言葉の壁を越えるのは難しい。それを容易にするのが感情の共有だ。同じことで嬉しい、楽しい、悲しいと思えるものがあるというのはやっぱり心強い。仲間意識が自然と出てくるといえるだろう。


 けど、日本人の嵐志でも理解できないようなことをアレクはたまに言う。それが今みたいな感覚的なことだ。

 そういう時は、どう反応すればいいのかわからず、首を傾げるしかない。


 すると、なんだかくすぐったそうにアレクはこっちを見ていた。


「……なんだよ」

「ううん、なんでもない」


 なんでもないと言う割には、口角を上げて目を細めている。

 例えば今日の夕飯が自分の大好物だったり、悪戯が成功しただったり、とにかくものすごくいいことがあったみたいに頬が緩んでいた。


 普段からアレクは笑顔を絶やさない。けれど今見せたのは、教室で見せるような少し大人びた穏やかな笑みじゃなくて、年相応の小学生、といった無邪気な笑い方だった。


「なんだよにやにやして」

「してないよ」

「してんじゃんか」

「してないもん。ねー、チロル」


 チロルを抱き直しながら、ズボンが汚れるのも気にしないで地べたに座った。

 頭から丸っこい背中にかけて繰り返し撫で、おでこのあたりを指の腹でゆっくりと撫でていく。そのうち、チロルはうっとりと目を閉じて、とろんとアレクの腕に体を預けた。


「アレクってうさぎ……クローリク飼ってたの?」

「ううん、なんで?」

「いや、すっごい手慣れてんなと思って」


 手慣れる、が分からなかったのか、またコテンと首をかしげる。


「うさぎ、触るの上手だなってこと」

「……あぁ」


 納得したように声を漏らすと、懐かしそうに視線を小屋の外に向けた。金緑きんりょくの目は、逃れてきた故郷を見つめているような、懐かしみの込もった色をしていた。


「バーバの家に、キトゥンがいたんだ」


 すぐに頭の中で単語を結びつける。バーバは『祖母』、キトゥンは『猫』だったはずだ。


「こーんな大きかったんだよ」


 大きさを表すように両手を広げる。大型猫の種類だと教えてくれた。


「でかっ」

「長生きでね、人間だと九十歳だったんだって。この辺りがこう、ふさふさしていてたんだ」


 顔の顎の辺りで、ふさふさの毛を表すみたいに指を動かした。案外、ジェスチャーで難しい言葉も伝わるものだ。


「へぇ、すげぇな」

「ターク。だから、ソーニャシュニクって名前だった」

「『ひまわり』って意味だよな」


 嵐志が言うと、ぱっとアレクの顔が明るくなった。


「アラシ、覚えててくれた!」

「覚えてるさ。夏に教えてくれたじゃん」

「そうだったね」


 夏に、庭でひまわりを育てた光景が蘇る。

 夏休みが始まった七月の下旬に蒔いた種は、八月にはいると167センチのアレクの背丈も越すくらいに高い位置で大輪の花を咲かせた。


 アレクにとって、日本の夏は初めてのことばかりだった。

 ゴールデンウィークから猛暑日が続き、八月には災害級の気温だとニュースで伝えられているにもかかわらず、連日連れ立って外に遊びに出ていたほどだ。一宮の七夕祭りに行ったのを皮切りに、蒲郡の竹島まで自転車で飛ばしたことだってあった。


「タケシマ行ったとき、暑かったね」

「死ぬかと思った」

「でも楽しかった」

「途中で遼がへばったりして」

「海、気持ちよかった」


 竹島に着いたとき、辿り着いたという達成感と高揚感が混じり合って、すぐに靴を脱いで、走って海に突入していった。

 あの時の抜けるような群青の空と、それを写した深い海の色が、あれからずっと頭から離れない。


「キーウは、川が近いけど、海からは遠かったから……嬉しかった」

「そりゃよかった」


 顔を見合わせて笑いあうと、外で風鳴が唸る。夏はもう終わったよ、今は冬だよって教えてくれているみたいな強い風だった。


 それに合わせたように小屋の戸が開いて、かほると遼が慌ただしく入ってきた。


「おまたせ〜湯たんぽ作ってきたよ〜」


 かほるから湯たんぽをひとつ受け取って、アレクは「これがユタンポ……!」と頬を赤くして声を弾ませる。


「あったかいでしょう」

「ターク、これならチロルたちもアンシンだね」


 ちょうどソフトボールくらいの大きさの、平たい小判型をした湯たんぽが五つ。柔らかい肌触りのタオルで一つずつ包んで、寝床の敷き藁に置いていく。


 寝床の変化に一番最初に気づいたのはユキだった。まっすぐに湯たんぽに向かうと、ピンク色のタオルの横にぴとりと体を寄せて気持ちよさそうに目を閉じた。続いてコメとポチもそれぞれ湯たんぽを見つけて、暖を取り始める。


「よかったねぇ、チロル」


 さっきまでアレクの膝でうっとりとしていたチロルも、くすんだ緑色のタオルに包んだ湯たんぽに体をすり寄せている。


 新しくなった寝床を気に入ってくれたようで、互いに毛繕いを始めたり、一匹の背中に顎を乗せたりして、リラックスした表情を見せていた。


「これで一応、ひと段落だな」


 寝床を囲む二重壁と、新しく替えた敷き藁に湯たんぽ。これならうさぎたちも、学校があるうちは大丈夫だろう。

 ほっと安堵の息をついて、嵐志たちはウサギ小屋を出た。


 グランドの方から「おーい」と気怠けだる間延まのびした声が聞こえた。

 視線を向けると、ランドセルを背負った肩にもうひとつ大きいスポーツバッグを提げた男子が、手を振りながら歩いてくるのが見える。幼馴染みの煌晟こうせいだ。


「あー、裏切り者だ裏切り者だー」

「だーれが裏切りだ、部活を優先したまでた」


 からかい混じりに指を差した嵐志に、彼は悪びれもなく鼻を鳴らし、べぇっと舌を出した。


 サッカー部終わりの煌晟は、長袖のジャージを羽織ってはいるけど、ハーフパンツにサッカーソックスと、見ているこっちが寒そうな格好をしている。


「コーセー、そのカッコ、寒くないの?」

「体動かしてたから暑いんだよ。そっちは? ウサギ小屋はできたん?」

「バッチリ」

「嵐志が言うと心配だな」

「んだコラ」


 かほるが職員室から戻ってくるのを待って、揃って西門から学校を出た。

 明日の体育だったり週末の算数のテストだったり、宿題や先生の悪口だったりと、取り留めのない話で盛り上がりながら、一人、また一人と家路に着いていく。


 最後にかほると嵐志が残った。


「今日も真冬まふゆの家寄ってくの?」

「なんだかんだでプリントあるしな」


 面倒くさいとは思わない。真冬の家から一番近いのは嵐志なのだから必然だ。


 歩行者用の信号機が赤に変わって、二人で立ち止まる。

 本来なら、ここで嵐志はまっすぐ進み、かほるは信号を待たずに左に曲がって家路に着く。けれど、今日のかほるは気まずそうに軽く足踏みをしながら、嵐志と信号が変わるのを待っていた。


「真冬……元気?」

「さぁ。元気なんじゃね? あいつが顔見せるわけでもないし、わかんねぇよ」

「そっか」

「元気でいると思ってようぜ」


 投げやりな嵐志に対して、優しそうな垂れ気味の目を伏せて、かほるの顔は目に見えて曇った。足元の影を踏みながら、自分に言い聞かせるように「……そうだね」と小さく呟いている。


「かほ、一緒に行くか?」

「えっ?! いいの?!」


 提案すると、かほるは驚いた声を出してぱっと勢いよく顔を上げた。


「つっても、これポストにポンしに行くだけだけど」

「行く、行く行く! 行きたい!」


 遊びに食いつく犬みたいにかほるの表情がぱあっと明るくなっていき、その必死さに吹き出して笑った。



 真冬の家は、嵐志の家からすぐ裏手の路地にある。

 白い塀に囲まれた木目調の戸建てで、正面から見上げた二階の窓のひとつは、くすんだ緑色のカーテンがきっちり閉まっている。

 真冬の部屋に当たる窓だった。


「カーテン、閉まってるね」

「いつもだけどな」


 ランドセルから茶封筒を出してもらって、塀に設置されたポストに投函する。かこん、と金属の蓋が閉まる音が響く。


 すると、窓の内側でカーテンが揺れた。

 そろ、とほんの僅かにカーテンが開いて、そこから誰かがこっちを覗いていた。

 あ、と二人の声が被る。

 ぼんやりとした白っぽい影。


 真冬だ。


 と思った途端、シャッ、と勢いよくカーテンが閉まる。

 リスの子どもが巣穴から顔を覗かせて、でも天敵を見つけて引っ込んだ。そんな感じだった。


「……真冬、元気そうだね」

「窓の外覗くくらいにってとこか」

「僕たちも、嫌われちゃったのかな」

「そんなこと言ったって、俺は真冬じゃないからわかんねぇよ」

「聞いたら話してくれるかな……」

「話したくないから引っ込んでんだろ」

「…………だよね」


 隣でかほるがしゅんと項垂れる。

 嵐志だって嫌われてないことを願いたい。


 これでも真冬とは保育園からの付き合いだ。小学五年になった今年で、八年近くは真冬と一緒にいる。

 小学生からしたら、八年は結構な年月だ。それでも、胸の奥でなにを思っているのかは、わからないままだ。


 もともと外に出たがらない真冬とは、近所に住む彼の祖父に詰将棋や囲碁を教えてもらいながら遊んでいた。縁側に座り、碁盤を挟んで小学生が真剣にうんうん唸っていた頃が頭をよぎる。


「今は遊びに誘っても、あんま期待しない方がいいかもな」

「……寂しいね」


 かほるの声が、夕暮れに溶ける。


「嵐志だって、ほんとは退屈とかつまらないとか、早く出てきてくれって、思ってるでしょう」

「あ?」

「だって、嵐志は大勢でいるのが好きでしょう」

「そりゃそうだけどさ、状況が状況だろ」


 かほるに、というよりは自分に言い聞かせるように声を絞り出すとかほるも押し黙った。言いたいことを頭の中から探すように視線を泳がせている。結局見つからなくて、軽くため息をついて、こう零した。


「……なんで、戦争なんてしてるんだろうね」


 なぜ真冬の不登校に戦争なんて物騒ぶっそうなワードが出てくるのか。

 それは、真冬の家系が関係してくる。


 クラスメイトの如月真冬きさらぎ まふゆと聞いて、誰もがすぐに思い浮かべるのは、その容姿だろう。

 彼は一見しただけでは、日本人だと分からないような容姿をしている。


 北海道の雪原せつげんを思わせるくすんだ灰色の髪。覚めるようなアイスブルーの大きな目と、それを縁取ふちどる長い睫毛まつげ。クラスの誰よりも肌の色が白くて、背が高いわけでもないのにすらっと手足が長い。

 雪国の氷樹ひょうじゅや水晶のような、透き通る見た目をしていた。


 彼の母方の家系に、ロシア人がいるらしい。

 両親共に黒髪黒目の標準的な日本人なのに対して、真冬はロシア人である曾祖母そうそぼの特徴を、隔世遺伝かくせいいでんという形で色濃く受け継いでいるのだ。


 それでも真冬は正真正銘の日本人だ。ロシア語は話せない代わりに、名古屋の方言ならすらすらと出てくる。キットカットの早口言葉だってお手の物だ。


 ロシア人の血が流れてる真冬。

 ウクライナからやってきたアレク。


 遠く離れたここ日本で、それはまさかの邂逅だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ノーザンライツ ~光より生まれし子どもたち~ 青居月祈 @BlueMoonlapislazri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ