一章:リーナクラフト・アーメンガード

一章01:少年、ホシノクロノの転生

 少年が目覚めた時、そこは見慣れた風景だった……いいや、馴染んだ世界と言ったほうが正しいかもしれない。確かに少年は別世界で学生として生きていたが、意識の大半を、一日の多くを過ごすこの場所は、現実の世界より自らの血肉に親しいと思えたのだ。


 ――つまるところ。ここは異世界である。端的に言えば和製ファンタジー。個性的で魅力あふれるキャラクターたちが物語を紡ぐ、ありふれた没個性的な世界。古き良きRPGを思わせる、似非西洋な世界だった。


 最初少年は、それを夢だと理解した。あまりにもゲームの類いをプレイしすぎたせいで、ついに夢の中でまで冒険に興じ始めるというのはよくある話。今回もそんなものだろうと身体を起こすが、だが、しかし。夢と呼ぶには全ての感覚があまりにも生々しい。


 寝て起きた時のけだるい感じ、生ぬるい汗。少しだけ響く頭痛。重い体に憂鬱な朝勃ち。今日一日、どのソシャゲをどう攻略するかの明瞭な計画。それらは総じて、少年の朝を彩る息災な日常であった。


 寝転がる、ベッドがない。手を伸ばす、スマホがない。目を落とす、なぜか学生服である。あたりを見回す――、しかしてそこは異世界である。


 少年は明晰夢かと穿って見たが、頬に当たる風の触感も、目に映る鮮やかな景色も、VRですらなしえないほどに実感を伴っている。自身が目覚めた大樹の太い根に寝そべって、少年はいったい何が起こったのかと冷静に黙考するに至る。


 少年の名はホシノクロノ、ごくごく一般的な高校生である。少しばかりソーシャルゲームに熱を入れてはいるものの、成績にも素行にも問題のない優等生である。複数のソシャゲを同時進行する為に、iPhoneを2台、Androidを5台――、それからMacBookを1台携行しているだけの、ごくごく普通の高校生である。


 実家もまた、ごくごく普通の中流家庭。両親は健在で妹がおり、郊外に一戸建てと自家用車を持つ、星新一のショートショートに出てくる程度には、ごくごく一般的な家庭である。


 とはいえソシャゲの小遣いはなけなしのお年玉で始めた、株の売り買いで賄っているから、決して親不孝の類いではない。成績だって維持しているし、友人関係も希薄ではあるが険悪ではない。推薦つきで大学への切符を手にしたのだから、特段文句を挟まれる道理はないだろう。


 だがそんな自分が、なんだってこんな非日常に身を置く羽目になったのか、記憶を遡ること数分、ようやっとホシノクロノは理由の一つに思い当たった。




 その日ホシノクロノは、いつも通り歩きスマホで帰っていた。耳にはイヤホン、ゆえに雑踏のざわめきや定時のサイレン、遠くで聞こえるカラスの鳴き声は一切が耳に届かず、彼の意識はゲームの世界に没入していた。


 ソシャゲにおける面倒な周回作業は、ホシノクロノはAIに任せていた。だから彼が読んでいるのは、今はシナリオだ。流石にシナリオまで他人に委ねたのでは。自分がソシャゲをする意味合いがなくなってしまう。


 全てがクラウド化されたこの時代、アニメも映画も漫画もゲームも、大概は後から見れる。だがソーシャルゲームだけは別物だ。こいつはイベントの刻限を一秒でも過ぎたが最後、次の復刻までアクセスする事すらできないし、そもそも復刻の時期までゲームが続くかすら分からない。オンラインゲームのようにプレイ動画が残されるケースも少ないから、極めて特異点的に「その場でしかありえない」コンテンツなのだ。


 だからホシノクロノは、現在進行系のソシャゲの今を、可能な限り目に焼き付けようと躍起になる。ラスコーの壁画が数万年、ナスカの地上絵が数千年、ローマの史跡が、中世の絵画が、近世の芸術が、幾星霜の時を経て残り続けているというのに、現代の先端にあるソーシャルゲームだけは、サービスを終えたが最後、電子の海の記録の残滓を除けば、二度と相見える事のない刹那の光だ。――これを見逃す手はないのだというのが、常にホシノクロノの思考を支配する原則だった。


 そしてその没頭が――、世界との断絶が、ホシノクロノの眼前に自明なる死を齎す。歩きスマホは駄目絶対、イヤホンは外して歩きましょうと、誰だって一度も二度も習っている……世の理に従って。


 ドラブルの五周年フェス「どうして女優は蒼井そら」をプレイしていたホシノクロノは、気がつけば信号を無視し、交差点に足を踏み入れていた。――普段なら車通りの少ないそこは、ゆえにこそ人も車も、その両方が注意を怠ってしまうのである。迫りくる大型トラック、歩みゆく少年、そして訪れるボーイミーツカー。


 


 ああなるほど典型的な異世界転生の導入だと、ホシノクロノは溜息をつく。溜息をついたところで状況は変わらないが、どうにかして生きる術を見出さねばならない。いや死んだ先で生きる術など、ちゃんちゃらおかしい話ではあるのだが。


 ポケットを探る。学生証も教科書も財布も予備のスマホも何もかも散失しているが、唯一1つだけ、メインで使っていたスマートフォンが残っていた。起動する。――動作に問題はない。しかし当然の如く、既存のアプリ、インターネットへの接続はできない。


 だがやがて、ホシノクロノは違和感に気づく。整理好きのホシノクロノは、1ページ目に全てのアプリをまとめていた。つまりいつもなら在る筈の無い2ページ目が、スワイプの先に存在したのだ。


 ただ白いだけの、表題さえ無いアイコン。だが見知らぬそれをタップした瞬間、画面は発光し、謎の何かは起動したのだ。




 ――ロスト・ヒライス。

 無機質なタイトルコール。文字以外は相変わらず真っ白なままで、黎明期のモバイルゲームでももう少し凝っているだろうという程に、シンプルなホーム画面が表示される。


 ホーム、キャラ、編成、ガチャ。ご丁寧にも日本語で書かれたそれらは、ホシノクロノにとっては心眼で見て取れる程に見慣れたた単語だ。――つまり、どうやら、なるほど……自分は、ソシャゲの世界に迷い込んだのだなと、この時クロノは、漫然とだが推し量る。


 一般人なら驚き戸惑うところではあろうが、こういう時にオタクは強い。なにせ日常の半分以上を空想の中で過ごしているのだから、唐突に非日常が訪れたとしても、適応に支障がない。


 この世界がソシャゲに因むものである以上、まず始めはガチャである。周囲に随伴するキャラがいない点を顧みると、ここで召喚したキャラが今後旅路を共にする、重要なパートナーとなる筈だ。


 しかし現実ならできるリセマラや、課金によるブーストが見込めるとは限らない。ホシノクロノは慎重にガチャの項目をタップすると、その種類に目を通す。


 回数が1と記されたガチャ。恐らくこれは、チュートリアル時に回す事のできる、初心者限定のガチャだ。それ以外は「絶唱石」と呼ばれる、石を貯めて回すものが殆ど。チケットやポイントを使用するものもあるようだが、今の自分にできるのは最初の一つだけらしい。


 倍率の設定や触媒といった迷信に頼る事もできず、こうなった以上は回す他なしと覚悟を決め、ホシノクロノは立ち上がって息を呑む。この見慣れた見知らぬ地で、縁故も何もないままに歩みだす第一歩。それがガチャの一回にかかっているとなれば、緊張するのもやむを得ない。手を掲げ、まるでヒーローが変身する所作のようにホシノクロノは召喚画面をタップする。


 ――刹那、発光。

 現出した法陣がホシノクロノの周囲を取り巻き、まばゆい光を描きながら旋回する。いつもはスキップしていた召喚演出も、いざ自分が巻き込まれるとなると中々に壮大だ。


「――勇者の力を欲する者よ、弱き者の為に、さらば与えよう。アーメンガードの秘剣と共に、我が力は君と共にある」


 ――そして声が響いた。

 閃光の中に影が立った。


 哀れな少年、ホシノクロノの物語は……こうして遂に、始まってしまった。

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