西魏〜北周「国防線上のあやしい3人」
王羆(西魏)「バイオレンスおじいさん」※王羆はオウユウではなくオウヒです!
王羆=オウヒ①ケチジジイの肖像
※お断り
王羆さんの名前はオウユウではなく、オウヒです。すっかり勘違い、テヘ。
みんなもこんなオトナになっちゃダメだゾ(泣
▼薄餅の端っこ
小麦粉を練って焼いたものです。
クレープみたいな感じ。
なので、
練って伸ばすので焼くと、
薄くなっている端が焦げがち。
焦げたところは苦味があって
味がよろしくない。
つまりマズイ。
そんなわけで、
身分が高い人の中には
焦げを避けて食べる人も
あったでしょう。
とはいえ、
今から1500年ほど前には
安いものでもなかったらしく、
朝廷からの使者に供した
という話も残ってます。
それも、
せせこましい逸話までついて。
殷周秦漢三国晋、
五胡が河北を奪って東晋が建ち、
北魏が五胡を束ねて南北朝時代、
南北朝時代を統一したのが隋、
その跡を襲ったのが唐、
そのうち、
南北朝時代に河北を束ねた
北魏の末のお話です。
北魏が分裂してできた西魏、都は長安、
朝廷から雍州刺史に人が遣わされました。
ってか、
雍州の治所が長安なんだから
「ちょっとそこまで」です。
その使者に薄餅が出されました。
使者の人は苦いのダメらしく、
薄餅の端を割って食べます。
苦いの体に悪そうですもんね、
分かります。
しかし、
刺史はそんな話を聞く男ではなかった。
ちなみにジジイ、
たぶんアラカン(アラウンド還暦)。
なんで、
ジジイ口調になります。
「種を撒いて収穫するまでには少なからぬ労力がいるもんじゃ。粉にして餅にするのも楽ではない。それを焦げておるからと言って捨てるのは、お前が飢えを知らぬからじゃわ」
世界的に知られる日本語で言うと、
MOTTAINAI。
偏屈らしい雍州刺史はそう言うと、
使者が食べている最中にも構わず
薄餅を下げさせました。
使者は愕然として恥じ入ったそうです。
すなわち、
世界的な問題となっているフードロス、
その警鐘を鳴らした先駆者であります。
そりゃあ、
正論と言えば正論ですけどねえ。
▼王羆さん、登場
このジジイに関わる同様の話は
まだあります。
ある日、
客が来たのでジジイは瓜を出しました。
瓜は丸ごとをそれぞれ剥いて食べます。
瓜の旬ということは
夏に近い頃合ですね。
冷えているとウマイ。
客は不器用なのか、
皮に部分を食べたくないのか、
いささか厚めに皮を剥きます。
スイカは皮に近くなるほど
甘味が薄くなりますね。
それと同じ。
客は厚く身の残る皮を地面に捨て、
身を食べます。
ジジイは黙ったまま
捨てられた皮を拾い、
それを食べました。
客は非常に恥ずかしく感じたそうな。
この逸話から分かることは、
・ジジイのもったいないフィーリング爆発
・ジジイは瓜を皮まで食べるタイプ
以上のいずれかと思われますが、
甲乙つけがたいです。
どっちでも面白い。
ただ、
友人や上司に欲しいタイプでは
決してありません。
冗談とか、絶対に通じない感じ。
さらにげんなりさせる話があります。
ジジイは士大夫、
官職に就いていました。
雍州刺史とか超エライ。
今で言う東京都知事みたいなもんです。
あるいは、
関東地方の行政長官の方が近いかも。
性格は超がつく短気、
公私混同を決して許さない。
清廉、
潔癖、
曲がったことがでえきれえ。
部下が私情を挟んだ陳情をしようものなら、
脱いだ靴でドタマぶん殴ります。
パワハラ認定待ったなし。
身内の陳情をする部下もアレですけど、
当時の官僚なんぞは
一族の利害代表者みてえなもんです。
だから、州郡の官吏になるわけで。
民のためより自分のため一族のため、
利益を持って帰らないといけません。
そんな事情もあり、
公私混同は当たり前だったはずです。
いきなり靴で殴られてはたまりません。
さらに、
官署にオシオキ棒があるって
コンプライアンス上どうなの。
今時、私立高校の体育教官室でも
そんなもんあったら社会問題です。
そういう規定だったのかなあ。
部下を打つ際に遣う棒を常備すること。
あるいは、ジジイの私物か。
ジジイは沸点が極めつけに低く、
口より先に手が出るタイプでした。
雍州の官署はパワハラパラダイス、
ブラック企業も真っ青。
こういう人柄であるだけに、
公式の宴会でもあった日には、
自分で酒や肉を計って配ります。
世の人々は、
公平さを尊敬するとともに、
せせこましさを哂ったそうな。
これよりお話するのは
そういう人の逸話です。
ちなみにジジイ、
姓は
名は
と言います。
熊と羆で固めた名前です。
字で呼ぶと
「おうゆうゆう18歳です☆」
だと、中華系アイドルっぽい。
まあ、絶対違うけどな。
たぶん、
もっさりした鬚ヅラのオッサン。
この著者は女体化とか、
絶対できないタイプの人ですから。
仕方ないと諦めて下さい。
▼王羆さん、雍州で上司に好かれる
そんな王羆さんは
正史の列伝に名が残っております。
つまり竹帛に名を垂れたわけです。
しかも、
『周書』と『北史』という
二つの正史に列伝がある。
恵まれっぷりハンパない。
最初に仕えていた北魏の正史、
『魏書』には列伝がありません。
この間の事情は
後で語られることになる、
と思います。
『周書』と『北史』の列伝は
大半同じですが、
経歴に異同があったりします。
総じて『北史』が詳しいっぽい。
だから、こっちで読みます。
でも、
部分的に『周書』も使います。
少ないネタだから活用したい。
これらで、
ジジイの人生を振り返ってみたい。
こんな変人がどうやって
竹帛に名を垂れたのか、
見ていきましょう。
なお、
途中に現れるお経とかは
一切
読まなくても問題ないです。
前後でフツーに触れるからです。
ならなぜ文中に出す?
▽=以下、お経が始まります。
王羆字熊羆,京兆霸城人,
漢河南尹遵之後,世為州郡著姓。
羆質直木強,處物平當,州閭敬憚之。
王羆、字は熊羆、京兆の霸城の人、
漢の河南尹の遵の後にして世々州郡の著姓たり。
羆は質直にして木強、物を處するに平當、
州閭は敬うも之を憚る。
△=読経、終わり。以下略します。
出身地は
雍州京兆郡の
長安の東にあってけっこう近い。
都会の人。
代々の豪族であったらしいですが、
州郡の人々は敬うとともに憚った、
と。
つまり、
敬遠されたのでしょうね。
そりゃあ
逸話を見れば分かります。
親しいお付き合いはしたくない。
▽
魏太和中,除殿中將軍,
稍遷雍州別駕,
清廉疾惡,勵精公事。
魏の太和中、殿中將軍に除せらる。
稍やして雍州別駕に遷る。
清廉にして惡を疾み、公事に勵精す。
△
王羆さん、
孝文帝の太和年間には
殿中将軍に除任され、
官途に就きました。
これが初任官でしょう。
殿中将軍は
宮中に勤める官のようです。
宮城の衛兵を率いるのです。
郡縣に任用されるのが普通ですから、
初手から宮中勤めは優遇でしょうね。
支店配属じゃなく、
本社勤務な感じ。
それからしばらくすると、
雍州の別駕に転任した、と。
雍州刺史の補佐を勤めました。
別駕は刺史の補佐官でかなりエライ。
どのくらいエライかと言うと、
パンピー官吏と出入口が別なくらい。
少なくとも、名前の由来はそう。
北魏末に別だったかは知りません。
雍州は長安を含みます。
というか、
雍州の役所は長安にあった。
なんで、
宮中から近所に勤め先が変わった感じ。
※
doubt:自分のミスを晒します
北魏の国都は長安ではなく、洛陽です。
だから、王羆さんは最初は洛陽に務め、
転勤で実家に近い長安に帰ったのです。
間違ってやんの。誰が?オレです。
故郷の霸城も雍州にあります。
王羆さん、
ここまで雍州から一歩も出てねえ。
下手すると実家住み?
さすがにそれはないか。
※doubt:自分のミスを晒します
上に同じく。バーカ。
誰が?オレです。
誠に申し訳ございません。
▽
刺史崔亮有知人之鑒,
見羆雅相欽挹。
亮後轉定州,
擢羆為長史。
執政者恐羆不稱,
不許。
刺史の崔亮は知人の鑒あり。
羆を見て雅に相い欽挹す。
亮は後に定州に轉ずるに、
羆を擢きて長史と為す。
政を執る者は羆の稱わざるを恐るるも、
許さず。
※
doubt:自分のミスを晒します
最後の一文、
主語が「執政者」なので
「執政者は王羆さんが職務に
ふさわしくないんじゃないかと恐れ、
崔亮さんの求めを許さなかった」
と解するべきです。
そうなると、
訓読が変わります。
「政を執る者は羆の稱わざるを恐れ、
許さず」
間違ってやんの。
誰が?オレです。
生まれてきて申し訳ございません。
△
この時、
刺史は崔亮という人で、
人を観る目があったと。
ホントか?
経歴を見ると、
吏部で十年くらい
人事をやっていたので、
これが原因でしょうね。
人を観る目がある、
ことにしないとマズイ。
ちなみに、
崔亮さんの出身は山東、
清河の東武城。
曹丕が建国した魏に仕えた、
末裔だそうです。
知らん。
三国志好きってかマニヤなら
知っている人は知っている、
という感じの人らしいです。
うーむ、
マニアック。
その崔亮さん、
清廉というか、
ケチ&公私のケジメを必要以上につける
そんな王羆さんを高く評価したそうです。
愛、つまり、LOVE。
何しろ、
「いやいや、あなた様には及びません」
とか遜る意味があります。
相手は部下ですよね?
相当なもんです。
朝廷の人にも言いふらしたっぽい。
これが王羆さんの人生に影響します。
さらに、
雍州刺史から定州刺史への転任にあたり、
王羆を連れて行きたいとワガママした。
当然、
周囲の人たちというか、
朝廷の上層部は猛反対です。
あんな、
瓜の皮まで食べるようなヤツどうなの?
でも崔亮さん聞かない。
なぜなら、
自分の目に自信があった。
一緒に定州に赴任します。
定州は山東の中山のあたり、
王羆さんはついに関中というか、
故郷の雍州を出て山東に雄飛したわけです。
※
doubt:自分のミスを晒します
崔亮さんは執政者に阻まれ、
王羆さんは雄飛してません。
ダメなものはダメです。
▽
及梁人寇硤石,
亮為都督南討,
復啓羆為長史,
帶鋭軍。
朝廷以亮頻舉羆,
故當可用。
及剋硤石,
羆功居多。
梁人の硤石に寇するに及び、
亮は都督となりて南のかた討ず。
復た啓して羆を長史となし、
鋭軍を帶びさしむ。
朝廷は亮の頻りに羆を舉ぐるを以って、
故に當に用うべしとせり。
硤石を剋くするに及び、
羆の功は多きに居る。
△
『資治通鑑』によると、
壽春の北を東へ流れる淮水を下った先、
沙水の合流点を過ぎると、西岸に荊山、
東岸に塗山が聳えていたそうな。
硤石はその荊山にあたるっぽい。
そこに南朝の梁が攻め込んできた。
この頃、
壽春は北魏が押さえていました。
狙いは当たり前のように壽春です。
梁軍の主帥は趙祖悦という人でした。
硤石には魏の城があったようで、
それらを抜いて外城を造りつけ、
さらに
淮水沿岸の住民を城に入れています。
列伝ではさらっと書かれていますが、
実は淮水沿岸の攻防戦の一部で、
かなり大規模な侵攻でありました。
迎える北魏は、
仮の鎮南将軍に任じた崔亮
を遣わし、
鎮東将軍の
という人も投入しています。
さらに、
壽春の軍を含む諸軍の調整のため、
吏部尚書の李平まで派遣しました。
力入ってますよ、これは。
攻める梁も、
昌義之
や
王神念
など有力部将を援軍に派遣します。
援軍がウザい北魏は、
車輪を数珠繋ぎにした怪しい物体を
淮水に渡して交通を封鎖しました。
援軍を近づけなくするとともに、
趙祖悦の退路を断ったのです。
車輪は水面スレスレにあり、
焼き切ったりもできません。
いつのまにやら、
遊牧民だった鮮卑のみなさん、
北魏も水戦慣れしていますな。
さて、
硤石に向かう崔亮さん、
その時も王羆を長史として
連れていきました。
しかも精鋭部隊を与えてます。
※
doubt:自分のミスを晒します
ここでようやく崔亮さんは
最愛の王羆さんを長史とします。
オエ。
この頃になると、
崔亮さんの王羆推しから
朝廷でも王羆って使えるんじゃね?
という意見も聞こえはじめたらしい。
ここまでの王羆さんは
清廉疾悪&精励公事の一筋、
売り込み&売名まるでなし。
崔亮さんの推しの力で
成り上がったのです。
今も昔も
上からの「引き」って大事、
ということがよく分かります。
で、
王羆さんは戦場でも有能だったらしく、
硤石に攻め込んできた梁軍をボコッて
軍功を挙げています。
なお、崔亮さんは
戦勝に乗じて軍を進めるよう命じられ、
「病気でーす」
とか言って軍を返したため、
後でメッチャ怒られました。
「うーん、死刑!」
とか李平に言われる始末。
でも、
族兄の崔光という人が高官なので
お咎めなし。
上級国民バンザイ。
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