第15話:夢子の料理屋での仕事2

 平日の品切れは少ないが、土日に立川でイベントが、開かれると、調理が遅くなり、へぎ蕎麦を待たせる事も、しばしば、あったそうだ。そこで、立川の店では、新潟の店で、料理のできる夢子に白羽の矢が立ったというわけだ。夜20時になり、店長に、「帰って良いぞと言われ仕事を終え、直ぐ着替えて、自転車で達夫の家に帰った」。


 帰ると、達夫がお帰りと言い、直ぐ風呂に入るように、一緒に母屋へ行った。すると母が、「洗濯物あれば出して、洗濯するから」と言ってくれた。「お言葉に甘えて、お願いしますと、夢子が頭を下げて」言った。風呂から出ると母が、「すごい汗ですね」と、言い、「料理屋さんて、大変な重労働なんですね」と、驚いていた。食事は、聞かれて、「厨房で、まかないを食べたので、大丈夫ですと」言い、離れの部屋へ達夫と共に帰っていった。


 達夫が、「夢子の疲れぶりを見て、今後やっていけるのか」と聞くと、「選択の余地はない、やるしかないの」と、きっぱりと言ったのには驚いた。「疲れるけど、頼りされるって気持ち良い」と話した。彼女は冷蔵庫の冷えたビールを飲んで直ぐに寝息をかいて寝てしまった。


 翌日も同じ様で、達夫が、「どっちが旦那さんだか、わからない」と、笑って言うと、彼女が、「頭の良い人は、頭を使って稼ぎ、頭の悪い人は体力勝負よ」、と笑って答えた。金曜日になると、少しずつ慣れたせいか、前ほどは、疲れないで帰ってきた。


 しかし、土日が、大変な様で、1時間早めに出て来てと言われたそうだ。翌日の土曜は、離れで、買ってきた菓子パンを食べて朝7時前に家を出て言った。達夫は、「気をつけてな」と、送り出すしかできなかった。この日の晩の20時過ぎに帰ってくると、初日と同じくらいクタクタで、夢子の表情から、その様子がわかった。母が、気を利かせて、ビール飲むと聞き、冷えたビールを出してくれた。「飲み終わると、既に眠そうなので、早く寝なさい」と、言われてしまった。


 日曜日も同じ様な様子だったが、「明日から、平日だから大丈夫」と言い、「水曜日の定休日にゆっくり休む」と言った。そして5月が終わり、6月の梅雨のシーズンになると、お客さんの数も減り、それ程、疲れた様子もなくなった。達夫は、多分、慣れのせいもあるのかもしれないと、勝手に納得していた。


 7月になると、お客が増えてきて、大変そうだった。8月の夏休みは、親子連れが増えて、大忙しだったらしいが、8月14-16日の3日、お盆休みがもらえたので、休養になった様だ。しかし新潟に帰ることもなく、国立で、生活していた。9月になっても忙しそうで、結局12月まで、忙しい日々で、休みの日は、昼寝をするので、ほとんど遊びに行くことができなかった。


 1976年末には、達夫の預金は1千万円に膨らんでいた。そして年が明けて1977年を迎えた。1976年の「妻有の里」の利益は5千万円だった。

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