前史⑩馮太后v.s.献文帝prat3
譲位後も影響力を保持していた
当然、
影響力を拡大すべく行動していたハズ。
献文帝の存在感は
実際、
献文帝期は南には
軍事的成功を収めた時期であります。
一方、
朝廷では
おそらく手を打てなかったでしょう。
何しろ、
皇興四年で献文帝は御年16歳、
譲位した時点で17歳の若者よ。
経験不足は否めないのですね。
そうなると、
成功体験が軍事に集中しているため、
献文帝の軍事偏重は不可避なのです。
譲位の翌年の
さっそく自ら軍事行動に出ています。
『魏書』孝文帝本紀
蠕蠕は塞を犯す。
太上皇帝は北郊に次り、
諸將に詔して之を討たしむ。
虜は遁走せり。
其の別帥の阿大干は千餘落を率て來降す。
東部敕勒は叛して蠕蠕に奔り、
太上皇帝は之を追い、
石磧に至るも及ばずして還る。
注意すべきは「諸將に詔して」ですね。
軍事行動中にあっては馮太后の制御も
献文帝には及ばないワケでありますよ。
しかも、
この軍事行動には裏目的があるみたい。
三月、太上皇帝は北討より至る。
戊辰、散騎常侍、駙馬都尉の萬安國を以て
大司馬、大將軍と為し、安城王に封ず。
平城に戻ると、
任じておるのですよ。
この萬安國の素性を探ってみましょうか。
『魏書』萬安國伝
安國は少くして明敏、姿貌あり。
國甥なるを以て復た河南公主を尚し、
駙馬都尉を拜す。散騎常侍に遷る。
顯祖は特に之を親寵し、
與に臥起を同じうして為に第宅を立て、
賞賜は巨萬に至る。
「姿貌あり」
「顯祖は特に之を親寵し」
「與に臥起を同じうし」
つまり、
アッーかどうかは知りませんけど、
顯祖つまり献文帝の寵臣なのよね。
それが大司馬、大将軍です。
この時点で、
献文帝-萬安國-軍
という強力なラインが出来たワケ。
当然、
献文帝の軍事偏重は拍車がかかり、
冬十月、蠕蠕は塞を犯し、五原に及ぶ。
十有一月、太上皇帝は親ら之を討ち、
將に漠を度りて襲擊す。
蠕蠕は軍の至るを聞きて大いに懼れ、
北走すること數千里なり。
窮寇の遠遁して追うべからざるを以て
乃ち止む。
同年11月には西の黄河最北地点付近、
結果、
献文帝はこの陣中で正月を迎えます。
一月中は
どんだけ平城にいたくないんだか。
平城に帰還すると宗廟への報告が行われました。
戊午、太上皇帝は北討より至り、
飲至策勳、宗廟に告ぐ。
王事に死する者は其の家を復す。
詔して畿內の民の役に從いて事に死せるは、
郡縣をして迎喪を為さしめ、
給するに葬費を以てす。
この時、
戦死者の家の継続を許し、
さらに、
平城の民で戦死した者は
郡縣が遺体を引き取って
葬儀費用を給付してます。
実に手厚い。
それが献文帝の意図であることは、
みなの知るところだったでしょう。
献文帝は朝廷の外に味方を増やし、
包囲しようとしていたかもですね。
これに止まらず、
その年のうちに再び出征します。
夏四月戊申、假司空、上黨王長孫觀等に詔し、
吐谷渾拾寅を討たしむ。
(略)
八月庚申、帝は太上皇帝に從いて河西に幸す。
拾寅は謝罪して降るを請い、之を許す。
九月辛巳、車駕は並びに宮に還る。
それでも懲りずに抵抗していたようです。
当然、
今回の出兵も献文帝の指示なのでしょう。
今回はさすがに懲りたようでありまして、
翌年には子の
人質ですね。
さらに、
追って献文帝も
今回は
馮太后が望むハズもありませんわね。
時に孝文帝5歳。
まあ親子水入らずでよろしいですわね、
というくらいの意味しかないかもです。
ヤバいのはこの軍勢が平城に戻る9月、
平城を目前に献文帝が孝文帝を擁して
馮太后の排除を命じることなのですが、
この時はそこまで踏み切っていないの。
馮太后が対策をした可能性があります。
あるいは、
献文帝は別の権力奪還の道を考えたか。
個人的には後者ではないかと考えます。
恐ろしいことに、
献文帝は翌10月には次の動きにでます。
冬十月、太上皇帝は親ら將に南討せんとす。
州郡之民に詔し、十丁に一を取りて以て行に充つ。
戶ごとに租五十石を收め、以て軍糧に備う。
つまり、
そのために兵を集めて兵糧を積んでいます。
十有一月癸巳、
太上皇帝は南巡し、懷州に至る。
過るところに民の疾苦を問い、
高年、孝悌、力田に布帛を賜う。
これが
劉宋への軍事行動を名目として
一周する形で領内を巡行して視察しました。
献文帝は翌年2月に平城に戻りますが、
その間に軍では大きな変化があります。
四年春正月丁丑、
侍中、太尉、隴西王の源賀は病を以て位を辭す。
譲位しようとしたのを阻んだ人です。
言い忘れてましたけど、
五胡の一つ、
その子の
『魏書』源懐伝
皇興の季年、
顯祖は將に大位を京兆王に傳えんとし。
先臣は時に諸將に都督たりて武川に屯す。
徵を被りて京に詣り、特に顧問さる。
先臣は固く不可を執り、
顯祖は久しくして乃ち之を許し、
遂に先臣に命じて節を持して
皇帝璽綬を高祖に授けしむ。
献文帝の譲位は8月のことでありましたが、
秋冬には平城が柔然の脅威に晒されるため、
北方各地に軍勢を駐屯させていたのですね。
その中でも、
陰山の北にある武川はおそらく最北地点で
そこに配置された源賀は軍部の重鎮でした。
つまり、
軍の代表として意見を求められた源賀は
京兆王への譲位に反対して譲ることなく、
ついに孝文帝への譲位を実現したのです。
あわせて、
皇帝璽綬を孝文帝に手渡してもいますね。
別に、
源賀は献文帝の軍事の師でもありました。
『魏書』源賀伝
賀は古今の兵法、及び先儒耆舊の說に依り、
至要を略採して十二陳圖を為し、以て之を上る。
顯祖は覽てこれを嘉す。
兵法の要諦をまとめた『
献文帝に奉っているワケでありますね。
陳は陣と同じなので『十二陣図』です。
『十二陳圖』の上呈は献文帝の譲位以降であり、
献文帝が軍事にのめり込んでいたと分かります。
源賀の立ち位置はおそらく中立的でして、
その経緯によるものだろうと推測されます。
つまり、
馮太后と献文帝の争いには関わりたくない。
しかし、
三公の一つでもっとも軍事的性質を帯びる
これ以前にも幾度も辞職を申し出ており、
権力奪取の道具として軍を動かす献文帝に
ついていけなくなった可能性があるっぽい。
当時の軍の命令系統において、
献文帝-(源賀─)萬安國-軍
という形になっていたのでしょう。
大司馬・大将軍の萬安國は献文帝の寵臣、
源賀は中立的な立ち位置ではしんどいね。
そのため、
献文帝の不在を狙って辞職したクサイの。
源賀の辞職により、
献文帝-萬安國-軍
という形が完全なモノになります。
南巡から戻った献文帝はその年は動かず、
何らかの軍事行動に備えていたようです。
本紀によると同年の軍事行動としては、
秋七月癸巳、蠕蠕は敦煌に寇し、
鎮將の尉多侯は大いに之を破る。
八月戊申、北郊に大閱す。
九月、劉昱の內に相い攻戰するを以て
將軍の元蘭等五將三萬騎、及び假東陽王丕に詔し、
後繼と為して蜀漢を伐つ。
十有二月、詔して西のかた吐谷渾を征する兵の
句律城にありて初めて軍に叛く者は斬り、
次は柔玄、武川の二鎮に分配す。
斬られる者は千餘人なり。
劉宋の内戦に付け込んで蜀に出兵します。
また、
吐谷渾への出征で軍に背いた者たちには
厳罰で処分して綱紀粛清を図っています。
北魏ってホント軍事国家なのよねえ。
そういう意味では、
献文帝は北魏帝らしい北魏帝かもよ。
明けて延興五年(475)、
この年はちょっと気になる動きアリです。
六月庚午、牛馬を殺すを禁ず。
壬申、京師の死罪を曲赦し、
遣りて蠕蠕に備えしむ。
(十月)太上皇帝は北郊に大閱す。
6月の牛馬の
・仏教思想による殺生禁止
・軍による徴発への備え
このいずれかであろうと推測されます。
しかし、
この場合は同月に平城の死刑囚を釈放して
柔然に備える軍に編入したことと合わせて
たぶん後者と考えるのがよいかと思います。
また、
10月の閲兵は前年に孝文帝が行いましたが、
それを献文帝が代わって行っていますよね。
閲兵は秋冬の柔然の南下に備えた定例と
考えられますが、献文帝はそこも握って
いよいよ軍への影響力を増大させている。
そして、
いよいよ延興六年(476)となるのです。
六月甲子、詔して中外戒嚴す。
京師の見兵を分かちて三等と為し、
第一軍の出づるに第一兵を遣り、
二等兵は亦た之の如くす。
辛未、太上皇帝は崩ず。
壬申、大赦、改年。
大司馬、大將軍、安城王の萬安國は
詔を矯めて神部長の奚買奴を
苑中に殺すに坐し、死を賜わる。
戊寅、征西大將軍、安樂王の長樂を太尉と為し、
尚書左僕射、南平公の目辰を司徒と為し、
封を宜都王に進め、南部尚書の李訢を司空と為す。
皇太后を尊びて太皇太后と為し、臨朝稱制す。
6月に唐突に
この時、柔然の侵入に関する記録はなく、
叛乱や謀反も起こってはいないようです。
要するに、
この戒厳の理由はよく分かりませんのよ。
合わせて、
平城にいる兵を三等に区分してそれぞれを
三つの軍団に所属させているようなのです。
これだけ見ると、
大軍の動員準備ではないかと思うのですね。
これを命じたのはおそらく献文帝でしょう。
劉宋への南征を行おうとしたのではないか、
そのように推測しているのでありますよね。
前回より推して、
本当に南征を計画していたかは不明ですが、
他にこれだけ大規模な命令は考えにくいし。
そして、
この期に馮太后の排除を画策したのかもね。
前年まで見てきました通り、
献文帝は軍の掌握をほぼ終えておりました。
何しろ大司馬、大将軍は寵臣の萬安國です。
朝廷での権力闘争が劣勢だったとしても、
軍を背景にすれば実力での排除が可能です。
そうであるなら、
馮太后は追い詰められたことになります。
起死回生の策を行わなくてはなりません。
戒厳から7日後、献文帝は崩御しています。
享年22歳。
『
太后は壮士を禁中に伏せ、
太上は入りて謁し、遂に崩ず。
と馮太后も実力行使を行ったとしておりますね。
『魏書』文成文明皇后馮氏伝
太后は行い正しからず、內に李弈を寵し、
顯祖は事に因りて之を誅し、太后は意を得ず。
顯祖の暴崩は、時に太后の之を為すと言うなり。
『魏書』は献文帝の死は馮太后が殺したと
当時の人々が噂したことを記すのみでした。
『資治通鑑』に注を付けた
「
下手人は馮太后という前提の発言。
しかし、
『魏書』は
これがちょっと信じがたいのですよね。
李弈の誅殺は皇興四年(470)です。
それを
6年を経た延興六年に復讐するとは
ちょっと考えられないんですよねえ。
鴆殺ならいつでも機会あったんじゃ?
むしろ、
馮太后は献文帝への殺意は特になく、
軍を掌握した献文帝が馮太后の排除を
企てて追い詰められた結果にも見える。
よくよく考えると、
北魏朝廷の政策が馮太后を中心とする
漢人官僚の立案実行であったとすると、
献文帝って北魏の役に立ってないのよ。
ひたすら軍事行動と軍の掌握をしていた。
そうなると、
北魏の百官にとって献文帝は困った人で、
なるべく波風を立てずに退場して欲しい。
内政を充実させようとしているのに、
南征なんかされると困ってしまうの。
ですので、
献文帝を排除して軍を朝廷に回収した。
その方が通りがいいように思うのです。
その傍証の一つとして、
献文帝崩御の翌日、
萬安國が誅殺されます。
大司馬、大將軍、安城王の萬安國は
詔を矯めて神部長の奚買奴を
苑中に殺すに坐し、死を賜わる。
これで、
軍を掌握していたラインが消滅しました。
北魏の軍は正常化したと言えるのですね。
その後、馮太后は
名実ともに臨朝稱制を開始します。
総じて言えば、
献文帝は聡明な人だったと言えましょう。
馮太后に浸食される朝廷を是正すべく、
叔父への譲位という離れ業を案出したり、
譲位後も馮太后の影響力が残ったために
軍を掌握して対抗するなど政治家として
優れた資質があったと思われるのですね。
しかし、
太武帝による河北統一から安定しない
統治の強化を図る馮太后と比較すると、
あまりにも
馬上に天下を取りたい人であったのか、
成功体験からそうなってしまったのか、
とにかく、
軍事に偏重した人だったと推測します。
時代も献文帝を求めていなかったのかも。
かくして、
献文帝親政から崩御まで10年の暗闘は
馮太后の勝利に終わったのであります。
以降はいよいよ本格的に孝文帝の治世前半、
馮太后の第二次臨朝に入っていきますのよ。
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