第15話 梅鼠色の夜が明ける
なんということだ。というほど、急に春が訪れ、街のあちこちで花が咲き乱れ、気温が一気に上がり、その変化に付いて行けず、人が町のいたるところに腰を落としてため息をついている始末だ。
昨日までうす紫がかった灰色の空が今日はすっかり春らしい青空に変わっている。
暖炉も今日は火を入れなくてよさそうだった。
数日ぶりにエレノアが訪ねてきて、少し不服そうな顔をしていた。
「新聞を読みましたわ。もう、すっかり片付いたんですね。側に居たかったわ」
というので、「いやぁ、畳みかけるように呆気なく事が進んだんだよ。まったくね、苦労して探しているうちにはいつ終わるかと思うが、終焉というのは得てしてあっという間なんだよ」とサミュエル
「もし、あの時の万引きがマイルズのところで血を売らなかったら、事件はまだ解決していなかったんだからね」ロバートはハムエッグをかじりながら言う。
「結局娘さんの容態もさほど悪くはないのでしょう?」
「ああ、年頃にしては痩せすぎていたが、ちゃんとした食事を与えさえすれば美人になると思うよ、診察室にあった亡き母親は相当美人だったからね」
サミュエルの言葉に少しホッとするような顔をする。
「それにしてもスタン伯爵を殺したのは誰だろうね?」
ロバートの言葉に「マイルズさんじゃないの? 確かに否定はしているけど」と言った。
「サミィはどう思う?」
「僕は別人だと思うよ」
「なぜ?」エレノアが不思議そうに聞く。
「マイルズはキディーをナイフで刺した。あとをつけられ、困った彼が口封じにした理由は解る。だけど、通りでよく合う貴族。という顔で居れば無関係を装える。まぁ、実際は関係があったが、お互いのアリバイ証言に使えるから、言い換えれば生きていたほうがいいんだよ。少し離れた場所でお互い声を聴いたが、どこで聞こえたか解らなかったとかね。
だが、スタン伯爵は殺されていた。メイドもだ。
キディーを殺したナイフではなかった。何で殺した? 絞殺だったんだよ? ねぇ考えてみたまえ。刺殺と絞殺。どちらが早い?」
「ちょっと恐ろしいが、でも刺殺だね」
「そうだろ? しかも、伯爵とメイドともだよ。伯爵が首を絞められている間、メイドが逃げれた距離というのが、庭に出ただけというのはおかしいと思わないかい? もう少し遠くに逃げれるだろう?」
「何か、体が動けなくなるようなものを飲まされたのじゃないかしら?」
「いい案だが、伯爵は家に帰り着いてすぐ、椅子に座って殺されたようだよ。外套を着ていたし、死亡時刻もキディーが殺されてすぐだ。つまり、マイルズと別れて家に入ってすぐになる。
家に帰り、何かを口にするとき、外套を着たままでするかな?」
「脅されたとか? 帰って来て早々に飲めとナイフを突きつけられたとか」
「では、ナイフで刺したほうが早いだろ?」
「あ、あぁ。そうか。じゃぁ、いったい誰が?」
「……ねぇ、僕はあの時、マイルズが娘に輸血しようと構えていた時に、不思議な感覚にとらわれたんだが、ロバート、君は感じなかったかい?」
「……実を言うとね、僕はあの日以来それが気になってしようがなかったんだ。それは、スタン伯爵のところにもいたんだ。よかった、君も気づいていたんだね」
「あぁ。スタン伯爵たちを殺したのは黒い靄のようだ」
「イヤよ、やめてっ」エレノアが咄嗟に立ち上がった。
「怖がらせてすまないが、」サミュエルがそう言ってロバートとエレノアを見た。
二人は自分たちの背後を見たり、お互いを見たが何もないのでサミュエルを見返す。
「何?」
「いや、君たちは、黒い靄を知っているのか?」
「ああ、エレノアと最初に会った夜にあったあれだろ?」ロバートがそう言って、ずぎっとこめかみに痛みが走り抑える。
「……なるほど、僕がうかつにも忘れていたりしたんだね。どうも、忘れていることでいろいろと便利だったようだけど、もう、忘れるべきでないらしいね」
ロバートは苦笑し、いろいろ思い出したようだが、タニクラ ナルについては思い出せないようだった。
「とても都合のいいように記憶が書き換えられ、行動させられているのはなぜだろう?」ロバートはまだこめかみを抑えている。
「多分、先入観のない意見が必要なんだろうね。特に、君たちのようなごく普通の―いい意味で言っているのだから怒らないでくれよ―なんの裏もない人が、黒い靄のことを念頭に入れていろんなものを見ると、嫌でも思考はそっちへ向く。そうでなくて、無関係に物事を見るために、不思議な力だね、どっから出ているのか解らないが、その不思議な力がいいように作用しているようだ」
「頭の中を勝手にいじられるのはいい気分ではないね」
「だが、そのおかげで安全でもある。知っていると、どうしても無視しにくいからね」
「その不思議な力も気になるけれど、とりあえず味方なのでしょう? でも、黒い靄は敵でしょう? もう、現れないのかしら? それとも、マイルズさんと一緒に捕まったから、安全?」
エレノアの言葉に二人は何とも言い難そうな顔をした。
確かにマイルズを逮捕しに踏み込んだ時、マイルズの体を取り巻くように黒い靄が絡んでいたが、彼が大人しく逮捕に従った時には消えていた。見えなくなっただけかもしれないが、嫌な気配も同時に消えていた気がする。ただ―あの時、説得やら、逮捕やらで騒々しくてゆっくり観察できなかったので、何とも言えないのだ。
エレノアが近くに春の市が建っているので行こうというので、散歩にはいい季節だしと、三人は気分良く街に出た。
日差しがキラキラと降り注ぎ、窓ガラスに反射し、本当にキラキラとしていて気分がよかった。
春の市にはやっと色とりどりの花が並び、野菜や果物が盛りだくさん存在し、子供たちが駆け回っている。
「ねぇ、ご存知ですか? 本当の悪というのは、善人ぶっているものですよ」
ざわっとサミュエル、ロバート、エレノアの側が一瞬で氷が走ったように寒くなった。辺りを見渡したが何もない。
遠くの方に、教会の聖職者の一団が歩き去っているのが見える。学校帰りの子供たちが彼らにあいさつをしてすれ違う。子連れの夫婦や、老夫婦。走り回る子供たち。若い男女。公園の午後の風景しかない。
「号外! 号外! 先ごろ捕まった殺人鬼マイルズが牢内で死亡! 同じ牢屋内にいた別の囚人に噛みつき、肉を食いちぎろうとするのを、他の囚人、看守により引きはがされている最中で殴り殺された模様。号外、号外だよ」
三人は一斉に嫌な気配を感じて空を仰いだ。
黒い靄が笑顔を浮かべてたなびいているように見えた。
―あいつはどこへ行こうとしている?―だが、靄は瞬間ふっと消えた―。
梅鼠(うめねず)色の夜が明ける~一大陸七国物語・宋国 松浦 由香 @yuka_matuura
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