前史⑪馮太后の第二次臨朝の目玉施策3連発。
やっと抜けたよ、
ここから
楽だわー、
論文読むだけだから楽だわー。
前回まで見てきました通り、
年若い献文帝は根回し買収による朝権奪還より
軍事による冒険的な手法を採ったようでした。
その献文帝を排除した馮太后の
統治を見ていきたいと思います。
地方統治や税制に関連する記事を
本紀から抜いてみるとこんな感じ。
献文帝親政時
皇興四年
・病の民には医師を遣わすよう地方官に命じる
皇興五年
・逃亡兵と浮浪民に自首するよう命じる
献文帝譲位後
延興二年
・工商雜伎の徒の農業への転業を許す
・州郡の民に蔬菜の栽培を奨励
・選挙では門地と才能で人を選ぶよう命じる
・各地に使者を遣わして民の疾苦を問う
・地方官の汚職を戒める
延興三年
・郡縣の農事を最適化するよう命じる
・地方官の遷官の原則を定める
・昨年の使者の報告で罪にあたる者を赦す
・河南六州の税制を定める
・使者10人を遣わして戸口調査を行う
・河南七州に使者を遣わして地方官を監督する
延興四年
・謀反、大逆、干紀、外奔を除いて族滅を禁止
・河南七州に使者を遣わして監査を行う
延興五年
・考課を定める
・租税の徴収は縣、平城への輸送は郡と分担を定める
本紀がどれだけ施策を記載するかの
問題はありますが同じ5年で比較し、
これだけの量が違うワケなのですね。
施策はいずれも統治の安定に関わり、
つまり、
献文帝譲位後の施策は馮太后の意向、
漢人官僚たちが求めたものでしょう。
439年 河北統一
451年 太武帝崩御
465年 文成帝崩御
471年 献文帝譲位
河北統一よりおおむね30年が過ぎて、
北魏という国家も変わりつつあった。
太武帝期の北魏は軍事国家としての
色が非常に強い国家でありました。
その後、
統一した河北を維持するだけで精一杯、
それでも、
河北を四半世紀ほど維持したのですね。
この四半世紀に、
河北の漢人たちも北魏という国家が
泡沫政権ではないと感じたでしょう。
何しろ、
それまでが泡沫政権続出でしたしね。
つまり、
漢人官僚たちが北魏という国家に対し、
帰属意識を持ちだしたワケであります。
献文帝期はようやく内政を充実させる
準備が整いつつあった時期なのですね。
田村實造「北魏孝文帝の政治」(東洋史研究、1982)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/153875
前史の冒頭にもちょっと触れましたけど、
このあたりは上の論文に従っていますよ。
伝統的な北魏史の理解と考えてOKです。
軍事大好きのエクストリーム献文帝は
史料を読みながらの妄想全開ですけど。
社会情勢より見て、
軍事偏重のエクストリーム献文帝は
時代にそぐわない皇帝なのですよね。
そりゃあ、
百官も馮太后を支持したくなるって。
献文帝の死後、馮太后の第二次臨朝ですが、
教科書風には以下のようなコトをしました。
a、官吏の俸禄制を導入(太和八年)
b、税制改革(太和八年)
→ 均田制の導入(太和九年)
c、三長制の導入(太和十年)
って、
官吏に俸禄を払ってなかったんかい!
払ってなかったんです。
『魏書』高閭伝
中原の崩否せるより天下は幅裂して
海內は未だ一ならず,
民戶は耗減して國用は充たず、
俸祿は遂に廢さる。
此れ則ち事の臨時の宜に出で、
良や長久の道にあらず。
永嘉の乱で河北が混乱してから後は、
官吏の俸禄はあったりなかったりし、
北魏は俸禄を払っていなかったワケ。
当然、
河北に乱立した五胡政権にあっても
同様だろうと推測されるのですよね。
代わりに、
朝臣であれば賞賜と汚職による実入り、
地方官も富家からの献金や汚職により
ご飯を食べていたワケなのであります。
事業を営んでいた人もけっこういます。
そりゃあ、
地方官が汚職に手を染めるワケですよ。
「汚職やりまくりパラダイス」として
どうにも北族の国家はいい加減でして。
理由を求めると、
馮太后以前の北魏を含む五胡の政権は、
従来の漢人王朝の後継者ではないから。
彼らにとっての民は搾取の対象であり、
統治して安んじるべきものではないの。
だから、
郷村秩序などはどーでもいい話でして
民を強制的に移住させるなんてことは
日常茶飯事に起こっていたのですよね。
郷村秩序?何ソレおいしいの?ですよ。
そうなると、
地方官が汚職したところで無問題です。
馮太后以前、
北魏は地方官を厳罰でもって締め上げ、
汚職した者の誅殺を繰り返しています。
これをどう見るかも問題なのですけど、
地方官というより鎮将の誅殺であると
解釈する方が無難なように思われます。
要するに、
彼らが誅殺されたのは統治ではなく、
軍事的な問題として処理されていた。
その可能性が高いように思われます。
汚職を日常的に行う人間の兵権は、
国家の危険になり得ますからねえ。
それが、
叛乱や自立に繋がってしまうかも。
「汚職は地方官の嗜み」の悪弊に
終止符を打つべく行われた施策が、
太和九年の官俸の支給なのですね。
(九月)戊戌、詔して曰わく、
「俸制は已に立ち、宜しく時に班行し、
其れ十月を以て首と為し、
每季に一請すべし」と。
是に內外百官、祿を受くること差あり。
10月を年初として季節ごとに俸禄を払う、
その代わり、
地方官の汚職があればビックリ仰天の
厳罰でもって報いたワケでありますね。
「祿の行うの後、贓して一匹に滿つれば死す」
原則として、
収賄即死刑という厳罰主義でありました。
なんというか、
極端から極端に振り切れるのが北魏です。
財政的には、
それまで俸禄を払っておらず、
出費が増えたワケであります。
当然、
新たな財源が必要になり、
税制に手が加えられます。
『魏書』食貨志
太和八年、始めて古に準いて百官の祿を班し、
品第を以て各々差あり。
是より先、天下の戶は九品を以て混通し、
戶ごとに帛二匹、絮二斤、絲一斤、
粟二十石を調す。
又た帛一匹二丈を入れて之を州庫に委ね、
以て調外の費に供す。
是に至りて戶ごとに帛三匹、粟二石九斗を增し,
以て官司の祿と為す。
それまでの税制によりますと、戸ごとに
帛:二匹 + 一匹二丈(州税)
絮:二斤
絲:一斤
粟:二十石
以上が税として徴収されたのであります。
俸禄のために増税されるとこんな感じに。
帛:二匹 + 一匹二丈(州税) + 三匹
絮:二斤
絲:一斤
粟:二十石 + 二石九斗
帛と粟が増していることが分かりますね。
単位を現代に換算してみるとこんな感じ。
帛:47.21m + 29.51m(州税) + 70.82m
絮:445.46g
絲:222.73g
粟:79.26ℓ + 11.49ℓ
1匹は2両に相当して尺制では80尺相当、
北魏の太和19年以前の1尺は29.51cmで
2匹は160尺なので4721.6cm=47.21mね。
1斤は222.73gなのでフツーに計算可能。
石は斛と同じで10斗つまり100升に相当、
1升は396.3㎖、1石は39630㎖=39.63ℓ。
うーん、
単位を換算してもイメージしにくいなあ。
しかし、
帛は三匹二丈にさらに三匹徴収でほぼ倍増、
粟は20石にさらに2.9石を徴収して15%増、
軽く増税とはとうてい言えないレベルです。
官吏に俸禄を払うべく行われた税制改革、
これだけでは民に重税を課しただけです。
放置しておくと疲弊して瓦解するワケで、
何らかの手を打たなくてはなりませんね。
当時の問題としては、
民が逃散して
国からの徴税を避けたことがあります。
ただ、
豪門勢家の搾取は国税の倍だったと
言われますのでどっちにしても地獄。
これをされると、
国としては徴税する戸が少なくなって
税収が落ち込んでしまうワケですしね。
誰も幸せになれないシステムなのです。
一方、
ン十戸を抱え込んだ豪門勢家は徴税上
一戸として扱われるのでウハウハです。
北魏代に繰り返された
人口把握政策はこの解消が目的で、
そうは言っても把握した戸口には
土地を与えないと徴税ができない。
そこで、
国が民に田地を給付して徴税基盤とする
均田制は太和九年に施行されております。
(太和九年)冬十月丁未、詔して曰わく、
「朕は乾を承けて位にあること十有五年なり。
每に先王の典を覽て百氏を經綸し、
儲畜は既に積まれ、黎元は永安たり。
爰に季葉に暨び、斯道は陵替せり。
富強ならば山澤を并兼し、
貧弱なるらば一廛に望絕す。
致して地をして遺利あらしめ、
民に餘財なからしむ。
或いは畝畔を爭いて以て身を亡し、
或いは飢饉に因りて以て業を棄つ。
而して天下の太平、百姓の豐足なるを
欲せんとも安んぞ得るべけんや?
今、使者を遣りて州郡に循行せしめ、
牧守と均しく天下の田を給し、
還受するに生死を以て斷と為す。
勸課農桑、富民の本を興さん」と。
均田制については言われるように
人ごとに田地を割り当てて耕作させますが、
これは、
北魏の特殊事情から発生しておりますのよ。
北魏の国都の平城は
もともとは「地廣人稀」のド田舎でした。
なもんで、
土地はあっても耕す人がいなかったのよ。
そこで、
「
連行された人々は平城の周りの田地を
与えられて食糧生産に従事したのです。
つまり、
これが
ここでは、
耕牛のある者は耕牛を持たない者に
牛を貸し出してやる代わりに返礼を
受けることなども行われていまして、
ちょっとした郷村秩序が見られます。
北魏は生産力の向上施策を継続しており、
このあたりが有象無象の五胡諸政権とは
いささか違ったところでもあるのですね。
つまり、
安定した生産力が河北統一の基盤なのよ。
そんじゃあ、
それを北魏の全土で行えるかと言えば、
これはやっぱりムリムリカタツムリで、
各地の豪門勢家が黙っておりませんね。
結果、
奴隷や耕牛にも班田されることとなり、
豪門勢家は他の家よりも受ける田地が
多くなるように設計されておりました。
さらに、
官職を持つ者は位階により田地の上限が
変わるようにもなっておりましたので、
豪門勢家から官吏が出る動機にもなる。
要するに、
一種の
別に、
老病者や寡婦への配慮もなされており、
福祉政策としても側面も持っています。
この施策は、
発議に基づくものを馮太后が裁可し、
あんまり興味なさげな
説得したと推測されるのであります。
均田制については以下の論文に
詳細に論じられておりますのよ。
田村實造「均田法の系譜 : 均田法と計口受田制との関係」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/249669
そして、
均田制の精神、つまり、戸数増加と
生産力の向上を行き渡らせるべく、
(太和十年)二月甲戌、
初めて黨、里、隣の三長を立て、
民の戶籍を定む。
これだけではよく分からないので
『魏書』食貨志でもって補足です。
五家=一隣 → 隣長
五隣=一里 → 里長
五里=一党 → 党長
という感じで、
5家を1隣として隣長を置き、
5隣を1里として里長を置き、
5里を1党として党長を置く。
それぞれの長は3年無過失で
上の長に昇進する仕組みです。
また、
長はそれぞれのレベルに応じ、
徴税や征役を免除されました。
これにより、
民の逃散などは防がれるようになり、
豪門勢家による囲い込みも抑制可能。
当然、
均田制とセットで行われる三長制が
朝廷で議論された際には漢人官僚の
豪門勢家の代表者から反論がなされ、
彼らにとって不都合な政策であったと
分かるワケですが、ここでも馮太后は
異論を受け入れず断行したワケですよ。
これだけでも、
大した政治家であると言えましょうね。
なお、
これらの施策実施は太和10年前後、
献文帝の死から10年を経ています。
つまり、
第二次臨朝が始まった時点では
馮太后にはそれほど知識がなく、
このような重要施策の実施には
踏み切れなかったと思われます。
おそらく、
この10年の間に漢人官僚連中と
議論を繰り返して問題点を知り、
対策の検討が行われたはずです。
臨朝当初からの抱負だったとは
言い切れないワケでありますね。
そして、
馮太后の政策のフォロワーであって
独自の政策って洛陽遷都だけじゃね?
しかも、
将来に禍根残しまくりだしビミョー。
という疑義が生じてくるのですよね。
次回はいよいよ孝文帝登場、かなあ。
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