第19話:中国・水餃子名人が加わる。
1978年2月5日に、陳澄男が出勤してきた。この年は、円高不況で店舗の空きも増えて、立川駅の反対側に、この店の厨房は2倍で、全体の広さが1.5倍程の空き店舗が、見つかった。電話で不動産屋に、賃料を聞くと12万円で、20坪69m2の物件だと言うので、見に行き、借りることを決めた。この店の線路の反対側でガード下をくくれば徒歩10分位だった。
古い、調理器具、大型冷蔵庫、冷凍庫、ガス台3つ口2つ、大きなシンクがあった。大型冷蔵庫と冷凍庫は、使えるが。ガス台と調理器具を交換する事にした。清掃と整備に100万円かかると言われた。契約して、直ぐに新しい調理器具、ガス台を注文して、水曜日中に持って来てもらい、明日から使える様にして欲しいと頼んだ。
とにかく、早く、新店舗をオープンすべく、本店の副店長・柳友和を責任者にして、陳澄男さんと、昨年、中卒で入った加藤貴之くんとの4人のコックで、本店と同じメニューで開始する事にした。同時に地元の新聞に料理の品出しのパート募集を男女とわず60歳まで、時給500円、交通費支給なしと言う条件ででをかけた所、3日間で女性ばかり40人のパートの応募がきた。
店長と副店長が定休日の水曜日に面接して、仕事できる時間を聞き出した。念のため、全員を採用した。妻有の里別館の広い調理場を活用して、チキンの唐揚げとタンドリーチキン、水餃子、へぎ蕎麦を茹でて、車で取りに行けるように、本店と別館に軽トラックと、乗用車を1台ずつ置いて、商品を融通することを考えた。
唐揚げスパイスをかけること、タンドリーチキンにタレにつけ込んだりする事を女性のパートさんに教えた。また餃子の皮の作りから、包み方を教えて、製造に力をいれる様にした。別館の店長、柳友和さんに製造の指揮をとってもらうことにした。名称を、「妻有の里・立川別館」としった。ここでは持ち帰りのできる、3種類の辛さのタンドリーチキン、スパイシー唐揚げ、海老のチリソース煮と水餃子、へぎ蕎麦とつゆを販売することにした。
へぎ蕎麦のトッピング様のエビ天、かきあげ、野菜天ぷらの合計8品を販売して、余裕ができた段階でテーブル席を作って、本店と同じように、商品を提供するように考えた。駅の近くで広告の貼れる所に、商品の有料広告は6ケ所、出すことにした。15日後の2月20日には、別館にも多くの人が、持ち帰りのタンドリーチキン、スパイシー唐揚げ、海老のチリソース煮と水餃子を買いきた。
一番は人気は、スパイシーチキン・スパイスの効いた鳥の唐揚げ、タンドリーチキン、海老のチリソース煮、エビ天、ナス天ぷら、かきあげ、水餃子と順番で売れた。3月になって販売のペースがわかったので、別館でも30席を設けて、料理を提供する事にした。やがて8月、別館の売り上げも伸びてきたので、10月に40席に増やした。
パートさんの数が、増えたお陰で、一番混みあう、11時から13時、17時から19時にパートさんの確保ができて、スムーズに料理を出せるようになった。そして、純利益が昨年の4割増まで増えた。まさにチキン効果のお陰だった。
その頃には、50ccのバイクで電話注文で配達も増えて、配達のスタッフは忙しくなったので、パートの配達人を時給500円で2人増やした。打つ手が、全て旨く回転して10月末時点で1978年の売上が44%増の1億円となり快進撃だった。
11月27日、寒くなり、夢子が、熱を出して店を休んだ。タクシーで行きつけの内科にかかるとインフルエンザとわかり、達夫はマスクをした。そしておかゆと、お水は、達夫が、夢子の枕元に持っていった。3日して、幾分熱が下がりだし1週間で平熱まで下がった。
職場に達夫がインフルエンザにかかったことを伝えると、店長がお大事にと、言ってくれた。しかし、「妻有の里」は、冬場も檄辛商品の売り上げが益々伸びて、毎日スパイシーチキン、タンドリーチキンをトラックで3回、運んでもらうようになった。
一方の安田達夫は、毎日、銀行と家の往復をしていたが1978年の11月にアメリカのセブンイレブンが日本に上陸するという噂が立った。もしセブンイレブンが日本で上場するときには、初値で買いたいと狙っていた。そして、1978年12月となり1979年を迎えた。
一方、達夫の預金が、遂1500万円となったが、1979年にセブンイレブンが日本で上場する事になって初値千株180万円で購入したため預金残高が1320万円に減った。
20話:達夫と夢子の結婚
夢子さんの勤める新潟料理屋が儲かったのは良いが、店舗が2店となり1979年は、忙しい年になった。今までの1店舗の人数が半減して、客は減らないと言う事で1人の仕事が倍増した。責任感の強い夢子は、真面目すぎて、そのストレスをまともに受けて、体調を崩し、5日間、入院した。そのため、店長が、2月にパートの人の応援を増やし、真冬の寒い時期、忙しさを緩和した。
ただ、チキンと餃子は、相変わらず、大量に、売れていたので、製造法を工夫し4人で分業し、流れ作業で、効率よく、製造していたので問題なかった。むしろ、手がかかるのは、水餃子の方であった。しかし、儲けが小さいので、水餃子にばかり手をかけても効率が悪いので、予定量を売ったら、品切れを出すようにして対応した。
レストラン部門は、本店の方が客数が多く、別館の方に来るお客さんは思ったほど増えていなかった。それでも、昨年から比較して、大量一括仕入れで、購入価格を下げることができて、利益は順調に増えた。更に、本店の一部を仕切って、2つの個室を設けて、高級中華料理や、コース料理など、高価な料理2千円、2千5百円、3千円コースを始めた。
そして、2月から立川駅の別館に近い、立川駅北口で、通勤時に、別館のチラシを配ると、徐々にお客さんが増えてきた。夢子は1週間の闘病生活で、今までを振り返る時間がもてたようで、焦りすぎていたと、反省した。もう、今年28歳になるから、早く結婚したいと達夫に言った。
実は、達夫の母も早く結婚しなさいよと、達夫に言うようになり、1979年2月14日のバレンタインデーの日、夢子が達夫にチョコレートをくれたとき、突然、達夫が、結婚しようとプロポーズした。あまり突然、言うので、呆然としたが、うれし泣きし、達夫に抱き付いた。
ほんと、いつ頃、結婚式をするのと聞くので、善は急げと言うから、すぐ結婚式場を予約しようと言った。披露宴は立川の「妻有の里」個室を借りようと考えていると言うと、夢子にどうかと、と聞くので、どうせ結婚式は、立川が良いと思っていたので、良いわよと答えた。でも、結婚したら最優先は夫婦の生活で、その次が仕事だからねと、達夫が言うと、夢子が、了解ですとおどけて答えた。
神前結婚式でも、良いかと。達夫が聞くと、夢子は、お任せしますと言った。諏訪神社が有名なので、神前結婚式をしたいと話すと、はいと言ってくれ、場所が決定した。結婚式は、達夫の両親と話して1979年3月14日水曜日とした。夢子の新潟の育ての親の叔母、伊藤和子さんと叔父さん、伊藤整一さんと「妻有の里」の店長の広瀬政夫さんと奥さんの裕恵を呼びたいというのでメンバーも16人と少人数で行う事が決まった。
やがて、結婚式を迎え、朝から良い天気の日で、結婚式は11時から始まり12時に「妻有の里」の店に店のメンバー他、新潟の友人2人と、達夫の銀行の上司と仲間5人が披露宴に出席してくれ、総勢40人程度になった。結婚式を終えて、披露宴会場へタクシーで向かうと、既にウエディングケーキが用意されていて最初に挨拶した後、ケーキに入刀して、各テーブルを回って、挨拶した。
多くの人に、写真をとってもらい、夢子は、満面の笑みを浮かべていた。午後14時に結婚披露宴を終え、服を着替え、国立の家に戻り、翌日から普段の生活に戻った。
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