影踏みイノセンス

 影の世界で少年は目覚めた。自分自身も影だった。てのひらを覗く。黒く塗りつぶされて、どんな運命も読みとれない。

 空間は白かった。清潔な病室が、地球いっぱいに広がったようだった。大地は白い床に。木々は白い柱に。空だけがいつだって夜のように黒い。星も月も見当たらない、黒い画用紙のような空。

 電柱にもたれるようにうずくまっていた少年は、立ち上がった。電柱は、空へとのびる二本の輪郭線だった。クモの巣のように張られた電線と、いまや区別ができかねるほど似ている。電線には、輪郭線だけの鳥が何羽もとまっていた。真白く塗りつぶされた、いとも淡いカラス。少年は、母に読んでもらったギリシャ神話を思い出した。太古、カラスは白かった。怒りっぽい神の逆鱗に触れてしまい、黒く塗りつぶされてしまったのだ。すると、神の怒りは、影の世界には届かなかったのだろうか。

 それならば自分はどうだろう。黒く塗りつぶされたぼくは、神の怒りに触れたのだろうか?

 記憶は虫喰いだらけだった。砕けたガラス片に映るようにしか、過去を思い出すことはできなかった。少年は、寄る辺ない根なし草だった。泡のような影にすぎなかった。なぜここにいるのかもわからなかった。

 立ち上がったところで、影の少年には行くべき場所もなかった。このままずっとへたりこんでいたって、かまわない気もした。しかし、何はともあれ立ち上がってしまったのだ。また座り直すのも億劫おっくうだった。

 道路をあてもなく歩いていく。車は走っていなかった。ところどころにそれらしき輪郭線がとまっているが、だれも乗っていなかった。動きそうにも見えなかった。

 周囲にはビルが林立していた。高層ビルは、線だけになると美しかった。窓と外壁の幾何学がハーモニーを奏でていた。ビルというのはもっと醜い建物ではなかったかと、少年はいぶかしく思った。すると、少年は以前はビルが嫌いであったらしい。バベルの塔の話を思い出す。これもギリシャ神話だっただろうか。どうも違う気がする。おごりによって築かれた塔。神に言葉を乱され、未完に終わった塔。

 針金細工でつくられたような、輪郭線だけの影の世界を、少年は歩く。影の少年に影はなかった。彼自身が影であり、彼の足下に影はなかった。そもそも光がまともに差しているのかも怪しい。太陽も月も星も見当たらないのだから。ただ白い。どこまでもつづく雪白の世界。世界から疎外されたように、少年だけが黒だった。

 いや、少年だけではないらしい。少年の向かい側から、鏡合わせのように、黒い影が近づいてくる。本当に鏡なのではないかと少年は疑った。

 輪郭の縁取られたマンホールを挟むように、少年と相手は立ち止まった。相手も似たような背丈の、幼さの残る黒い影。漆黒の顔と顔を合わせて、お互いに見つめあった。

 少年はなにか声をかけようとした。そこで気づいた。声が出ない。喉を潰されたように、なにも出てこなかった。そもそもこの世界でまだ音を聞いていない。影の世界には音がないのかもしれない。ただ淡い気配のようなものだけが揺曳ようえいしていた。

 相手もまた、口を開けてぱくぱくと動かした。なにかを少年に伝えようとしている。唇を読んだわけではないが、「ごめん」と、なにかを謝っているような気がした。

 相手の影はとつぜんに、素早く、鋭く動いた。マンホールの向こう側からこちら側に踏み込み、少年の背後にまわったかと思うと、懐から紐を取り出し、鮮やかに躍らせた。

 瞬く間に少年は首を絞めあげられていた。喉に紐が食い込む。これではどうせ声はあげられない。少年は苦しみもがいたが、背後の影は殺意を緩めない。

 少年は躍起になって、首の紐に指をかけようとする。そのとき、視界に入った自分の指の黒色が、だんだんと薄まっているのを発見した。少年の黒が希薄になっていく。色彩の淡化に合わせるように、意識が遠のいていく。死力をふりしぼって、あがいた。

 途端、首を絞める紐が緩んだ。というより、絞殺の加害者と被害者が、まとめて突き飛ばされて、もつれるように倒れ込んだのだ。

 なにが起こったかわからぬままに、少年はその隙に紐から逃れ、まろぶように、殺意を抱いた影から距離をとった。ふと、足下の地面に不思議なものが見えた。影がのびていた。影の自分から、ないはずの影がのびていた。

 だれかが、少年の手をつかんだ。

 似たような背丈の、幼さの残る、少女らしき黒い影。少年は、その影に手を引っ張られ、うながされるままに一緒に走り出した。

 ビルに挟まれた通りを走る。横道にそれ、路地裏に入る。人はいなかった。だれもいなかった。黒い空の下、線だけがかたどる迷路を、ひたすらに少女の影と走った。走っているうちに、少年は薄れた自身の黒色が、濃さを取り戻していることに気づいた。足下に一瞬だけ見えた影は、もうなかった。

 閉じたシャッターに囲まれた袋小路で、少女の影はようやく立ち止まった。つないだ手を離し、二人して音もなく荒い息をつく。少年を絞め殺そうとした影は、もう、追っては来ないようだった。

 少年は少女を不思議そうに眺めた。どうやら、この子に助けられたらしい。

 ありがとう、と少年は少女に言おうとした。虚しく口が動くだけで、やはり声は出なかった。しかし、意思は伝わったようだった。「どういたしまして」と言うように、少女も口をぱくぱくと動かした。無音のコミュニケーションでも、親近感はわいた。

 安心すると、疑問が次々に浮かんだ。きみはだれなのか? ここはどこなのか? この世界はなんなのか? 自分たちはなぜ影なのか? あの影はなぜぼくを殺そうとしたのか? きみはなぜぼくを助けてくれたのか?

 少女が答えを知っているかはわからない。知っていたとしても、声も言葉もなしでは、答えることもままならないだろう。声も言葉もなしでは、問いかけることすらできなかった。

 それでも、少年の戸惑いを、少女は理解しているようだった。影の少女は歩き出し、「ついてきて」と言うように、少年を手で招いた。影の少年は、あとを追った。

 狭く曲がりくねった細道を抜けて、公園らしき場所に出た。線の滑り台。線のブランコ。線のシーソー。線のジャングルジム。針金細工で組み立てた遊び場。脱色されたユートピア。

 警戒するように周りをうかがいながら、少女は公園を通り抜けて、近くの高層マンションの通用口に入り、非常階段を昇りはじめた。

 二人で階段を上へ上へと歩いて昇る。黙ったまま歩く。黙ったまましか歩けない。階段を踏みしめる足音もない。

 扉をくぐり、屋上に出た。空が近くなった気がした。蟻の魂を敷きつめたような、影の世界の影の空。

 少女は屋上の端まで近づくと、身をかがめて伏せた。少年もそれにならい、隣に伏せる。柵越しに下界を見下ろせた。夜景というには似つかわしくない、幾何学的な線の乱舞。線の建築に線の窓。線の電柱、線の電線、線の信号機、線の道。買ったばかりの塗り絵のように、すべてが白い。

 少女がある一角を指差した。そこには黒い影がいた。先ほどの少年自身のように、ふらふらと迷子のようにさまよっているのが、遠目にも見える。

 指差す少女の顔をうかがう。もちろん影に表情はない。しかし、感情のさざ波のような気配は感じとれた。それは、補食の瞬間を眺めるような、憐れみと無慈悲さの混じった、傍観者の感情だった。

 指差された影の前方と背後から、その彼を挟むようにして、どこからともなく影たちが現れた。うつむき加減に歩いていた影は、それに気づいて、訝しむように顔を上げた。

 現れた二人組の影は、哀れな影を挟み撃ちにして、襲いかかった。刃物を持っているようだった。ひとりが腹を刺し、もうひとりが背中を刺した。何度も何度も、刺しては抜いて、刺しては抜いて、首を刺し、腕を刺し、足を刺し、脇腹を刺し、メッタ刺しにした。

 刺されるごとに、哀れな影は薄れていった。だんだん身体が白く透けていく。そして、哀れな影の足下から、黒暗々たる影がのびていく。狂ったように刃物を振るいつづける襲撃者の影たちは、今度はその黒暗々たる影を、狂ったように踏みはじめた。死体に群がる餓鬼のダンスだ。

 すると、踏みにじられていたその黒暗々たる影が、古びた塗装のようにぺりぺりと剥げて、血のように真っ赤な扉が現れた。

 白い地面に、赤い扉。黒い影たちはそれを見て、歓喜するように抱きあった。そして、扉を開けて、口を開いた得体のしれないその深淵に、抱きあったまま身を投げた。襲撃者たちは消えてしまい、殺された影も消えてしまった。二人組が穴に呑まれると、赤い扉はひとりでに閉まり、蜃気楼のようにだんだん薄れて、その扉もまた、消えてしまった。

 影の少年は呆然と、その悪趣味なグラン・ギニョールを眺めていた。隣の少女に目をやると、彼女はこちらをじっと見つめていた。「わかった?」と言うように。

 なおも混乱していたが、ぼんやりとした筋道のようなものは、少年にもわかる気がした。

 つまり、あの扉こそが、この世界の出口なのだ。影の世界を出るためには、あの扉をくぐらなければならない。どうすれば扉は現れるか? 影を、殺すのだ。死にかけた影からのびる影を、影踏みのように踏みしめるのだ。そうすれば、影の世界から解放される。

 影の少年はそこまで考えて、バカバカしさに笑いそうになった。なんだというのだろう、この暗い悪夢は。なんだというのだろう、この狂った世界は。

 あの扉は、どこにつながっているのだろう。あの二人組はどこに消えたのか。殺された影はどこに消えたのか。愚かしいほどに謎だらけだった。

 影の少女が、ポケットからなにかを取り出した。ナイフだった。線で象られた兇器。それを、少年に手渡した。

 つまり、彼女は彼に、同じ行為を求めているのか。いまみた場面を再現するように。

 ナイフを手にして、少年は少女を見返した。少女はもう一振りナイフを取り出して、乾杯でもするかのように、少年のナイフと触れ合わせた。

 なぜ、彼女はぼくを選んだのだろう。

 仲間をつくった方が、殺人は容易かもしれない。でも、危険を犯してまで助ける価値は、あったのだろうか。あのままぼくを見殺しにしても、かまわなかったはずではないか。

 ぼくに襲いかかってきた影は、一人だった。彼は一匹狼なのだろうか。ごめん、と。そう言っていたような気がする。彼も扉を求めているのか。

 なにをどう考えていいのか、よくわからなかった。

 二人は屋上を後にして、非常階段を降りた。黙ったまま下へ下へと降りていく。黙ったまま下へ下へと堕ちていく。ナイフを握って。兇器を手にして。

 通用口から出ると、影の少女はなにかに気づき、物陰に身をひそめた。腕を引っ張られ、少年も同じく身をかがめた。

 公園に、影がいた。物思いにふけるように、ブランコに腰をおろしていた。いまなら少年にも、それがどれほど無防備で危険な状態かわかる。この世界に安全地帯などない。弱さをさらけ出せば、狩られるのだ。

 少女は嬉々として合図を出した。標的を定めたのだ。つまり、あのブランコの影を、一緒に殺そうと。

 少年は、まだ迷っていた。

 影の少女と少年は、息をひそめたまま公園に入り、ブランコに近づいていく。肉食獣の初陣ういじんのように、あどけなく緊張して。

 ブランコの哀れな標的の影は、落ち込むことでもあったのか、肩を落としたまま、こちらに気づく様子もない。

 俊敏な猫のように、影の少女はナイフを一閃させた。

 首を切りつけられた影は、ブランコから跳ねるように立ち上がり、傷口を片手で押さえたままその場に倒れ、痛みにのたうった。もう片方の手で、懐から紐を取り出した。

 先ほど少年を絞め殺そうとした、あの影だったのだ。

 少年は、呆けたように立ちつくして、ナイフを持った手をだらりと下げたまま、その影を見下ろしていた。

 追い討ちをかけない少年を、怪訝な様子で一瞥いちべつするも、どうでもいいと言うように、影の少女はなおも刃物を振るった。少女の殺意は純粋で鋭かった。処女雪のように無垢な殺人衝動だった。

 絞殺未遂犯の影は薄れ、黒暗々たる影が地面にのびる。少女はしっかりと、迷いなく踏みしめた。

 ぺりぺりと影が剥がれ、扉が現れた。雪白の地面に、鮮紅の鬼門。この世界の出口。この世界の突破口。

 影の少女は扉を開けて、少年を振り返った。

 お互いに見つめあった。影の少年は、首を振った。手にしたナイフを、その場に放り捨てた。

 影の少女は残念そうに、だが納得したようにうなずいて、「さようなら」と言うように口を動かし、扉の向こうの深淵に身を投げた。

 赤い扉はひとりでに閉まり、消えてしまった。少年を助けてくれた少女も、どこともしれない彼岸へ旅立った。もう、永遠に会うこともないだろう。

 影の少年は、少女とどこまでも一緒に歩いていきたかった。それでも、自分の手を最後まで汚せなかった。刃物を他人に向けられなかった。影の影を踏みにじり、血塗られた扉をくぐることは出来なかった。

 神の怒りに触れて、黒く塗りつぶされてしまった、カラスのように黒い影。いつか許されることもあるのだろうか? この悪夢のような世界の只中で。

 針金細工の遊具に囲まれた公園で、ナイフを捨てた影の少年は、影の空の下でぼんやり立ちつくしたまま、影の世界にひとりきりでとどまるための一歩を、まだ踏み出せないでいた。

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