王羆=オウヒ②行方不明の九年間

▼王羆さん、東益州に飛ばされる


ここまで、

王羆さんの年表はこんな感じ。


・孝文帝の太和年間(477-499)

  殿中将軍に任じられて官途に就く


・宣武帝の永平四年(511)か延昌元年(511)頃

  崔亮さんが雍州刺史になって気に入られる


・孝明帝の延昌四年(514)初め

  崔亮さんが定州刺史に転任して連れて行かれる

  ※doubt:自分のミスを晒します。

   連れていけませんでした。


・その年の十二月

  梁軍が硤石に侵攻


・孝明帝の熙平元年(515)二月

  崔亮さんが硤石の梁軍を退ける


雍州別駕になった時期は不明、

太和の末に官途に就いたとして

梁軍を破ったのは16年後のこと。


初任官が18歳だったとして34歳?

思ったより歳いってます。


没年は硤石の戦の26年後、

つまり、

大統七年(541)、

34歳だったとすると享年60歳、

まあまあ妥当なところかなあ。


初任官の時期がもう少し早いか、

その時の年齢がもう少し上でもよさげ。


さて、

硤石で軍功を挙げた王羆さんの

その後を見ていきましょう。




先是南岐、

東益氐羌反叛,

乃拜羆冠軍將軍,

鎮梁州,

討平諸賊。


 是に先んじて

 南岐、東益の氐羌は反叛せり。

 乃ち羆に冠軍將軍を拜し、

 梁州に鎮して

 諸賊を討ち平げしむ。




硤石で戦功を挙げた王羆さん、

ついで西の梁州に飛ばされます。


崔亮さんが仮病で撤退した

とばっちりだったのかは謎。


この頃、

南岐州と東益州では

氐族や羌族の叛乱が

頻発していたようです。


漢中の南鄭は梁の支配地なので

岐山の南は国境地帯、

かつ、

氐族や羌族が雑居する土地

でした。


異民族の叛乱を梁が煽動する、

なんてことは日常茶飯事です。


しかし、

この時の叛乱の原因は、

刺史のクソっぷりらしい。


前任の傅豎眼ふじゅがんという人は

統治の術に優れた人であったそうな。


その後、

元法僧という人が赴任したのですが、

人格能力ともにクソの中のクソ。


当然、氐人も羌人もイライラ。


どれくらいクソかというと、

『資治通鑑』でもボロクソです。


素より治幹なし、

加うるに貪残を以ってす

=統治の才ゼロ、しかも貪欲で残忍


ですからね。


いない方がマシなレベルです。


でも、

東益州刺史になってしまった。


この頃、

近くの岐州にもオモシロ刺史がおります。

趙王の元謐げんひつという方ですが、

これまたかなりのクソです。


ある朝、

州城の城門を閉ざして城民を捕らえ、

理由もなく六人を斬殺したそうです。


リアルデスゲーム、

イッちゃってます。


しかも、

民がキレて向かってくると、

楼閣に登って梯子を壊し、

上でプルプル震えるヘタレっぷり。


お前、ホントに大丈夫?


王靖というフツーの人が来ると、

城民たちは城門を開いて迎え入れ、

罪を謝して官署の鍵を返したそうな。


なんじゃそりゃ。


で、

元謐さんは洛陽にドナドナ。


後日譚ですが、

元謐さんの妻は皇帝の母の霊太后の一族、

そのおかげか、

洛陽に還ると新たに大司農に着任します。


大司農って

けっこうな高官ですぜ。


霊太后についても

いずれは述べるつもりですけど、

この時期の北魏中枢はまさに、

そびえ立つクソ。


国が保たれるはずもありません。


以上、

余談になりましたが、

岐山界隈の岐州や東益州が

どんな状況にあったか、

お分り頂けるかと思います。


南岐、東益の氐羌は反叛せり?


自業自得じゃ。


でまあ、

国境地帯ですからね。


当然のように、

叛乱した民は隣国の梁に通じます。


特に、

晋壽郡では民が太守を殺し、

梁に降ってしまいました。


当然、梁は大喜び、

張齊という人を送り込んできます。


北魏が誇るオモシロ刺史の元法僧

VS

張齊さん


張齊さんはまともなだったようで、

瞬く間に十数城を落とし、

元法僧がいる武興の城を囲みました。


元法僧、

民政はヘタだが軍事は苦手。


ビビった元法僧、

当然のように洛陽に救援を求めます。


タスケテ。


この頃、

先の東益州刺史、

氐人も羌人も大好きな傅豎眼さんは

梁との戦がつづく淮南におりました。


王羆さんと崔亮さんが出張った戦は

淮水沿岸の大きなゴタゴタの一部に

過ぎなかったのです。


で、

傅豎眼さんは民政も軍事も抜群なので、

最前線に送り込まれていた。


元法僧の泣き言を聞いた洛陽の朝廷は、

「そこで死ね」と冷たいことは言わず、

わざわざ淮南に人を遣って傅豎眼さんを

呼び戻しました。


傅豎眼さん、

三千ばかりの兵を与えられ、

長安の西の東益州を目指します。


遠い。


州境を越えると、

三日間に九戦全勝、

張齊を退けたそうです。


氐人も羌人も、

その軍勢を迎えに出て大歓迎。


元法僧、完全に空気。


熙平二年(516)の七月頃、

張齊は完全に退いたようです。


王羆さんはこの一連の戦に

放り込まれたと見られます。


おそらく、

傅豎眼さんが出兵した際に

同行したか何かでしょうか。


身分は冠軍將軍ですから、

民政には関わりません。


『周書』では

「五千の羽林兵を率いて出征した」

とされております。


派兵は一時的なものですから、

東益州のゴタゴタが治まれば、

洛陽に還ることになります。


おつかれさまでした。




▼王羆さん、任官を断る


東益州への出征から洛陽に還り、

王羆さんに次の辞令が下ります。




還,授西河内史,

辭不拜。

時人謂曰:

「西河大邦,奉祿優厚,

何為致辭?」

羆曰:

「京洛材木,盡出西河,

朝貴營第宅者,

皆有求假。

如其私弁,

則力所不堪,

若科發人間,

又違犯憲法。

以此致辭耳。」


 還りて西河の内史を授けらるるも、

 辭して拜さず。

 時人は謂いて曰わく、

「西河は大邦、俸祿は優れて厚し、

 何為れぞ辭を致さんや」と。

 羆は曰わく、

「京洛の材木は盡く西河より出ず。

 朝貴の第宅を營む者は

 皆な假るを求むる有り。

 如し其れ私に弁わば

 即ち力の所堪えざる所なり。

 若し民間に科し發せば、

 又た憲法に違反せん。

 此を以って辭を致すのみ」と。




新しい職場は西河という国、

大きな郡に相当します。


栄転、おめでとうございます。


しかし、

王羆さんは空気を読まず、

この任官をお断りします。


この時の発言がかなり面白い。


訳文はこんな感じでしょうか。

「洛陽の材木はぜんぶ西河から供給されてんねんから、そんなトコに赴任したら、朝廷のエライさんが家を建てる時にタダで提供しろ言うやん。自腹やと破産するし、パンピーから徴発したら違法やって怒られるし、そんなんイヤや」


なるほどねえ。


袖の下とか、

王羆さんの性格上ムリですよね。


ムリムリ。

讒言されて失脚待ったなしです。


自分のことがわかってる。


ついでに、

北魏の末における大臣高官の

モラルハザードも見てとれます。


なんというか、末期的。


こういう振る舞いが地方では

当然の行いだったわけです。




▼王羆さん、九年ほど行方不明になる


西河の内史をお断りした王羆さん、

一般には、

洛陽に残って浪々の身となるか、

故郷に帰るか。


王羆さんのことですから、

覇城に帰ってのんびり過ごした

とでも考えたいところです。


その王羆さんが次に任官されるのは、

『北史』と『周書』の傳によると

実に九年後になります。


これホント?


結論は、たぶん脱落あり。




後以軍功封定陽子,

除荊州刺史。


 後に軍功を以て定陽子に封ぜられ、

 荊州刺史に除せらる。




その後、

軍功により定陽子爵に任じられ、

荊州刺史になりました。


いつの軍功よ?!


子爵は、

の五爵の下から二番目、

初の加爵だったかは不明。


豪族だからたぶん違う。

男爵とかワラワラいそう。


しかも、

単に爵位を与えられた、

という話ではありません。


荊州刺史に除任されている。


しかも、

当時の荊州はきな臭いというか、

梁との紛争まっただ中です。


またかよ。


荊州刺史に任じられた記事は

『資治通鑑』では

北魏の孝昌元年(525)の末

にあります。


ただ、

その際の官は恆農太守とされています。


恆農は河南にあって荊州ではありません。


もし、

出征の際に任じられるなら

荊州のどこかの郡太守に

任じられたでしょう。


だから、

これは出征とは関係なさそう。


そうなると、

西河の内史をお断りした後、

郡太守くらいの官を歴任し、

恆農太守から荊州刺史に転任、

という可能性もあります。


地方官の任期は三年だったかな。


それなら西河の内史を断った後、

ここまで二、三箇所の太守を

歴していたのかも知れません。


そっちのが納得感ありますが、

史書に記録がないので不明。


しかし、

やはり九年間も覇城にいたとは

考えにくいと思います。


なぜならば、

ぶっちゃけお金がなさそうだから。




羆安於貧素,不營生業,

後雖貴顯,郷里舊宅,不改衡門,

身死之日,家甚貧罄,

當時伏其清潔。


 羆は貧素に安んじて生業を營まず。

 後に貴顯たりと雖も郷里の舊宅は衡門を改めず。

 身死するの日、家は甚だ貧罄、

 當時は其の清潔に伏す。




王羆さんは利を求めず、

栄達しても家を改修しなかった

と述べています。


むしろ、家は貧しかったらしい。

役得とか好まなそうですもんね。


何しろ、

「貧罄=貧しく物に事欠く」

とまで言われております。


生業を営まなかったとされますが、

商売しなかったと解するのがよさげ。


農業は別。


なので、

小作人を使っていたか、

あるいは、

自ら鍬や鋤を取っていたか、

どの道、働かないとダメです。


あるいは、

小作人を使っていたか。


で、

孝昌元年となると、最初の任官から

少なくとも四半世紀は過ぎております。


年の頃は四十代も半ばくらいでしょう。


三十代半ばからの九年、

働き盛りの時期を故郷の覇城で過ごした、

というのはちょっと考えにくいかなあ。


この間の記録が欠落していると

考える方が通りがよさげですが、

まあ、

ご想像にお任せな箇所ですね。


いずれにせよ、

孝昌元年十二月、

王羆さんは荊州に向かいます。

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