大皇翼鯨(だいおうよくげい)

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大皇翼鯨(だいおうよくげい)

皆さんはクオリアという言葉をご存じでしょうか。


我々は日々五感を通じて外界の情報を受け取っていますが、その正体は本来物理現象に過ぎません。目で見る色は特定の波長の光ですし、耳で聞く音は空気の振動です。匂いは空気中を漂う分子で、手触りも物体の表面の微細な構造の成せる業なのです。


しかし、我々はそれを「色」や「音」「匂い」「手触り」のような全く異なるものとして感じるのです。こうした感覚のことを「クオリア」と呼びます。


クオリアの大きな特徴の一つとして、クオリアは同種のクオリアによってしか説明できないということが挙げられます。


たとえば、あなたが「赤はどんな色?」と尋ねられたとするとどう説明するでしょうか?「橙と紫の中間の色」と答えるのが関の山ではないでしょうか。我々は特定の波長の光をどう感じているかについて、他の色を用いずに誰かに伝えることはできないのです。


ここで一つ疑問が浮かびます。人間が今まで一度も見たことのない未知の色って存在するのでしょうか?


物質世界の範疇で言えば答えはNOです。人間が色を感じるのは、網膜の奥にある錐体細胞に起因しています。錐体細胞は三種類あり、その反応はそれぞれ赤、青、緑の色として感じられます。この三つの錐体細胞は異なる波長の光をピークに強く反応する仕組みになっており、我々はその反応の組み合わせによって、黄色や橙、紫、青緑のような様々な色を感じることができるのです。したがって、この三つの組み合わせにより生み出すことのできない色は感じることはできないのです。


人が感じることの出来る光の波長は360ナノメートルから830ナノメートルとされており、波長が短い方から紫、青紫、青、青紫、緑、黄緑、黄、橙、赤と変化していきます。美術の授業やパソコンのペイントソフトで目にする色相環を思い浮かべると分かりやすいでしょう。残念ながら、人間にとって色というのは色相環にあるものが全てなのです。


本当にそうでしょうか? 確かに眼で感じることができる光はこれだけかもしれません。しかし、錐体細胞から送られた信号を受け取り、最終的にクオリアを生起させるのは脳のはずです。ならば、錐体細胞を経由せずに直接脳に信号を送ることができれば、人間はもっと多くの色を感じることができるのではないでしょうか?


それを人類で初めて実現したのが、2060年代に中国の圣星シェンシン社が運営していたフルダイブ式のオンラインゲーム『Vast Terra』です。このゲームは当時実用化されて間もないブレイン・マシン・インターフェース(BMI)を活用したMMORPGのうちの一つとして知られています。


BMIとは脳とコンピューターを直接連結し、情報のやりとりを行う装置のことです。BMIを利用すればVRゴーグルやベッドホンなどを通さずに、直接に視覚や音、触覚などのゲーム内情報をプレーヤーの脳に送り込むことができます。また、プレーヤー側の行動も脳から直接機械に送信できるため、現実の肉体を動かすのと同じようにキャラクターを操作することができるのです。こうしたゲームはフルダイブ式と呼ばれ、当時流行の真っ只中でした。


この『Vast Terra』はフルダイブ式オンラインゲームの中ではイマイチパッとしないもので、僅か四年でサービスが終了してしまうのですが、他に類を見ない特徴がありました。それは脳に直接情報を送り込むというBMIの特性を利用して、人間が眼では感じることのできない色をゲームの世界で表現するというものでした。


『Vast Terra』の風景には「幼色おさないろ」「老色おいいろ」「夢色ゆめいろ」という現実風景には存在しない色が取り入れられていました。


幼色は赤と黄の中間の色ですが、決して橙ではありません。『Vast Terra』の世界では、グラデーションは赤→赤幼あかおさなおさな幼橙おさなだいだい→橙→黄という順序を形成します。まるで色相環が引き延ばされたように、赤と橙の間に全く別の色が入り込むのです。プレーヤーはその事実に違和感を感じないどころか、むしろ現実世界で赤と橙が連続していたことを不思議に感じるというのです。


老色は緑と黄緑の間の色で、緑→緑老みどりおいおい老黄緑おいきみどり→黄緑というグラデーションになります。夢は赤と赤紫の間の色で、赤→赤夢あかゆめゆめ夢赤紫ゆめあかむらさき→赤紫というグラデーションになります。


『Vast Terra』の世界では、こうした色が現実世界に存在する色と共存する形で、街並みや建造物、草原、森、荒野、山脈、海、キャラクターの衣服から敵となるクリーチャーなど至るところに取り入れられていました。


そうした中、伝説的な色と呼ばれたのが「皇色すめらぎいろ」でした。この色はゲーム中たった一つのものにしか使われていないのです。それは、廃人と呼ばれるほどのヘビーユーザーでさえ出逢った人はごく少数と言われる幻のクリーチャー「大皇翼鯨だいおうよくげい」です。


翼鯨というのは『Vast Terra』に登場する種族で、翼を持ち空を漂う鯨に似たクリーチャーの総称です。設定資料によれば、海に居る鯨とは全く別種の生物だそうです。


大皇翼鯨はこの翼鯨の一種で、顎から腹部にかけて鯨のように豊満な畝須があり、側面にカヌーのペダルに似た八枚四組の対鰭を持ちます。この鰭を波打つように上下にゆったりと動かしながら大空を漂うように遊泳するのです。尾ひれは鰻のそれを横倒しにしたような扁平なもので、こちらは虚空に鞭を振るうかのように脈略の無い動きをするそうです。


大皇というだけあって全長は夜空を覆い尽くすほどに巨大で、遭遇者の一人によれば、もしあれが落下して押し潰されれば現実に死ぬのではないかというような緊迫感を感じたと言います。


大皇翼鯨は対鰭の軸となる部分が濃い老色であることを除いては、全身が鮮やかな皇色に発光しています。この皇色というのは、幼、老、夢を含めた既存の色と一切グラデーションを作らず、ただ明度と彩度のみを持ちます。すなわち完全に色相環から独立した驚愕の新しい色なのです。


この幻のクリーチャーとの遭遇するための条件はただ一つ。運が良いことです。


遭遇したプレーヤーの証言では、ゲーム内の通常のマップを散策していると何の前触れもなく夢色の霧に包まれ、大皇翼鯨の居るマップに飛ばされたそうです。特別な行動は何もしていないということで、エンカウントは完全にランダムだと考えられています。


そこの大地は一面透き通ったの夢色の結晶で構成されており、暑さでも寒さでもない独特の温度を持った猛烈な突風が吹き荒れていたと言います。天を見上げると真っ暗な夜空をバックに、未知の色に輝く巨大な翼鯨が体表から無数の鱗を桜吹雪のように振り撒きながら緩慢に遊泳していました。


多くの翼鯨は敵としてプレーヤーを襲撃し、また討伐することで武器や防具の製作に必要な素材を落としてくれますが、この大皇翼鯨はただ遥か上空をゆったりと漂っているだけで、攻撃してくることもなければ、プレーヤーの側から触れることもできません。ただの背景なのです。しかし、実際に遭遇したプレーヤーが皆口を揃えて言うのは、非常に美しいということです。ある遭遇者は、大皇翼鯨が空を遊泳する様は現実世界のいかなる名勝をも超える至高の絶景とさえ主張します。


この幻のクリーチャーの存在自体は『Vast Terra』の公式サイトにおいてもサービス開始時点より明らかにされ、姿を映した画像も公開されていました。しかしながら画像においては体色は明度の低い赤褐色で表現されており、当然というべきでしょうか、皇色は再現されていません。また、二次創作においては蒼空に発光した姿で描かれることが多かったそうです。


遭遇者達によればこれらはいずれも皇色とは似ても似付かない色だということです。


サービス終了から数年で圣星社は解散し、データも廃棄されてしまったため、『Vast Terra』が皇色として脳にどのような信号を送信していたのかはもはや知ることはできません。クオリアを言葉で説明することができない以上、遭遇者達がその色がどのようなものだったのかを遭遇していない人達に伝えることも不可能です。


未知のクオリアを取り入れたゲームというのは『Vast Terra』以降ほとんど生まれていませんが、ファンコミュニティの手で皇色を再現しようというプロジェクトは現在も行われています。


彼ら彼女らはどのような信号を脳に送れば幻の色が再現できるのかと試行錯誤しているものの、未だに成功はしていません。成功判定のためにプロジェクトに参加している遭遇者達は、そのプロジェクト内で失敗作として作られたいかなる色よりも、皇色は遥かに美しかったと言います。


大皇翼鯨はまさしく、広大な電子の海の中で絶命してしまった幻の古代生物であると言えるでしょう。

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