静かな、ほのお

戌井てと

第1話

 スーツの内側、小さなポケット。そこにいる隠しきれない誘惑。

 はじめは、繋げてきた企画が成功して、その打ち上げだった。それだけで終わるだろう、そう思っていたのに……


「よーし、次いくぞー」


 酒がまわり、歯止めが効かなくなった上司。うまく断って帰っていく同僚に、焦ってまとまらない思考──「君も、行くよな?」

 がしっと肩にのっかった腕。沼へとはまっていくしかなかった。





「最近、お顔みないから、さびしかった」


「仕事忙しくて、ごめんね?」


 相手も仕事だとはわかっているんだけど……攻めるの上手いよな。


「そちらは? はじめて見る方ね」


「俺の部下だよ。すごく優秀でね」


“言われたことだけをするなら、誰でもできるんだよ”

“まだ終わってないのか? …使えないな”


 片付けをしていて、ひょっこり出てきた思い出の物。そんな感覚で浮かんできた、思考を止める魔の言葉たち。


「はじめまして。気に入ってくださるかしら? よかったら、またいらしてね」





 ……受け取ってしまった名刺。容赦ないことを浴びる毎日に、ちょっとした癒しだったのだ。折り畳んでタバコにでもしまって。


「ただいま…」


「お帰りなさい。企画が終わって飲み会だったのよね。お疲れさま」


 夕食を作っておくかどうかで、報告はするから、言われるのは当たり前だろう。それに、今まで揉めたこともない。

 なにを変に騒いでるんだよ、この心臓は。


「香水でも買った?」


「事務の子が、キツイのつけてて。それが移ったかな?」


「そう。わたし以外に素敵な人がいたら、行ってもいいのよ?」


「は? なに言って…」


「テレビで、なんだけどね。好きな人ができると、動物でいう狩りの状態になるんですって。子孫を残さなきゃって必死になるらしいの。だから、ある意味……浮気って仕方ないのかもって」


 遠ざかる背中、部屋へと消えた。

 専門的な考えもはいって言い返せず、妻の憂いだ表情が尾を引いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

静かな、ほのお 戌井てと @te4-3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ