骨壺ノクターン

 わたしは火葬にされて骨になった。身寄りのない行旅死亡人なので、遺体の引き取り手もないままに、荼毘に付されたわけである。

 わたしはもう生きなくていいので、ほっとしている。こんなことなら、もっと早くに燃やされていればよかった、なんて、不謹慎にも考えている。実際、わたしの友人のひとりは、無法な若者の集団に火をつけられ、生きたまま焼かれた。住所不定の浮浪者を焼き討ちにするというのは、ときたま若者たちに流行る遊びのひとつである。どのあたりに娯楽性があるかは、若者たちにきいてほしい。わたしは知らない。焼かれた友人も知らなかっただろう。

 わたしはきちんと死んでから焼かれた。橋の下で、雪の日に死んだ。きんきんに冷えたまま死んだわけである。だからといって、火葬炉の火で暖をとったというわけではない。死んでしまえば温もりは必要ない。かじかむ指も骨になった。

 わたしの友人が焼かれた夜について。友人はほろ酔いで、一杯機嫌だった。カップ酒を片手に、駅近くの自販機のそばに腰をおろして、通りがかる人々に、天使に関する自説を披露していた。いわく、天使が翼を持つのだとしたら、鳥は天使の仲間である。鳥に餌を与えるのが好きな自分は、天使に賄賂を贈っているようなものである。しかし天使は潔白であらせられるから、まいないをけっして受け取りはしない。むしろ贈賄者を憎む。もしも自分に不幸が降りかかるとしたら、それは天使の怒りである。鳥への友愛は、天使の憎悪と隣り合わせだからだ。しかし天使が激しく憎む者は、神にひたすらに愛される。神への献身は、天使の嫉妬と隣り合わせだからだ。云々。

 そこに、天使とは明らかに似ても似つかない、半笑いと薄ら笑いと野卑な言葉遣いと衝動的暴力がセットになった若者集団が通りかかった。貧困と分断と放置が生み出した島宇宙のひとつ、世相を体現する前衛暴力愛好家の集団である。

 おっさん、なにくっちゃべってんだよ。頭わいてんのか?

 いいや、いいや、ちっとも。浮浪者なんて、正気でなければやってられんよ。人は哲学によって根無し草になる。

 宿なしか、おっさん。宿なしの臭い酔っぱらいってわけか。救いようのない豚ってところだな。

 そのとおり、きみたちと同じだな。

 友人は笑った。若者たちも笑った。そして殴打に始まり、焼き討ちで終わる狂詩曲ラプソディーが奏でられた。友人は死んだ。

 ところで友人が死ぬまでの委細を、わたしは物陰からずっと眺めていた。通報はしなかった。通報したところで、警察に浮浪者を守る義務はまったくないので、救いを求めたところで無駄だった。警察は市民のためのものであり、浮浪者は市民ではないのだ。

 わたしは凍りついたように眺めていただけである。自身で助けに入るわけでもなく、警察ではないだれかを呼びにいくわけでもなく。友人が死に追いやられていくのをただ眺めていた。

 助けに入ったところで、なにか出来たとも思えない。女性浮浪者の細腕に、なにが出来るというのだろう。ごろつきたちの餌を増やすだけだ。

 あるいはだれかを呼べばよかったか。だれを? 浮浪者仲間は、食事や情報をシェアすることくらいはあるが、自分の身は自分で守れというのが鉄則だ。浮浪者ではない市民は、街頭の暴力に眉をひそめはしても、それは景観に対する不快感であって、倫理的な義憤ではない。若者の暴力も、清掃動物の食餌行為くらいにしか思われていないだろう。われわれは害獣の一種なのだ。

 わたしも以前は市民の一人であった。そして、道端で見かける浮浪者を、時おり横切る影のようにしか認識していなかった。他の市民と同じように。影が消えようがどうしようが、なにを気にすることがあるだろう。

 しかし夫の死と粛清によって市民の座から転げ落ちてみると、見える風景は一変した。一党独裁による偏った情報統制は、見えるものを見えなくしていた。わたしは浮浪者になることで、眼を強引に開かされたのだ。

 いま、わたしは死者になることで、眼を喪い、声を得た。わたしがわたしだけに語りかける、音をもたない声にすぎないが。

 わたしの友人は火だるまになりながら、最期の叫びをあげた。わたしは骨になった後で、最後のささやきをつぶやいている。死の前後に違いはあれど、まあ、似たようなものだ。

 わたしの喪われた肉体について。美人だったとはいえないし、運動能力もたかが知れていたが、わたしはわたしなりにわたしの肉体を愛していた。わたしはいま、その残骸である骨を愛している。こんな自分ではあっても、死ねばみな、白皙はくせきの麗人というしかないだろう。そうではないか?

 わたしの友人が死んだ夜が明けて、朝が来た。朝日の色は、市民だったころと変わりはない。世界にそそがれるまぶしい蜂蜜。太陽はなんて美しいのだろう。人の死生に関わらず。

 わたしの友人の死体はゴミ回収車に回収されて、片づけられた。運搬される際の扱いはともかくとして、浮浪者にも墓地はあり、葬られはする。一応は。

 わたしはふらふらと朝焼けの街をさまよった。うつろな心情をもてあましながら。

 通りがかりの子どもに後ろから蹴りを入れられた。大した痛みではなかったのでそのまま歩きつづけた。子どもはきゃっきゃとはしゃぎながら、犬の散歩を続けた。

 わたしの生きる日々に目的がないように、友人が死んだところで、どこか目的地が現れるわけでもなかった。わたしは結局、習慣に従うだけだった。

 わたしはショッピングモールの裏手に行き、壁によりかかって、待った。やがてスタッフ用の通用口が開き、煙草をくわえた男が出てきた。わたしがいることを確認して、片手に提げた袋を突き出す。中にはパンや弁当や飲料水が乱雑に詰め込まれている。わたしはありがたく受け取った。

 以前、何度かこの男と一夜を共にしたことがある。しつこく頼んできたから、応じてやったのだ。その頃、わたしはなにもかもがどうでもよかったので(いまもだが)、他人の要求を断る気力がなかった。だいたい、浮浪女性と寝たがる市民など、なにを考えているのだか得体が知れない。下手に断って殺されるのも嫌だった。

 以来、この男はこうして食品を融通してくれる。情でもわいたのだろうか? こころの底から軽蔑しているので、どうでもいいが。向こうも、軽蔑しながら憐れんでいるのだろう。とはいえ、もらえるものはもらっておく。

 さっそくわたしはパンを取り出してかじり始めた。男はわたしを眺めながら煙草を吸い続けている。

 昨日の夜、わたしの友達が焼き殺されたの。

 わたしはパンを咀嚼する合間に、暇をつぶすようにそう言った。

 なんだって?

 煙草をくわえた男は訝しげにこちらをうかがった。

 昨日の夜、わたしの友達が焼き殺されたの。

 わたしはそう繰り返した。

 ふうん。

 男は煙を吐いた。友人の身体を焼いた火を思い出した。

 そいつも、浮浪者だったわけ?

 そう。

 ふうん。

 男は煙草をその場に捨てて、足で踏んだ。

 じゃあ、しょうがないな。

 そう言い残して、男は通用口から建物のなかに入って、わたしの前からいなくなった。わたしはぼそぼそとパンを食べ続けた。食べ終わると水を飲み、ペットボトルを袋に戻して、また街をさまよい始めた。

 骨となったいま、わたしは食事が懐かしい。生物は、食べるために生きている。死んでしまえば、食べる必要も生きる必要もない。なんの必要もない。完全なる平和。平時の人間は、なにもかもを懐かしむ。わたしは歩行も懐かしい。足を上下に動かして、わたしはわたしをどこかに運ぶ。死者はどこにも行かなくていい。なんの心配もなくていい。

 その頃のわたしは生きていたので、とにかくどこかへ行かなければならなかった。動かなければならなかった。その頃のわたしは生きていたので。

 わたしは公園のベンチに腰をおろした。団地に囲まれているが、人気はない。だれかに見られているかもしれないが、どうでもいい。目と鼻の先に、鳩が何羽かいた。友人は、鳥に餌をあげるのが好きだった。わたしはあげたことがない。

 わたしは鳩の数を数えた。一、二、三、四。四羽。鳩は近くで見ると、眼がぎょろぎょろしていて、なんだか残忍に見える。平和の象徴にも聖霊の象徴にも見えない。

 おい、あんた。なにやってんだよ。

 通りがかりの若い男に声をかけられた。煩わしい。なぜ世界は人間を放っておいてくれないのだろう。

 別になにも。

 なにもしてないってわけか。あんた、失業者?

 わたしはその若い男の顔をぼんやりと見つめた。どこかで見覚えがあった。

 仕事はあるよ。

 本当かよ? 何の仕事だよ?

 生きてることが仕事。

 なんだ、やっぱり失業者じゃねえか。ていうか、市民じゃないだろ、あんた。

 男は笑った。見覚えがあるわけである。わたしの友人を殺したごろつきのひとりである。

 あんた。もしかして、女?

 さあ。どうだろう。忘れた。

 女だ。そうだろ?

 わたしの友人を焼き殺した男の声は、耳障りだった。わたしはその頃まだ生きていたので、他人の声を聞かなければならなかった。

 女だったらどうなの。あなたと何か関係あるの?

 あんた、ここによく来るのか?

 別に。鳥がいるなら、それも悪くないけど。

 食い物ほしいなら、分けてやろうか? 夜になってから、またここに来いよ。

 わたしは男をじっと見つめた。それから、うなずいた。

 優しいだろ、俺って。じゃあ、夜にな。夜に、ここだぞ、わかったか。

 わたしはもう一度うなずいた。

 若い男は笑って、立ち去った。わたしはそのままベンチに座って、鳩を眺めていた。お昼時になると、わたしは袋から弁当を出して、もそもそと食べた。おかずを一切れ、鳩に投げてみたが、鳩は無視して食べなかった。わたしはベンチから立ち上がって、またショッピングモールへ向かった。裏手にまわり、壁によりかかり、待った。ずいぶん待っていると、男が休憩に出てきた。煙草をポケットから取り出したところで、わたしに気がついた。

 なんだ、あれじゃあ足りなかったか? それとも、チョコでもくれる気になったのか。

 チョコ?

 そんなわけないか。二月の何日かも、知らなそうな様子だしな。で、まだ必要なのか?

 いえ、食べ物はもういいんだけど。ちょっと、他に欲しいものがあって。

 珍しいな。おまえも、なにかを欲しがることなんてあるんだな。

 大したものじゃないんだけど。

 わたしは男に持ってきてほしいものを頼んだ。男は建物のなかに入り、ほどなくして戻ってきた。わたしは受け取り、礼を言った。

 なあ、今夜、またどうかな?

 男は煙草をくわえて、そう言った。どうでもいい人間からの、どうでもいい要求。心底どうでもいい。ただ、いまのわたしにはやるべきことがあるので、きっぱりと断った。

 今夜は、行くところがあるから。

 そうか。残念。

 男は眼を閉じて、煙草を吸った。わたしはその場を後にした。

 影がのびた。夜になった。わたしは公園のベンチを、遠くからうかがっていた。友人の殺された夜みたいだった。わたしは、いつも遠くから世界を覗き見ているのだ。わたしは、わたし自身でさえも、窓の向こうから覗き見ているだけなのだ。そして、死んで骨になったいまのわたしは、過去の生きていたわたしを、なおも遠くから覗き見ている。

 ベンチの近くに、昼間の若い男が現れるのが見えた。街灯に照らされて、きょろきょろと辺りをうかがっている。ひとりのようだった。仲間を引き連れてくるのを警戒していたのだが、その心配はなさそうだった。

 わたしはしばらく観察した後、物陰に潜むのをやめて、公園のベンチに近づいた。男がこちらに気づいて、笑った。

 よお。来ないのかと思ったぜ。

 わたしも、来ないのかと思った。

 俺は約束を守る男なんだ。優しいだろ?

 あなたのことじゃなくて、わたしのこと。

 は?

 わたしも、わたしが来ないのかと思ってた。でも、わたしは来てくれた。あなたのおかげよ。

 なんだ、あんた、イカれてたのか。まあ、無理もないわな。こんな世の中じゃあ。

 今日ほど澄んだ気分は、初めて。それもあなたのおかげよ。

 食い物めぐんでやるくらいで、そこまで感謝されるとはな。泣けてくるよ。

 わたしの友人を焼き殺した男は、ポケットに手を突っ込んだ。なにを取り出すかわかったものではないので、わたしはその前に行動を起こした。

 わたしは後ろ手に持っていた金槌をふりかぶって、男のこめかみを力いっぱい殴った。金槌を握る手を通して、男の頭蓋骨の震えが伝わってきた。わたしの友人を焼き殺した男は、ベンチにもたれかかるようにくずおれたので、わたしは引き続き金槌で殴った。一、二、三、四。その後は数えるのをやめた。頭を砕くのに飽きると、今度は手の指を順番に叩きつぶしていった。骨が奏でる音楽は、わたしに生きる実感を与えてくれた。女性浮浪者の細腕も、演奏にかけては捨てたものではない。死んでからのわたしのこの声も、もちろん骨が奏でる音楽である。いとも単調な夜想曲ノクターンだ。男のもう片方の手は、ポケットに突っ込まれたままだったので、わたしはそちらの指も演奏するため、ポケットから引き出した。

 男の手は、包装されたチョコレートバーを握っていた。

 わたしはちょっと混乱した。てっきりナイフかなにかと思っていたので、拍子抜けした。男の身体をそれ以上調べてみても、武器は出てこなかった。どういうことだろう。狩られる前に狩ったつもりだったのに、向こうにそのつもりはなかったらしい。本当に、ちょっとめぐんでやるつもりだったのか。昨夜は浮浪者を殺しておいて、今夜は浮浪者に施しというわけか。

 まあ、それもこれもどうでもいい。死人に口なしだ。どういうつもりだったかなんて、死んでしまえばわからない。死んだわたしの声が聞こえるのが、死んだわたしだけであるように、死んだ男のこころの声も、死んだ男自身にしか聞こえない。焼き殺されたわたしの友人の声も、わたしの耳にはもう聞こえない。

 わたしはわたしの友人を殺した男を殺した後、公園からゆっくりと逃げ去った。それだけではなく、わたしはわたしがわたしから離れ去っていくのを感じた。わたしの友人を殺した男を殺すときに一瞬だけ感じた、わたしがわたしに重なる実感は、もはや過ぎ去っていた。いままたわたしはわたしを遠くから眺め、死んで骨になったいまも、わたしはわたしを遠くから眺めている。

 わたしは更けゆく夜をさまよい、橋の下まで来てうずくまった。人を殺したのだ。わたしはもうどこにも行く気がしなかったし、もうなにも動く気がしなかった。人を殺したのだ。

 ふと気がつくと、夜闇に白いものがちらついていた。天使の羽根かと一瞬思った。なぜそんな馬鹿なことを考えたのか、白骨になったいまでもわからない。鳩が公園にいるような暖冬だったから、雪が降るなんて信じられなかったのかもしれない。

 わたしは橋の下でうずくまりながら、焼き殺された友人を思い出し、骨になったいまもときどき思い出す。からっぽなわたしを見ながら、カップ酒を片手に微笑んでいた。

 鳥の音楽を聴こうじゃないか。鳥のさえずりは神の賜物だ。天使は神のために歌い、鳥は鳥のために歌う。だから鳥の方が神に近いんだ。きみも、鳥たちの声に耳を澄ませてみろ。そうすれば生きるということがわかるから。

 わたしの焼き殺された友人の調子っぱずれな長話は、わたしの空虚さを満たしはしなかったけれど。わたしはそれが耳障りではなかったし、わたしにとってはわたしの焼き殺された友人こそが、天使のようにさえ思えるのだった。あいにく翼は見当たらない、浮浪者で赤ら顔の酔いどれだったけど。

 天使に憎まれる者は神に愛されると、わたしの焼き殺された友人は言っていた。天使を慕って復讐を果たしたわたしは、だれかに愛されることがあるのだろうか。死んで骨になった後も、わたしはそんなことを考えていた。

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