第5話「正体」
薄暗い部屋に、彼と男はいた。部屋にはカーテンから漏れる微かな明かりしかない。男はふつふつと怒りがこみ上げてくるのを感じていた。
「どうして、行動しないんだ? お前がやらないならオレがやる」
「解ってる……」
ギリリッと歯を食いしばる音が部屋に響く。
「解ってる……次、“来る”時には必ず……」
「お前だって、欲しいんだろ……」
「……それは……」
彼は、女の香りを思い出して背中がゾクリと震えた。
あの香りには耐えられなかった。甘美過ぎる。どんなに美味なのだろう。そればかりが気になった。
クラクラとする頭を左右に振り、彼は雑念を払う。
「駄目だ、俺は……」
「……化物だよ、お前も」
男は彼にピシャリと言い放った。
その声色は淡々としたもので、男の事をよく理解している彼でさえ驚くほどだ。
男はカツリカツリと窓に近づき、一気にカーテンを開け放った。
「さぁ、狩の始まりだ!!」
*****
椿と愛莉は小さな喫茶店のドアを潜った。耳に心地よいジャズが流れてくる。
店員に席に案内され、二人はアイスコーヒーを頼んだ。
「それで、家系の事って一体……?」
「姉さんは、『
「何? それ?」
「……あるプロジェクトの名前なんです」
「プロジェクト……?」
「えぇ……それに兄様……誠志朗兄様は加わっています」
「お兄ちゃんは、公務員でしょ? その中にそういったものが……?」
疑問だらけの愛莉はただただ、椿に質問をぶつけるだけだ。
椿は、それに丁寧に答えていく。
「いいですか。兄様は公務員ですが一般の方々とは違います。そのプロジェクトの一員で、一つの事件を追っています」
「事件……」
「それが、私たちの住んでいる矢葺町で今現在起こっている事件です」
「えぇっ!?」
他の客が一斉に愛莉に注目する。愛莉は真っ赤になりながら小声で、椿に問うた。
「どうしてお兄ちゃんがあの事件を追っているの?」
「……あの事件が、私たち家系に関係しているからです。プロジェクト『錆浅葱』は烏丸家で立ち上げた団体で、兄様はそこであの事件を起こしている張本人の行方を追っているんです」
そういえば、椿の父親は政府のお偉いさんだったな、と愛莉は思い出していた。
「私たち家系は代々ずっと今回同様の事件を調べているんです」
「どうしてそんなに……」
「……人間の仕業ではないからですよ」
その言葉に愛莉は、深沖祐子の通夜での事と、先ほどの本の存在を思い出した。
そして、凍りつく。
「ま、さか……そんな……」
「私たちは、代々狼男…『人狼』という存在と敵対関係にあります。それは、一颯……姉さん、貴方の血が関係しています」
「私の血? 人狼……?」
何もかもが信じ難い事実だった。
愛莉の頭はパンク寸前で、理解する事が出来ずにいた。椿は真剣な表情で愛莉を見つめる。
「私の血って、どういう……」
「貴方たち一颯の『血』が、獣を惹きつけるから……佳代さんも、人狼に狙われました。けれど、姉さんを出産し、その血は姉さんが引き継いだ」
椿の口元が徐々に緩んでいく。
愛莉はそれに気付く事なく、自問自答を繰り返していた。この、映画のような話を簡単に受け入れる事は難しかった。
「次は……姉さんが狙われる番なのよ!!」
一際大きく椿の声が店内に響く。
客はちらちらとこちらを伺っていたが、特に気にする様子もない。
愛莉は驚愕して、パチパチと眼を瞬かせるのみだ。
「取り乱してごめんなさい。姉さん、私と一緒に来て」
「えっちょ……」
注文したアイスコーヒーが来る前に、椿は愛莉の手を取り店を後にする。引っ張られる形で歩く愛莉は何度か足が縺れたが、転ぶ事はなかった。
二人は矢葺町へ向かうバスへと駆け足で乗り込む。どうやら椿は故郷へと戻ろうと考えたようだ。車内では、二人とも口を聞くことはなかった。
愛莉は、椿から聞かされた事を整理する為、メモ帳にひたすらペンを走らせる。
まず、一颯家の『血』。それが、獣を引き寄せる。
そして、『人狼』。これは、昔から一颯家と敵対関係にある。
次に、『錆浅葱』。一颯家の分家である、烏丸家が組織している国家プロジェクトで、『人狼』を追っている組織。
そこまで書き終えて、愛莉は疑問に思った。人狼とは一体どういった人なのだろうと。
椿に聞こうにも、俯いていて眠っているのかもしれない、と思うと容易に声を掛けるのは憚られた。
うんうんと考えている内に、バスは見知った風景へと変わった。もう直ぐそこが、矢葺町だった。
バスから降りると、椿はまた愛莉の前を歩き、愛莉はその後を追った。そして、あの小さな公園で椿は立ち止まる。
「ねぇ、椿ちゃん。人狼って何なの? 本当にその名前の通りの……」
辺りはもう、真っ暗だった。やはり、人なんて見かける事はなく、彼女ら二人だけだ。愛莉は椿に問いかけた。だが、答えが帰ってくる事はない。
「だから、姉さん自身の目で確認すればいいわ」
「え?」
背後から、砂を踏む音が聞こえた。振り向いた瞬間、唖然とする。
何故、彼が此処にいるのだろう。
「市瀬、君……?」
「……っ」
市瀬の頭上高くには、満月がその存在を主張していた。愛莉は訳が解らずに市瀬の名を呼ぶ事しか出来ない。市瀬の表情を読み取る事は難しい。ただ、ゆっくりと市瀬は愛莉の元へと近づいてくる。
椿の方を見ると、勝ち誇ったように笑っているだけだった。
「市瀬君こんな所でどうしたの?」
「姉さんだってもう解ってるでしょう? そいつが『人狼』なのよ!!」
椿が言い放った瞬間、市瀬は有り得ない速さで愛莉へと駆け寄った。雄叫びは、人間のものと思えない程、大きく響く。月の光を浴びて、それは姿を現した。
愛莉の心は恐怖で一杯になる。
獣だ。
大きな犬のような獣が愛莉の前に立ちはだかった。
「あははははっ!! さぁ、久狼! その女をズタズタに引き裂いてしまいなさい!」
「……キミはいつオレたちの上に立つ存在になった?」
冷たい声が聞こえた。愛莉は椿を見やる。
そこには、背の高い男がいた。双眸は充血していて、瞳孔が開ききっている。ブロンドの髪に、すらっとした手足。特徴的なのは、犬歯があまりにも鋭い事。
男は椿を羽交い絞めにした。信じられない、という表情で椿は男を見つめる。
「どういう事よ!? 貴方は私の味方なんでしょ!? ずっとずっと味方だって……」
「馬鹿は役に立つから大好きだよ」
微笑んで、椿の唇に自分の唇を重ねる。だが、椿は目を見開いて絶叫した。
ダラダラと彼女の口から鮮血が流れ出す。椿は、男を引き離そうと必死にもがいた。だが、男の力が強いのかびくともしない。それよりも、愛莉は男の方に惹きつけられた。男は、流れ出る鮮血をペロリと舐め上げ、口内に残った血をも喉を鳴らして飲み干したのだ。
狂っていた。この場すべての者が狂っていた。椿はそれ以降大人しくなり、男の腕の中で事切れてしまったかのようにびくともしない。
「もしかして死……」
「死んでなんかいない、加減はしてある」
そう言って、男は椿を投げ捨てるようにして、愛莉の元へと近づいてきた。
椿はその場に倒れ込んでしまって、起きる事はない。愛莉は、自分が動けなくなっている事に気がついた。それは恐怖からなのか、それともこの男の手によるものなのか解らなかった。
「何が、目的?」
キッと男を睨み付ける。
男は、軽く鼻で笑い、愛莉の前まで来て立ち止まった。
「……お前、だよ。アイリ……」
「っ近づかないで!!」
「クッ……あははははっっまだ気付かないの?」
「え……?」
可笑しそうに男は高らかに笑った。訳が解らず、愛莉はポカンと男を見つめる。
「最高だね、くろーホント、この女最高だ!」
「……もしかして、貴方……」
「この姿は二回目、かな。アイリ、そう、ボクだよ。キアだ」
絶望するしかなかった。そして、理解が出来なかった。
何のために? この人は、誰?
「ほんっと、こんな匂いプンプンさせて……誘ってるの?」
「なっ何の事よっ!」
耳元でキアが囁く。その声色は、愛莉の知るキアのものではなく、知らない男のものだった。こんな、体の芯が痺れる様な声を愛莉は知らない。キアは愛莉の匂いが甘美なのだと、とても美味しそうなのだと告げた。
「貴方も……『人狼』なの?」
「さぁ? どうだろうね。そろそろ後ろの誰かさんはガマンの限界、かな?」
「え……」
ビリッと布の引き裂かれる音がした。愛莉は、ただ呆然とそこに立ち尽くすのみだ。真下に顔を向けると、胸元の服が引き裂かれていて、少量の血が流れていた。
恐怖しかなかった。こんな物は現実じゃないと認めたかった。愛莉はゆっくりと市瀬を見つめる。そこには、ただの獣しかいなかった。ギラギラと貪欲なまでの瞳がこちらを見つめるだけだ。
叫び出したいのを必死に堪えて、愛莉は市瀬を見やる。そこに、市瀬の面影を探して。けれど獣は、獣でしかなかった。
毛むくじゃらな体。地面に着いた四本足。尻尾、耳、鼻……。もう、人間ではなかった。月明かりで銀色に光る毛はキラキラと輝いて綺麗なのに、獣の心は食欲に支配されている。
獣が愛莉に飛び掛ろうとしたその時、一台の車が獣に体当たりをした。悲鳴を上げて、獣は車へと獲物を変える。
「愛莉!!」
「お兄ちゃん!?」
車の中から現れたのは、兄の誠志朗だった。黒いスーツに身を纏い手には拳銃を握っている。
「愛莉から離れろ化物!!」
バンッと一発、獣に向けて発砲する。獣はそれを上手く交し、誠志朗睨み付けた。
「今日こそお前の息の根を止めてやる!」
「お兄ちゃん!!」
「愛莉っこっちへ来い!!」
狼涙 奏 ゆた @yuta_k73043
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