道経11 無、あっての有 

車輪の構造を考えよ。

外辺部のリム、中心部のハブ、

両者を繋ぐスポーク、に分けられる。


数十ものスポークが一所に集まる、ハブ。

ここには空間がある。

車軸を通すための穴である。


車輪を車輪たらしめるのは、

結局のところ、その穴を中心に

回転するからである。


無を起点に、有が機能しているのだ。



粘土をこね固め、器を作る。


器の中にも、空間がある。

何もない場所である。


ここにものを盛り付けるからこそ、

器は器としての機能をなす。


無という機能を目的とし、

有が存在しているのだ。



壁に穴をあけ、窓を作る。


窓という、壁のない空間が、

部屋に部屋としての機能を与える。


無という空間のために、

有が存在に彩りを得る。



有は、無を利用し、存在している。

それによって無は無であるままで、

用を全うするのだ。




○道経11


三十輻 共一轂

當其無 有車之用

 三十なる輻 共に轂に一す

 當に其の無 車の用を有さん


埏埴以為器

當其無 有器之用

 埏埴を以て器と為す

 當に其の無 器の用を有さん


鑿戶牖以為室

當其無 有室之用

 戶牖を鑿し以て室と為す

 當に其の無 室の用を有さん


故有之以為利

無之以為用

 故に有は之を以て利と為す

 無は之を以て用と為す



○蜂屋邦夫釈 概要


空白や余白は、何もないがために「そこにあるもの」の働きの源となる。車輪のシャフトを徹す穴であるとか、皿や鉢のくぼみ、部屋という空間。すべて空白ありきの存在だ。これが無を以て有為をなす、の、最も卑近な例である。



○0516 おぼえがき


無についてはどうあがいても語りようがないのだけれども、無を活用している有を経て、無の働きについて間接的には把握できなくもない、という感じになるだろうか。道経4のまんまだとあんまりにも形而上学的過ぎるから、一気にそいつを卑近なところにまで引っ張り込もうとしてる印象もある。手を変え品を変え、なんとか無と言う「よくわからないもの」の近似形を語ろうとしているんだなー、という。


デイリー世説新語に載る

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054889468591

のエピソードとも接続してきてくれる感じがあり、非常に趣深い。老子にせよ荘子にせよ、無について厳密に語るにあたっては、有を通じてしか語れない。言うなれば「有ではないところ」を語るには、有との境界線からの類推をしなければならないよ、という。王弼さんはきっと、そのもどかしさを、もどかしく思いながらも共感していたのだろうなあ。


そういや老子王弼注、まとまってるんですよね。俄然興味が湧いてきました。

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