前史⑨馮太后v.s.献文帝prat2
ここを抜ければ後は論文ベースで行けるハズ、
でありながら泥沼化が著しい
前回は
外戚、献文帝の叔父連中という
それぞれの動きで眺めました。
結果的に、
献文帝が親政していた時期でも
特に外戚は意に沿わない感じで
動いている雰囲気でありました。
一方、
献文帝の叔父連中は馮太后への
備えとして次々に封王された上、
しかし、
彼らも献文帝が譲位してしまうと
地方官として平城の外に逐われる。
つまり、
それまでは叔父連中の協力を得て
馮太后に対抗していたのですけど、
譲位以降はほぼ単身となりますね。
危うし献文帝。
今回からは献文帝にフォーカスし、
譲位後の様子など見ていきますよ。
『魏書』献文帝本紀
(皇興五年八月)己酉、
太上皇帝は崇光宮に徙御せり。
採椽は斵らず、土階あるのみ。
國の大事は咸な以て聞す。
孝文帝に譲位した献文帝は引っ越し、
崇光宮は宮城の北苑にあった模様。
「採椽は斵らず、土階あるのみ」とは、
質素な建物の慣用表現でありましてな。
つまり、
絢爛豪華な御殿ではなかったのです。
隠逸思想みたいのにかぶれましたか。
ただし、
国の大事は官僚たちが報告していた。
どうも中途半端の感が拭えませんね。
隠逸といえば、
ちょっと気になる記事がありました。
『魏書』献文帝本紀
(天安元年三月)辛亥、
帝は道壇に幸し、親ら符籙を受く。
京師を曲赦せり。
これは、
乙渾誅殺の翌月に献文帝が道教の壇に行き、
呪符を拝領したという内容でありますよね。
この道壇は
平城の東南に造らせたものですよ。
『魏書』釋老志
嵩高の道士四十餘人の至るに及び、
遂に天師道場を京城の東南に起こす。
壇を重ねること五層、其の新經の制に遵う。
一方、
同じく釋老志の中には献文帝が
仏教と老荘を好んだとあります。
顯祖の即位するに敦信すること尤も深し、
諸々の經論を覽て老莊を好む。
每に諸々の沙門及び能く玄を談ずるの士を引き、
與に理要を論ず。
(中略)
高祖の踐位するに顯祖は
北苑の崇光宮に移御して玄籍を覽習す。
鹿野佛圖を苑中の西山に建て
崇光の右を去ること十里、巖房禪堂あり。
禪僧は其の中に居る。
その傍証を探ると、
どうも献文帝は体が弱かったっぽい。
『魏書』高允伝
又た顯祖は時に不豫あり。
高祖の沖幼なるを以て
京兆王子推を立てんと欲し、
諸大臣を集めて次を以て召問せり。
允は上前に進跪し、涕泣して曰わく、
「臣は敢えて多言し,以て神聽を勞さず。
願わくば、陛下は上は宗廟託付の重を思い、
周公の成王を抱くの事を追念されんことを」と。
顯祖は是に位を高祖に傳え、
帛千匹を賜い、以て忠亮を標す。
皇帝の体調不良というか病気ね。
死を意識して宗教にすがるのは
歴史上によくある光景ですから。
まあ、
当時の宗教は娯楽に近い節もありますが。
また、
献文帝が譲位に際して大臣たちに順々に
意見を聞いた、という記述も特徴的です。
参与した一人なのでそこも要注意です。
別の視点で観ますと、
太武帝から北魏の皇帝は即位後に
道壇に行幸するのが慣例となった、
釋老志にはそのように記されます。
(世祖は)是に親ら道壇に至り、符錄を受く。
法駕を備え、旗幟は盡く青し。
以て道家の色に從うなり。
自後の諸帝は即位する每に皆な之の如し。
真っ青な旗を立てた行列で行く、と。
しかし、
太武帝、
道壇に行幸した記事がありますけど、
孝文帝から後はその種の記事はない。
洛陽遷都に際して道壇は洛陽南郊に
移設されていますがそれから後は、
正月、七月、十月の各七日に儀礼が
行われた、と釋老志には記されます。
つまり、
孝文帝から以降は即位に際しての
道教儀礼は行われなくなっている。
このあたり、
西郊祭天と同じく漢化に伴う廃止、
という解釈もできるのかもですが、
孝文帝の意思というより馮太后が
北魏の慣習を無視した可能性高い。
孝文帝の即位は物心つく前のお話ですしね。
ここまでは道教のお話ですけど、
仏教関連のお話もありましてな。
(延興三年)十二月、
顯祖は田鷹に因りて鴛鴦を獲ること一、
其の偶は悲鳴し、上下して去らず。
帝は乃ち惕然とし、左右に問いて曰わく、
「此の飛き鳴ぶは雌なるや雄なるや」と。
左右は對えて曰わく、
「臣の以為うらく雌ならん」と。
帝は曰わく、「何ぞ以て知るや」と。
對えて曰わく、
「陽は性剛、陰は性柔、剛柔を以て
之を推すに必ず是れ雌ならん」と。
帝は乃ち慨然として歎じて曰わく、
「人鳥の事は別ると雖も資識性情に至らば、
竟に何ぞ異ならんや」と。
是に詔を下し、鷙鳥を禁斷して
畜うを得ざらしむ。
これも釋老志に収録されている記事です。
鷹狩りでつがいで行動する鴛鴦=オシドリの
一方を捕まえると残りが泣き叫んでパタパタ。
献文帝はその姿に惻隠の情をつつかれまして、
なぜか猛禽類の飼育を禁止する詔を発したよ、
というお話です。
問題に対する対応を間違っている気がする。
しかし、
それはここでは本筋じゃないので措きます。
問題はすでに譲位した後の延興三年12月に
献文帝が詔を降したということにあります。
これに対応する記事が本紀にもありまして、
『魏書』孝文帝本紀
(延興五年四月)
詔して鷹鷂を畜うを禁じ、相告の制を開く。
内容は同一と言ってよろしうございます。
そうなると、
献文帝の延興三年の発案が五年に実施された、
または、
釋老志の年数が誤っている、のどっちかかな。
「三」と「五」なら間違う可能性もなくはない。
しかし、
月まで明示されてますからね。
献文帝が意志を詔に通すまで
一年半ほどの時間がかかった
と解釈するのが穏当でしょう。
もう一つ考慮すべき記事がありまして、
『魏書』孝文帝本紀
(延興二年十一月)
帝は每月一たび崇光宮に朝す。
孝文帝は延興二年十一月から、
月一で献文帝と面会してます。
まるで離婚して親権を失ったパパンのよう。
と言いましても延興二年だと
孝文帝(5歳)ですからねえ。
政治の話とかするものかなあ。
ここから読み取れることがあるとすると、
馮太后の朝廷支配は延興二年十一月には
ほぼ終わっていたということでしょうか。
つまり、
献文帝が孝文帝を擁して詔を発しても
特に衛士たちが従わない体制にあった。
そうじゃないと危なくて仕方ないです。
乙渾誅殺からの学習成果とかだったり?
あるいは、
そもそも献文帝が隠遁を望んでいたか。
後者なら延興二年十一月を待つ必要はなく、
おそらくは前者なのだろうと思うのですが。
崇光宮に出入りしていた人を観ますと、
『魏書』高謐伝
顯祖の寧光宮に御するや、
謐は恒に講讀に侍り、
蘭臺御史を拜す。
尋いで治書に轉じて內外を掌攝し、
非法を彈糾す。
官に當りて行うに畏避するところなく、
甚だ稱賞さる。
延興二年九月に卒し、時に年四十五なり。
つまり、
まあ、
捏造されたウソッぱち経歴なんですけどね。
高謐は寧光宮で献文帝の読書にお付き合いし、
たぶん気に入られてしまったんでしょうかね。
献文帝の意向により御史に就任したようです。
何しろ譲位の一年後には死没していますから、
即断即決、
もっちゃらくっちゃら根回しする時間はない。
馮太后の第一次臨朝に参画していた
同様に崇光宮に出入りしていたようですね。
『魏書』高閭伝
顯祖の傳位して崇光宮に徙御するに
閭は上表し、頌に曰わく、
(略)
高允は閭の文章富逸なるを以て
舉げて以て自らに代え、
遂に顯祖の知るところと為る。
數々引接され、政治に參論す。
命じて鹿苑頌、北伐碑を造らしめ、
顯祖は之を善しとす。
承明の初め、中書令と為り、
給事中を加えられ、委ねるに機密を以てす。
ここでは、
それまでは高允が出入りしていた。
で、
何ゆえに推挙したかと言いますと、
『魏書』高允伝
高宗より顯祖まで軍國書檄、
多くは允の文なり。
末年には乃ち高閭を薦めて
以て自らに代う。
つまり、
その任に高閭を推挙したワケです。
これが、
詔勅ではなく軍國書檄というのは
なかなか気になるところなのです。
どうも、
譲位後の献文帝の影響力は
軍事に偏っていた節があり、
チラ見える記事があります。
『魏書』薛初古拔伝
其の年、拔の族叔、劉彧の徐州刺史の
安都は城に據りて歸順し、拔に敕して
彭城に詣りて勞迎せしむ。
冠軍將軍、南豫州刺史に除せらる。
延興二年、鎮西大將軍、開府に除せられ、
爵平陽公に進む。
三年、拔は南兗州刺史の游明根、
南陽平太守の許含等と民を治むるに
著稱なるを以て徵されて京師に詣る。
顯祖は親しく自ら勞勉し、復た州に還らしむ。
という官職に就いたワケですけれども、
その後に好政績の地方官を平城に呼び、
献文帝が労ったことがあったそうです。
その際、
游明根は
おそらく
南兗州は
延興二年(472)には存在しませんから。
游明根が東兗州刺史になる前の官職は、
というものでけっこう物騒なのですよ。
東兗州刺史に転じた後も将軍、都督は
そのまま帯びていたものと推測します。
許含の詳細は不明なのですけど
同じく薛安都に絡む地なのです。
当然、
将軍号を帯びていたハズですね。
譲位した献文帝が彼らの慰労にあたり、
馮太后と孝文帝が後ろに下がる理由は
おそらく献文帝の影響力が軍に対して
強く残っていたことを示すものかなと。
つまり、
延興三年時点においても献文帝は朝廷で
一定の役割を占めていたという理解です。
ただし、
影響力は外任に出た将軍たちに限られ、
内廷の影響力は削がれていたワケです。
他にもオモシロい記事がありました。
ちょっと長いけど後で要約するから。
『魏書』薛虎子伝
太安中、內行長に遷り、諸曹事を典奏す。
官に當りて正直、內外は之を憚る。
文明太后の臨朝に及び、
虎子を出して枋頭鎮將と為す。
虎子は素より剛簡、
近臣の疾むところと為り、
小過に因りて黜して鎮の門士と為る。
顯祖の南巡するに及び、山陽に次る。
虎子は路に拜訴して曰わく、
「臣は昔、先帝に事えて重恩に過霑せり。
陛下の諒闇にあるの日、臣は橫に非罪に罹り、
此の蕃に擯黜するより已に多載を經る。
今日の聖顏を奉ずるを得るを悟らず」と。
遂に流涕嗚咽せり。
顯祖は曰わく、
「卿は先帝の舊臣、久しく非所に屈す。
良や用って憮然たらん」と。
詔して虎子をして行に侍らしめ、
訪ねるに政事を以てす。
數十里中、占對して絕えず。
時に山東は飢饉ありて盜賊は競い起つ。
相州の民、孫誨等五百餘人の稱すらく、
「虎子の鎮に在りし日、土境は清晏たり」と。
訴えて虎子を乞う。
乃ち復た枋頭鎮將に除せられ、即日に任に之く。
平城から
近臣に陥れられて門士つまり門番に
降格されてしまうワケであります。
わりと悲惨。
これは献文帝の
起こったと見るのが妥当と思われます。
ついでに、
この時期の馮太后の主体性が薄く、
近臣の言いなりだったとも分かる。
薛虎子を陥れた近臣は枋頭ではなく、
平城に巣くっていたはずですからね。
馮太后も最初から怪物ではないのね。
話を戻して、
枋頭にいた薛虎子は山陽にて
献文帝を出迎えたとあります。
献文帝の南巡コースを調べてみますと、
『魏書』孝文帝本紀
(延興三年)十有一月癸巳、
太上皇帝は南巡し、懷州に至る。
過るところに民の疾苦を問い、
高年、孝悌、力田に布帛を賜う。
枋頭がある
山陽という地名は非常に多いですが、
汲郡には山陽縣があって位置関係は
王屋山───野王─【山陽】─修武─汲─枋頭
という感じで東西に並んでいますね。
この山陽で、
薛虎子は5年ぶりに献文帝に会い、
名誉回復を願い出たワケなのです。
そして、
その願いは献文帝により叶えられ、
ふたたび枋頭鎮將に任じられます。
この鎮將復帰の経緯を見る限り、
相州の民が薛虎子の復帰を訴え、
それを献文帝が認めたようです。
そうなると、
訴えたのは枋頭の住民ですよね。
つまり、
献文帝は山陽で薛虎子と出会った後、
さらに東に進んだものと考えられる。
これらの情報から献文帝の
南巡コースを推測しますと、
平城─雁門─晋陽─上党─河内
という経路でずーっと南下、
河内の野王縣から東して汲郡、
汲郡から山東を北に上がり、
魏─廣平─趙─中山─霊丘─平城
というコースで太行山脈を
くるっと一周したっぽいね。
実際、
延興3年11月に南巡に出た献文帝は
翌年2月に平城に戻っていますから、
約3ヶ月ほどかかっているクサイの。
そして、
南巡の経由地では民の訴えを聞いて
鎮將のすげ替えまで行っていました。
これだけを見ても、
献文帝がわりと権限を持っていた。
そういう事情が垣間見えるのです。
つまるところ、
献文帝は譲位後も北魏朝廷では
一定の役割を果たしていますし、
意欲を失っていたワケでもなく、
体調不良で政治ができなかった
ということもついぞないのです。
次回は献文帝の活動を見て、
締めくくりにしたいという
気持ちイッパイであります。
疲れたよパトラッシュ、、、
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