第10話 着地点とゴール
とある清々しい水曜日の朝。
週の真ん中は憂鬱でもあるが、ここ数日は残業もなく定時で帰宅でき、こなすべきスケジュール表も少なく、兎月はゆったりした気持ちでデスクに座っていた。
久し振りに十時のおやつでもしよっかなぁ。
いつもは忙しい時間だが、新規に登録するCM素材も珍しいことに少なく、仕事的にも気分的にも少し余裕があった。
コーヒーでも飲もうと給湯室へ向かいかけたその時、亀丸の内線が鳴った。
兎月は足を止め、会話に耳を傾ける。
「えー! マジですかぁ」
亀丸は大袈裟に仰け反り、受話器を持つ手とは反対の手で頭を抱えた。
「……ええ。まあ、それなら仕方ないですから。えーとちょっと待ってくださいよ。えーと……今日は九時に入ってる一本だけみたいですから、明日からなら余裕です」
亀丸の会話を横で聞いていた烏丸が「おいっ」と亀丸の肩を掴んだ。
「何の話だ? 緊急差し替えか?」
問われた亀丸は「え?」と一瞬驚いた顔をしたが、「そうですが……?」ときょとんとした表情に変わった。
「ちょっと代われ」
そう言いながら烏丸は強引に受話器を奪い取った。
察するに相手は大阪支社だな?
となるとアレかな?
今朝ニュースでタレントが不祥事起こしてたヤツか。
あのタレント、G社のCMに出てたし。
ってことはG社のCM差し替え依頼が来たってこと?
「いつから差し替えられますか?」って訊かれて「明日から」って即答しちゃったんだ。
せめて烏丸さんか鮫島課長に相談すればいいのに。
ま、私は知ーらないっと。
兎月はそう推理して給湯室へと向かい、コーヒーを淹れて席に戻ると、珍しく烏丸が亀丸に熱く説教していた。
「これってうちだけの話じゃないだろ? 全国的な案件じゃないか。物理的にできることと仕事的にできることはまた別だ。物理的にはOA直前でもマスターから手動で差し替えることだって可能だ。でもな、何でもほいほい受ける訳にはいかないんだ。緊急って言ったって温度差があるだろ? それにな、マスターから手動って結構リスキーな作業だから、うっかり放送事故になってみろ。そんなリスクを負ってまで差し替えなきゃいけない案件か? そういうことも考えて行動しなきゃいけないんだよ。だからできるだけ通常の方法で差し替えたい方向で話を進めなきゃいけないんだ。そういう交渉をお前は大阪支社とするべきだし、できないなら俺や課長に一言判断を仰げば良かったんだ」
「……明日からなら通常の作業でできますけど?」
亀丸が上目遣いに反論する。
「だからそれだけじゃなくて、うちだけの話じゃないだろ? 他の局はどう対応するのか聞いたか? 各局今から差し替えるって言うのにうちだけ明日からっていうのはマズイだろ?」
「でもうちはOAもう終わって……」
「たまたまな。それでもちょっと探るぐらいはしておいた方が良かったな」
「でも支社じゃそんな情報は……」
「だから課長に報告して部長に話してもらうってことをしておけば完璧だったんだ。緊急差し替えってのはデリケートな案件だから、俺達だけじゃなくて部長にも報告は必要なんだよ。確かに今回のお前の判断は結果的にはそれで良かったかもしれないが、仕事は過程も大事だ。同じ結果だとしてもこのことを知っている人間は違うだろ? 報告しておかなきゃならない人ってのはいるもんだし、一人で抱えとくより周囲と相談しておけば責任も分散されるしな」
「なるほど」
それまで反論していた亀丸がそこでようやく頷いた。
「あとな、交渉ってのは先に会話の着地点を決めてから話すもんだ。自分はどういう結果にしたいのか、それを念頭に置いて話すと話の持って行き方とか構成は変わって来るだろ? それに相手に流されずに会話できるしな」
なるほど。
亀丸と一緒に兎月も心の中で頷いた。
だから烏丸の電話はいつもスマートなのか、と兎月は振り返った。
いつも簡潔で短くて済む。
さっきの亀丸の代わりに大阪支社との会話も兎月が給湯室でインスタントコーヒーを淹れる間に終わっていた。
それどころか亀丸の説教タイムに突入していた。
「あとな。お前は交渉事だけじゃなくて、毎日の仕事もゴールを決めろ。何時までにこの作業を終わらせるとか決めて作業しろ。最終的には放送の準備をするのが俺達の仕事だけどな、そこに辿り着くまでにはいろんなことをチェックしなきゃいけないだろ? 幾つも小さいゴールを作って一つ一つ達成しながら最終的なゴールを目指すんだよ。お前の場合、最終地点しか作ってないから一つ一つの作業が疎かになってるし、ミスも多いんだよ。細かく設定しときゃ、ミスも減るし、効率も良くなるんだから」
烏丸のここぞとばかりの説教に亀丸はすっかり小さくなって「はいはい」と頷くしかできなくなっていた。
烏丸さんもやっぱり溜まってたんだなぁ。
そりゃ隣でゆっくり作業されてたらイラつくよね。
一時間で烏丸さんは十件も二十件も片付けてるのに、亀丸はえっちらおっちら四、五件しか片付けられない上にミスだらけだったらそりゃちゃぶ台ひっくり返したい気分にもなるよね。
コーヒーを飲みながらうんうん、と頷いて聞いていた兎月は「いいぞ、もっと言っちゃえ」と烏丸を心の底から応援していた。
「確かに俺達の仕事は達成感はない。ほぼチェックするだけの単調なものだし、ミスをしない、事故をしないのが当たり前。常に百点満点を求められている上にだからって褒められることもない。ミスをした時だけ怒られる。でもな、考え方一つで行動は変わるぞ?」
「考え方……?」
「そうだ。何も仕事に限ったことじゃない。例えば兎と亀の話があるだろ? 兎が居眠りしてくれたお蔭で亀は勝てた訳だけどさ、亀って歩くのは遅いけど意外と速く泳げるんだぜ? だったら陸路よりも川や海を行く方が多少遠回りでも早くゴールに辿り着けたかもしれないだろ? 兎が走るからってなにも亀も走らなきゃいけないってことはない。ゴールへ辿り着く方法は一つじゃない」
「でも陸路しかなかったら?」
「例えばの話だろ? 走るって概念がなけりゃ、いつまでたっても歩くことしかしないのと同じだよ。人っていうのはな、いろんなことができる能力を持っていたとしても走ろうとか泳ごうって考えがなけりゃ行動には表れないもんさ。だから考え方を変えれば仕事の効率もミスの量も変わるさ」
烏丸の熱い説教に亀丸はしばし考え込むように押し黙った。
その様子に烏丸は少し言い過ぎたと思ったのか、亀丸の肩を軽く叩き、「ま、何事も自分次第だ」と励ますように明るく言った。
考え方かぁ。
兎月は冷めかけた残りのコーヒーごっくんと飲み干し、マグカップを机の上にたんっと置くと、「よしっ」と気合を入れて壁に掛けられた時計を見上げた。
兎月は毎日毎日亀丸の一挙手一投足にイライラしてる自分がなんだか馬鹿らしくなった。
イラつくならそうならないように亀丸を変えていけばいい。
定時に帰る為に亀丸を上手く使って仕事を終わらせるよう計画すればいい。
そんなことでストレスを抱えるなんて馬鹿みたい。
だから、亀丸の恋心だって利用してやる。
そう決意した。
考え方を変えれば行動も変わる。
「さ、定時で終わって焼き鳥屋に行きますよっ」
そう言って極上の笑顔を亀丸に向けてやると、案の定、亀丸はやる気に満ち溢れた表情に変わった。
兎と亀の狂想曲 紬 蒼 @notitle_sou
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