたくしにぶつかってきたものでございますわ。鮎や鹿は、わたくしにとっては友のようなものでございました。都に戻ってきたのだから、都の暮らしに慣れなければいけないのでございましょうけれど」
内親王はふっと言葉をとぎらせた。袖で口許を覆う。その仕草が落ち着いていて、この女性は母と同じ年頃であったのだと、山部は初めて思った。
不意に白壁王の手が井上内親王の肩を掴んだ。
「薄い肩じゃの、風に当てたら壊れてしまいそうだ」
内親王の身体は軽々と白壁王の膝に乗せられる。
「都より、伊勢が良いか」
白壁王はゆっくりと、内親王の髪から簪を一本づつ抜いていった。
「都にきて良かったとそなたが思うようにきっとしてしんぜよう」
内親王は男の胸に顔を埋めた。白壁王は内親王を抱き上げ、奥へと入っていった。
山部王は妻戸を引き開け、朧月夜の光のなかに身をさらすと大きくため息をついた。
「待たせたな、雄田麻呂。戻るとしよう」
雄田麻呂が馬を連れて、夜の中から滲み出るようにあらわれた。山部は馬に乗る前につくづくと内親王の宮を振り返ってみた。
内親王の母親の実家の規模を忍ばせるような、小さな宮である。白い藤の花に埋まりそうな、宮である。
「雄田麻呂よ」
「何でございましょう」
「藤の花には、匂いがあるのだな」
なぜ今まで気づかなかったのかと山部は自身を訝しむ。それほどに、藤の花は甘やかで高雅で、どこかはかない香りを辺り一面に放っていた。
「帰ろう」
山部は雄田麻呂と二人、己れの宮へと戻っていった。
いつのまにか侍女にしきりと話し掛けたり、ときには手を握ってみたりするようになった息子を、新笠は注意深く見ていた。
ある朝久しぶりに狩に出ようかと早起きした山部が、牀の上で手を叩くと、見慣れぬ娘が手水を捧げて入ってきた。
「そなたは、誰か」
山部は、一度は起き上がったものの、夏の夜明けの物憂さに引かれるようにして、再び牀に長くなった。その傍を娘は機敏に動き、山部の袍、結髪の道具と次々と運んできては朝の支度を整えていく。浅黒い顔に、赤と黄の唐風の配色の衣装がよく似合う。そのしなやかな身のこなしに山部はこれから狩りにいこうと思った若い鹿を連想した。
すっかり済んでしまうと娘は山部の方に向き直った。
「お初にお目もじいたします、山部王さま。百済王明信と申します」
頭を下げる態度と口調は丁寧だったが、頭を上げたとき、娘の眼は悪戯っぽく輝いていた。と、見る間に娘の表情は崩れ、花がぱちんと開くように笑いだした。
「何がおかしい」
「髻がすっかり崩れておりますわね、君さま」
娘は天衣無縫に紅をさしていない口で笑ったが、それが山部をどこか刺激した。
「明信は狩りにお出かけになる山部さまを拝見したことがございます。そのときの山部さまはすっきりと髪を整え、きりりと袍をたくしあげて粋に着てらっしゃいました。世の中にこのような凛々しい殿方もいるものなのだと明信は思いましたわ。ところがどうでしょう、今ここにいる山部さまときたら、お寝巻はぐしゃぐしゃ、髪もくしゃくしゃ。少しがっかりいたしましたの」
そう云って明信は再び笑いだした。山部は憮然とした。初対面に近い少女にそのように笑われるいわれはない。
「笑うな。それよりも私は狩りに行くのだ。朝餉の支度を早く頼む」
「承知いたしました」
明信は瞬く間に山部の朝の支度を済ませてしまった。浅黒い小さな手が蝶のようにひらひら動くのを、山部はじっと見守っていた。
飯を食いながら、山部は尋ねた。
「明信。馬には乗れるか」
「得意でございますわ」
「それでは、狩りはやめだ」
箸を置いた山部は急に立ち上がると、明信の手を掴んだ。
「山吹を見に行こう。そなたによく似合いそうだ」
「まあ、困ります」
「なぜだ」
山部は思わず手を放した。立ったまま不安そうに明信を見る。明信はしばらくそれを見返していたが、ぷっと吹き出した。
「だって、朝餉の支度が終わっていませんもの」
山部も笑いだした。
「気にするな。私はおまえと出掛けたいんだ」
山部は明信の手を引いて、厩まで走った。
馬は草についた朝露を散らしながら、真っすぐに疾走していく。
明信は山部の腕の中で首をすくめていた。
「明信。百済王明信。帰化人の名だな」
「はい……」
明信の髪が緩やかにほどけ、山部の頬をくすぐる。
「百済の、王統の血を引いた、誇り高い名だ。私も、百済の血を引いているのだ」
山部は明信を抱く腕に力をこめた。
「あそこだ」
そこは林のなかに小さく、忘れ去られたようにある屋敷の跡だった。荒れ果ててはいたが、庭はよく残り、手入れのなされていない伸び放題の山吹が、いっぱいに金色の花を咲かせていた。
「おそらく葛城氏の館だったところだろう。ここは私と雄田麻呂しか知らない」
「まあ、素敵、素敵だこと。なんて不思議なんでしょう」
山部はそっとそんな明信に近寄り、彼女の髪から金の簪を一本一本抜いていった。明信の髪がばさりと崩れ、呆気にとられた明信は山部を見上げた。
崩れるように山部は、明信の顔の上に身を屈めた。
「お前が気に入った」
明信はしばらく山部のなすがままに唇を吸われていた。やがて、明信の小さな手が、山部の頬を挟んだ。
「明信よ」
「何でございましょう」
「-その、やり方を知っているか」
「いやな方!」
明信は仰向けになったまま、自分の領巾や帯を取り、衣の前を開いた。そして手を伸ばし、山部の帯を引き抜いて、あらわになった少年の胸をまさぐった。
「私とて、このようなことは初めてでございます。でも、鹿や犬や、獣たちを見ていれば人も同じようなことをすれば良いのだとわかるではございませんか」
「女は……」
山部は明信の両手を押さえ付けて、豊かな乳房に唇をつけた。
(女は……。皆自然を友としているものなのだろうか)
初めて知る女の身体の湯のような暖かさに、山部は沈んでいった。
明信が何か叫んだようだった。山部は柔らかい肌をむちゃくちゃに掴み、こねくり回しながらその感覚の中に、何かを探そうとしていた。
それが、何かは解らない。
山部を吸い込む昏い波のうねりが、山部自身も気づかぬ何かのなかに、誘い込む。
采女は山部の奏でる五弦の琴にうっとりと聞き惚れている。
(頃合は、よし)
山部は琴を置くと横から近寄り、采女の肩に流れる豊かな髪にそっと触れた。
「見れば見るほど、美しい髪だな」
采女がびくりと身を震わせて、顔を覆った。
「あまり見ないでくださいまし。恥ずかしゅうございます」
「そんなに美しい髪を見ずに済むなんてことがあるものか。私はいつもおまえだけを見ていた」
髪からうなじへ、胸へとそっと手を移動させる。采女は抗わず、やがて山部の手に身を委ねた。
「山部さま、お飲み物をお持ちしました」
明信の声がした。腕の中の采女が慌てて肩から滑り落ちた領巾を直そうとした。
「構わぬさ」
山部は女の動きを封じようとして領巾ごと抱きすくめる。
入ってきた明信は眉をぴくりと動かしたが、それきり牀の上は無視して横の小さな卓の上に盆を置くと、足早に出ていった。
ことが終わって山部は井戸端に出ると、上半身を拭き始めた。洗濯物を頭に乗せた明信が通りかかった。さっき飲み物を持ってきたときの華麗な衣装を脱ぎ捨て、下着である白い下裳の後ろを、股下から前に回して帯で挟んでいる。はした女のように健康で、軽快な姿だった。
張り切った脛がまぶしい。
「明信よ。忙しいのか」
明信が足を止めた。
「見ればお分りでございましょ。何か御用でございますか」
尖った口調である。
「いや、忙しくなければどこかに行こうかと思ってな」
「私はあなた様と違って忙しい身の上でございますゆえ」
「何を怒っているんだ」
「なんでもございませんわ」
「何か間違えているのではないのか。あの采女は戯れにすぎぬ。私はそなたを妻として大事に扱っているつもりだぞ」
「そうおっしゃって、あなた様のお大事な御妻は何人いらっしゃるんですか」
明信が篭を足元に音をたてて置いた。両手を腰に当ててつかつかと近寄ってくる。
「あなた様にお仕えして四年がたちましたわ。しかしその間あなた様のなさることといったら狩りと恋ばかり。もう十七におなりでしょう? いったいこれからどうなさるおつもりです」
「嫉妬か? そなたらしくもないことを」
「そんなことではございません!」
明信は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「私はただ、あなた様の将来を楽しみにしていただけです! あなた様の御器量ならいずれ帝にもおなりだろうと幼いときから思っておりました。あなた様にお仕えできたときには本当に嬉しゅうございましたのに」
「埒もないことを。私が廃れ皇子の息子であることくらい知っておろうが」
明信の顔がくしゃくしゃに崩れた。彼女は洗濯物の篭を小脇に抱えると、山部には目もくれずに歩いていった。
彼女の姿が視界から消えると、入れ違うようにして近くの馬小屋の中から雄田麻呂が出てきた。
「さすがは百済王氏の宗家の姫君ですな。山部王様を叱りつけるとは」
「役に立たぬ従者だな。いるなら加勢してくれてもいいじゃないか」
「君さまも、お身持ちが悪いから」
子供の頃からの主従、というより友人のような心安さで雄田麻呂は軽口を叩く。
「畜生、狩りにでも行くか」
そう口に出してから、山部はさっきの明信の「狩りと恋ばかり」という言葉を思い出して、舌打ちをした。
「明信の奴……」
よく解っている。
しかし雄田麻呂はぶつぶつ云っている山部には頓着なく、小者を呼んで馬と犬の準備を命じてから、自ら弓矢を携えてきた。
犬どもの吠えたてる声。緑のざわめき。鹿の荒々しい息遣い。透き通った風。
山部は流れの中に犬と共に鹿を追い詰め、その首に矢を突
き立てた。水の中に血が流れて、鹿の瞳からゆっくりと光が失われていく。瀬の中に立ってそれを見つめていたら、なぜか女の断末魔を見つめているような気がして、山部は後の処置を雄田麻呂に任せ、足を拭った。
大地の上に引きあげられた鹿は大きく、まだ若いのに、流れるような身体の線がひどく優雅で品があった。
「これで三匹目」
雄田麻呂の声は誉めているのか呆れているのかよくわからない。
「交野に鹿がいなくなってしまいそうな」
「そうだな、私が捕り尽くすかもしれないな」
小者たちが鹿の皮を剥ぎ、脚の肉を焼き始めた。その匂いを嗅ぎながら、山部は疲れを覚えて草の上に座った。
「私は鹿が走るのを見るのが好きだ。どうしてもこの手に捕らえたくなる。しかし終わってしまうといつも何か足りない気持ちにさせられるのだ。女もそうだな」
「そうやって、鹿も女もいなくなると」
雄田麻呂が冗談を云った。
山部は大の字に寝転がった。
「そう、いつかそういうときがくる。そのとき……」
風が頬を掠める。春の風は包み込むようにやさしいが、清澄で少し冷たい。。
「畜生、私にはもうやることがないんだ」
ふっと、影がさした。雄田麻呂の顔が山部を覗き込んでいた。
「何だよ」
気楽で小狡そうな、とても名門藤原氏の御曹司には見えないような普段の雄田麻呂が、跡形もなく消え失せていた。細い目と、尖った頬骨の線が、不気味なほど冷酷に見えた。「私は、そうは思いませぬ。私も明信殿と同じ、山部さまこそは天皇にもふさわしい御方と思っております」
「何を云ってるんだ……」
山部は思わず頭をあげて、雄田麻呂をまじまじと見つめた。
「そりゃ、子供の頃はそう望んだこともあったさ。しかし私はもう十七だ。一人前の大人だ。それがどんなに愚かで分を知らぬ望みかはわきまえているつもりだ」
「確かに世が世なれば、風は違う方向に吹いたかも知れませぬ」
しかし風の流れなど、人の力やもののはずみでいかようにも変わるもの。じっと待っているだけなのは芸のない話でありましょう」
皇族は、その血筋で身分を厳然と分けられる。天皇の御子である親王、内親王。その子供も五世までは皇族の内に入り王、女王と呼ばれる。
しかし。
現在親王と呼ばれる存在はいない。聖武の二人の親王はいずれも若くして死んだ。後に残るのは聖武の伯父親王の息子達ばかり。そして今上の女帝は未婚である。
天皇と、父上皇は誰を皇太子に指名するのか。朝廷では水面下で息詰まる戦いが繰り広げられている。
「なるほど、藤家らしい考え方だな」
山部は嘲りを込めて云った。しかしどこかに不快な、それでいて胸の奥底が震えるような昂ぶりのようなものが不意に突き上げてきた。
だが山部は無理に鼻でそれを笑い飛ばした。
「私の母は帰化人だ。忘れたのか」
親王同士など、同列の皇族の間でも血によって貴賎があった。勿論もっとも尊いのは父母共に皇族出身である純血種。その次に位置するのは名門蘇我氏を母とする皇族たちだったが近年藤原氏の血を引くものたちがそれに取って代ろうとしている。今上の女帝の母は光明皇后と讃えられる、藤原不比等の娘だ。いや、藤原氏の血を引いていなければ天皇にはなれないというものさえいる。
そしてその下に安倍、紀などの中央豪族。長子であるとはいえ、百済から来た帰化人を母に持つ山部など問題にもされない存在である。
雄田麻呂は派手に笑った。
「山部さまともあろうお方が、お気のお弱い」
「気の弱いと分をわきまえたは違うわ。おまえこそ何をほらを吹いている」
「さァ……。ほらのままで終わるか現し身になるか。私たちには力があるのです。その力を使わずに終わってしまうのはあまりに勿体ないと、私はそう申しているだけで、さて」 雄田麻呂は意味ありげにめくばせをしてみせると、さっさと立ち上がった。
「向こうで呼んでます。鹿が黒焦げになっちまいますよ」
「そうだな」
だが山部はすぐに行こうとせず、さっき鹿の血が流れた瀬で顔を洗った。汗が流れていくのと共に、さっきの不快な感覚も取れていくようだった。
しかしこのとき、彼自身にもそれと解らずにそっと灯った黒い炎は、水に冷やされて消える事も無く、じわじわと燃えひろがり始めていた。誰にも気付かれぬ、山部自身の胸の内で、若い野心を燃料として。
小者たちに曳かせてようよう母新笠の宮まで運んできた鹿は、百済王家や雄田麻呂の実家藤原式家などに分けても余った。
「どうしましょうね」
新笠が嬉しい悲鳴をあげる。
「父上は今夜はどちらに」
山部は幼い弟早良を抱いている侍女に訊いた。
「内親王さまのところと存じます」
「それではそちらにお届けを」
新笠が云った。
「私が行くのですか、母上」
「その方が父君もお喜びでしょう」
そのとき山部の頬をさっと複雑なものがかすめたのを、雄田麻呂は見逃さなかった。
夕暮道を馬でとぼとぼ歩きながら、彼は口に出した。
「この道をたどると、あのことを思い出しますな」
「何がだ、雄田麻呂」
山部は機嫌が良くない。
「内親王さまを見に行くと、君様がきかなかったことがございましたでしょう」
「ああ……、昔の話だな」
「内親王さまは美しゅうございましたか」
「やかましいわ」
あの頃のことを思い出すのは、山部も同じである。道がにわかに女の領巾のような霧に包まれ、その彼方に不思議な甘やかな手招きが見えるような、そんな気がする。
(どうして忘れることがあろうか)
井上内親王の一挙一動、ほそい肩、髪のかたち、白い顔。山部は以前から追い掛けてきた何かが、急に形を持っていくのを感じた。
白壁王の抜いた、金の簪-。
そのきらめきが、雲の隙間から漏れる、蒔絵のような夕日の光と混ざり合う。
侍者の先触れがあったので、井上内親王の宮の者も山部たちを丁重に扱った。
案内された部屋に入ると、庭に面した廂の間と部屋の間に立て回された几帳が風に軽く揺れ、それと共に藤の香りがさっと入ってきた。
「父上は」
「廂の間でお妃さまと双六をやっていらっしゃいます」
「それではしばらくお目どおりができないな。父上は双六となったら何もかも忘れてしまうもの」
「ホホ、そうでございますね」
この宮の侍女が、甘酒と木の実を運んできた。それを飲み食いしながら、山部は座り、几帳の向こうの物音に耳を澄ませていた。傍らに、雄田麻呂が控えている。
「山部が来ている。最後の一番だ」
白壁王の声が聞こえた。
「御長子の、山部どの?」
まろやかな、声音。山部は思わず身を震わせる。
几帳の向こうは明るく、二人の姿がそこはかとなく窺えるのだ。
「おいくつになりまして?」
「十七になったところだったかな。自分で捕った鹿を持ってきたそうだ」
「勇猛でいらっしゃる」
「そうだな……。よし、今度こそは。どうだ、何か賭けぬか」
「何をでございましょう」
「よし。儂が勝ったらそなたのところの若い采女、ほら、坂刀耳女といったな、あれを貰おう」
「まあ、何ということを。それなら私も勝ちましたら若い男の方を頂きたいわ」
「それは大変だ。ぜひとも勝たねば」
しかし白壁王は、山部がひそかにはらはらするほどついていない。
「まあ、畳六(十二)ですわ」
井上内親王の明るい声が聞こえた。
「ほらもう、こんなに私の駒石は進みましてよ。もうすぐあなた様の陣に入りますわ」
「いや、まだまだ」
白壁王が姿勢を正す。
「畳六出ろっ!」
賽の入った竹筒を頭上高く振り上げた、一瞬ののち。
井上内親王が口に手を当ててホホと笑った。
「私の勝ちですわね。さ、お若い方を世話してくださいまし」
その言葉が何故か山部の胸を刺した。
ぎこちなく男の胸に抱かれていた前斎宮は、三年たって男に馴れ、軽口すら叩く。
(ああ、もはや神の御妻ではない、人の妻なのだ)
それに思い至ったとき、山部は、自分の身の内から、荒々しい、いたたまれぬような欲望が浮かび上がってくるのを感じた。
藤の花はいよいよ強く匂ってくる。
そのとき、几帳の垂れをめくって白壁王が姿を現した。
勿論、井上内親王は後に続かない。夫の長子とはいえ、他の妃に生ませた息子の前などに挨拶に出てくることはしない。
「山部よ、済まぬ。つい待たせてしまった」
采女が竹の皮に包まれた鹿肉を示す。白壁王はそれを見て、
「おお、これは良い肉じゃな。新笠の云う通り、そなたの武勇は大したものじゃ。よし、妃に食べさせて、残りは今宵の宴に持っていくとしよう」
「どなたの宴でございますか」
部屋の隅の暗がりに、雄田麻呂がいた。
彼はまるでうずくまる猫のように見えた。切れ長の眼が、白く光っている。
「ん? 雄田麻呂か。そなたの従兄、大倭守藤原永手殿よ。山部、おまえも来ぬか。永手に倅の自慢話をしてやりたい」
「いえ、父上」
山部は思わず云った。その瞬間、雄田麻呂と目が合った。
雄田麻呂の目が魚の鱗のように、油っぽい虹色に光っている。
そして山部は、自分にそう口走らせたものを、理解したのだ。
瞬間、新たな鹿の出現に、我を忘れた。
「途中までお送りいたしましょう。来い、雄田麻呂」
すらすらと言葉が出てくるのに、山部は自分自身驚く。何者が云わせているのだろう、とどこかで冷静に、自分自身がいぶかってさえいる。
夕暮は紫草で染め上げたように濃くなっていく。
山部は父親を馬で行かせた。酔えば馬では帰れまい。
井上内親王の宮から、平城京の入り口まではずっと桑畑が続いていた。父の姿が京の門の内に消えると、山部は振り返った。
馬上の山部の身体から黒々とした影が、後に控えている雄田麻呂の、馬の足元まで伸びていた。
「雄田麻呂よ」
山部は決然と従者の名を呼んだ。
「私はこれから内親王の宮に戻る」
雄田麻呂はただ微笑していた。
「おまえはこれから私のしようとしていることが解っているのか」
「はい」
「父上の御妻だぞ、内親王だ」
「我が国の史書をお読みあそばせ。義母皇后と通じた息子、斎宮を犯した東宮、帝の死後とは申せ、その御妻に子を生ませた我が祖父-何とも、よくあるたこと」
「そんな事じゃない。そんな事は私とてよく知っている。そんな事じゃない」
桑の葉が、海のように風にざわめいた。
雄田麻呂は表情一つ変えなかった。
「おっしゃられる事がよく解りませぬな。ただ、君様の御心のままにと、申し上げております」
山部は返事をしなかった。馬に鞭を当てた。次第に遠ざかる桑の匂いが、ひどくなまなましく感じられた。
寝所は普通、屋形の中央に造られており、部屋の壁を全て土で塗り込められている。その中に絹の帳の垂れた帳台が置かれている。手探りで山部はその中に忍び込んだ。
半刻もたったろうか、闇に馴れた眼は不意に灯った灯りに驚かされた。
「宿直はよい、白壁王さまはいらっしゃらぬのだから」
穏やかな、井上内親王の声が低く響いた。
灯りが帳の傍に置かれた。衣擦れの音。山部が帳の隙間から顔を寄せると、しどけない白絹の寝衣姿になった内親王のか細い姿が、ようよう見て取れた。その身の動きの弓のようなしなやかさに、山部は心を奪われた。
その姿が近付いてくる、そのわずかな時。それは、山部の初めて知る、未来永劫のごとく長い時。
帳を開く白い手を、山部は掴んだ。
内親王は反射的に飛び下がろうとした。その細い腰を山部は素早く抱きかかえ、帳台の中に引きずり込んだ。そして叫びの形に開かれたその唇を、手で塞いだ。
「お静かに」
山部は己れの手の隙間から見える内親王の、黒目がちな大きな瞳に見入っていた。
「軽々しくお騒ぎになられぬよう。私は白壁王さまからあなた様へと使わされた、御所望の若き者にございます」
内親王は山部の腕の中で身をよじった。山部の手をやっと外し、
「偽りごとを申すでない。あなたは山部王どのですね。このようなところまで踏み込まれたのは私の油断。人は呼びませぬ-だからお帰りなさい!」
その姿は薄い寝衣一枚ながら威厳に満ちていた。山部は少しひるんだ。だが、すでに獲物は彼の手中にあった。
「帰りませぬ。以前からお慕いしておりました。やっとあなたを捕まえることができたのです」
「なりませぬ」
制止の言葉など、恐いとは思わない。山部は様々な女の表情を知っている。このようなとき女は、まさか、と思う。まさか男が本気の筈はないと。男の名を考え、自分の名を考える。落ち着こうとする。戯れならば、騒いで名を落とすのはいつも女だ。
悟ったときは手遅れなのだ。
「私は、ただあなただけを夢見ていた」
そう云うと、山部は力を込めて内親王の両腕を押さえつけた。
「最早あなたは私のもの。この一夜を、共に夢といたしましょう……」
油を吸い尽くした灯火の光が消える。
内親王の髪が乱れる。
声を立てるまいと噛み絞めた唇から、耐えかねた声が漏れる。
(それでいい)
山部は内親王の身体中に愛の刻印を打つ。
男とはこういうものだ。それを、老いた夫しか知らぬ身体に教えて上げよう。
(他に、私をあなたの内に残す方法がないのだから)
宿願が叶うとはこのように甘美なものなのかと山部は思う。それはかすかな罪の痛みとあいまって、かつて知らなかった恐ろしい陶酔の幻のなかに、山部を誘う。
藤の花の匂いが、鼻をついたような気がした-。
まどろみがゆっくりとほどけ、山部は眼を開けた。
銀色の閃光。
それは、井上内親王の震える指先に握られた短刀。
武人である山部の動きは素早かった。内親王の手ごと短刀をひっつかむ。しばらく音のない格闘が続いた。やがて、短刀が床に落ちた。
「なぜ、このようなことを。……私をお許しくださらぬのか」
井上内親王は床の上に半身を起こし、唇を噛んでいる。そこに妻戸から漏れる暁の光がさす。
改めて近々と見た彼女は、山部の母のように老けていた。美しいが地味な容姿で、まぶたはややたるみ、白い肌は柔らかだが張りが失せていた。小柄で、さっきの揉みあいではだけた白い衣の肩に、もつれた黒い髪が落ちている。着物の懐からかすかに覗く胸は垂れていた。しかし、こぼれそうに大きい瞳が強い光をたたえてじっとこちらを窺っている。そこに涙が盛り上がり、落ちた。
「あなたには一夜の夢。しかし私にはそれは悪夢」
「私は-」
山部は口にすることができない。自分はいったい何をしようとしたのか。
内親王の唇が再び動いた。低く、重い声が漏れた。
「あなたを殺めることができなかった。ならば、心の中で殺めることにします」
「嘘だ」
山部は内親王の小さな身体を抱き締めた。
「あなたは私を受け入れてくれた。私の指に声さえたてた。それなのに、お心のなかにすら私を留めぬとおっしゃる。なぜだ、なぜだ、なぜ-」
内親王は、山部の腕の中で顔を背ける。その身体はこわばり、山部の愛撫を固く拒む。 山部の頬を冷たい涙が伝わる。それを見ても内親王は何も云わない。時だけが過ぎ。
「……帰り、ます」
山部は内親王の身体を突放した。内親王は声もなく床の上に座っていた。
目立たぬところに雄田麻呂が馬を携え待っていた。
「首尾は、いかがで」
山部は雄田麻呂から顔を背けて馬に乗りこんだ。泣いているのを、見られたくなかったから。
二、三ヵ月もたって、白壁王が交野の館に訪ねてきた。新笠が慌てて上等の酒や肴の手配をする、その気配で、文殿(書庫)にいた山部は父の訪れを知った。
ややあって雄田麻呂が呼びにきた。
「ご挨拶なさいませ」
「億劫だ」
それだけ答えると山部は再び顔を埋めていた書物に戻った。
「いえ、少しだけでも父君にお顔をお見せしなければなりませぬ」
雄田麻呂は強く奨めた。
「いやだ。下がれ」
「なりません。母君も、父君も妙に思いましょう。ただでさえ君様は、お変わりになられた」
「そうか?」
ただ、狩りにいく気も、女を抱く気も起こらぬだけだ。身体を動かすことをしたくない以上、退屈を紛らわすには書物が絶好だ。それだけではなかったが。
「いえ、君様以外の者が知っているのは、君様が近頃ばったりと狩りにいかなくなり、書にばかり親しむようになったということ。それを内親王さまの宮へ行かれたあの日と誰かが結びつけて考えるようになったらいかがいたします、それだから父君と顔を合わせぬのだなどと取られたら」
山部は仕方なく腰を上げて、膝の上に積もった埃を叩いた。
白壁王は、新笠の酌で冷たく冷えた白い濁り酒を飲んでいた。
「近頃勉学に励んでいるようだな」
白壁王は、山部の手にしている巻き物に目を止める。
「私も、いずれは朝廷に仕える身。いつまでも遊んでいるわけには行きませぬ」
「はっはっは、そうだな。頼もしいことな」
白壁王が新笠を訪ねるのは本当に久しぶりのことだ。といっても三人の子をなした新笠の許には寄り付いているほうである。もう一年も立ち寄ってもらえない妃は何人もいる。この頃ではもっぱら白壁王の居所は井上内親王の宮-それを思うと山部は嫉妬に燃えるのだ。
あの華奢な身体を夜毎父は愛でるのだろうか。
今以て生々しく蘇る、肌の暖かさ。
今すぐにでもその感触を思い出すことができる。
夢に訪れては床の上の山部を苦しめる。
もう二度とあのようなことは起こらぬのであろうか……。白壁王が夜、内親王の宮を離れることはない。文を送っても返事はこない。夢から醒めた後の夜の長さをいつも、山部は褥を握り締めて耐えるのだ。
「いつもながら、ここの酒はうまいな」
白壁王は、杯の底まで舐めるようにして飲んだ。
「百済のものたちの技術と財力が忍ばれる」
「お褒めに与りまして」
新笠はもう一杯注いでやった。それに勇気づけられたように、白壁が語調を改めた。
「実は新笠よ、厚かましい頼みがある」
「何なりと」
「実は-。井上内親王が、子を宿した。だが里の県犬養家は、不破内親王の失脚で、今お手元不如意なのだ。早良の産着などがまだあったろう、あれを届けてやってくれぬだろうか」
山部の耳元で、銅羅のような音が鳴る。
「それはおめでたいこと。お安い御用でございますわ」
という新笠の声も、
「いや、我ながらこそばゆくて堪らぬ」
という白壁王の声も、途切れとぎれにしか聞こえない。
心の臓が破れそうに踊り、山部はやっとのことで口実をもごもご口にすると、よろめきながら文殿に逃げ込んだ。
女は契れば子をはらむ。
そんな当たり前のことに思い至らなかった。
「私は、父上の妃と不義をした……」
山部は両手で顔を覆った。その表紙に袖が書の山に触れ、巻き物がくるくると解けて床に転がった。山部はその中に倒れこんだ。
「そのようなこと、お口になさらぬよう。誰が聞いているかも解りません」
静かな声がした。
「雄田麻呂、そなたか」
山部は雄田麻呂を見ずに呟いた。
「そなたの主は罪を犯した。父上の妃と契ったのだ。私は恋に目が眩んで気付きもしなかった。ああ、そればかりでなくあの方をも陥れてしまった。あの方に罪はないのに。さぞかし、恐れおののいている事であろうな……」
「お気をしっかりもたれて。未だ誰も知ってはおらぬ事です」
雄田麻呂の口調がいつもと違った。山部はそれをどこかで聞いたことがあるような気がした。
(あの日だ。狩りをしていたとき。こ奴が、私のことを帝にもふさわしいと云ったとき) あのときは笑い飛ばした。しかし今は、身体が震えた。
若い山部の知ることのなかった、天の重い世界が落ちかかってきたのだ。
「私は、却って良いと思っているのですよ」
雄田麻呂が、平気な顔でとんでもないことを云った。
「何故か」
「君様が、もう狩りと恋の他にすることがないと嘆いていたことを、昨日のように思い出します。あの時、何という情けのないことをおっしゃるのだと私は思った。お若いながら虚しいことをお考えになると。
しかし、ご立派に、なさることができたではございませんか。御身と内親王の御名を守るという」
次の瞬間雄田麻呂は、巻き物の上に転がっていた。山部は立ち上がり、殴った手に息を吐いた。
「それが、おまえが私を止めなかった理由なのだな。藤家の御曹子め、そなたの心遣い、有難うてかなわんわ」
「君様の御為と、信じてのこと」
二人は睨み合った。
「下がれ」
やがて山部は云った。
雄田麻呂は去っていった。山部は巻き物の中で膝を抱えて座っていた。日が暮れ、闇が忍び寄る。それでも姿勢を変えなかった。
今は闇ばかりが、山部の友だった。罪と恐怖と。それは雄田麻呂のものでも内親王のものでもない、自分、山部王のみが背負っていかなければならないものだ。
山部は、一つの時代が過ぎ、次の時代の扉が開いたのを全身で感じ取っていた。
白藤の斎宮 じゅり a.k.a ネルソン提督 @Ada_Lovelace
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