王羆=オウヒ③州刺史はサイコパス
▼王羆さん、荊州に赴く
さて、
荊州に向かった王羆さん、
赴任とは異なり、出征です。
梁との国境地帯である徐州、荊州は
数年前から梁の攻勢に分が悪かった。
特に徐州方面、
梁軍には「夷陵烈侯」と諡された
というキョーレツな勇将がおられて
とにかく強い。
北魏の軍勢はこの人に遭うと
まず負けます。
ただ、
裴邃さんは王羆さんが荊州に赴く以前、
孝昌元年の五月に亡くなっています。
それでも、
北魏軍と梁軍は徐州から荊州にかけて
激戦を繰り返しておりました。
その中で、
王羆さんはどう過ごしたのでしょう。
▽
梁復遣曹義宗
圍荊州,
堰水灌城,不沒者數版。
時既内外多虞,未遑救援,
乃遺羆鐵券,
云
城全
當授本州刺史。
城中糧盡,
羆乃煮粥與將士均分
食之。
毎出戰,常不擐甲冑,
大呼告天曰:
「荊州城,孝文皇帝所置。
天若不祐國家,
使箭中 王羆額;
不爾,
王羆須破賊。」
屢經戰陣,亦不被傷。
彌歴三年,義宗方退。
進封霸城縣公。
梁は復た曹義宗を遣して
梁荊州を圍ましめ、
水に堰して城に灌ぎ、
沒せざるもの數版のみ。
時に既に内外は多虞、
未だ救援するに遑あらず、
乃ち羆に鐵券を遺り、
云えらく、
城を全うせば
當に本州刺史を授くべし、と。
城中の糧は盡き、
羆は乃ち粥を煮て將士と均分し、
之を食らう。
出戰する毎に常に甲冑を擐せず、
大呼して天に告げて曰わく、
「荊州城は孝文皇帝の置く所なり。
天の若し國家を祐けずんば、
箭をして王羆の額に中らしめよ。
爾にあらざれば、
王羆は須く賊を破るべし」と。
屢々戰陣を經るも、亦た傷を被らず。
彌々三年を歴て義宗は方に退けり。
進みて霸城縣公に封ぜらる。
△
北魏の荊州は穣城に置かれていました。
南陽より南、
襄陽より北、
新野の西、
くらいの位置です。
攻める梁将は曹義宗といい、
兄の曹敬宗は梁屈指の武人
でありました。
その曹義宗が穣城を水攻めにし、
刺史の李神儁は籠城して抵抗、
恆農太守として部下をブン殴っていた
王羆さんが救援に遣わされたわけです。
この援軍は崔暹という人を主将に、
裴衍や王羆さんが副将を務めており、
来援とともに曹義宗は兵を引きます。
といっても一時撤退、
西の順陽に向かったらしい。
そこでも裴衍らと攻防を繰り返し、
魏軍を退けて順陽を奪っています。
その最中、
王羆さんは李神儁に代わり、
荊州刺史に任じられます。
ぶっちゃけ、
王羆さんを捨てて李神儁を取った感じ。
ただ、
荊州を守り抜いた暁には
王羆さんを本州刺史、
つまり、
故郷である雍州の刺史
に任じると約束されました。
故郷に錦を飾れるわけですから、
当時の人を奮発させるには
もっとも強い動機だったでしょう。
そういうわけで、
罰ゲームさながらの命令ですが、
腐らず任に就いたと思われます。
順陽に拠る曹義宗は
穣城と新野への侵攻を
繰り返したと見られます。
翌年冬、新野が攻められて
北魏は魏承祖と辛纂を
援軍に送っています。
『梁書』では
その冬に新野が落ちた
としています。
しかし、『魏書』ではその後も
新野は魏の領地となっているから、
陥落後に奪回したのかも知れません。
一帯での攻防はつづき、
穣城はふたたび水攻めに遭います。
このあたりは春か秋に増水するようです。
その時期を利用したのでしょう。
『資治通鑑』では
孝昌四年(528)の夏
に記載されています。
実際は、この年の春から
始まったんじゃないですかね。
三年ずーっと水攻めとか、
フツーに考えたらムリでしょ。
穣城の周りは一面の水、
城外との連絡を断たれると、
まずは食糧が不足します。
食糧の配給は厳格に行われたでしょう。
冒頭、
宴会の酒肉を自ら取り分けたという
ケチ臭い逸話をご紹介しましたが、
王羆さんは今回も当然のように
自ら食糧の配給にあたったはず。
お粥を配るにも均等に行き渡るよう
努めたに違いありません。
セセコマシイ性格が戦場で培われたのか、
それ以前からなのかは分かりませんけど。
一方、
戦になると勇敢で、
身に甲冑を帯びず
前線に出たらしい。
ちょっとアタマおかしい。
しかし、
熱狂的な将軍の下にあると、
兵が強くなるのも事実です。
物狂いが感染るのでしょうか。
人が無我夢中になると
怯むこともありません。
その先頭には、
鎧兜もつけない王羆さんがいた。
梁兵のみなさんも
いい迷惑だったでしょう。
「荊州城は孝文皇帝の置いたもんじゃ。もしも天が國家を助けぬならば、矢はこの王羆の額を貫こう。額に矢があたらぬならば、賊は必ずや打ち破れる」
戦に出ると天に向かってそう叫び、
敵に突っ込んでいったらしいです。
ホンマモンです。
鎧兜を捨てたのも、
こういう放言をするのも、
部下の士気を駆り立てる
ためだったようです。
同じようなことを
後にもしていますから。
そう考えると、
天性の将帥という一面も
あったのかも知れません。
何しろ荊州に赴任して三年の間、
一度も傷を負わなかったらしいです。
五月、
ようやく北魏は荊州に援軍を出します。
二年ぶり三回目。
最初は孝昌元年十二月の崔暹と裴衍、
この時に王羆さんも荊州に来ました。
次は
孝昌二年の冬の魏承祖と辛纂、
この時は新野を救援しました。
三回目は
孝昌四年の五月、
同年四月に改元しているので
正しくは、建武元年五月です。
北魏は荊州の要地が危うくなると
必ず援軍を送っていますが、
三回目も穣城が危うくなってすぐ
兵を出したかは分かりません。
というのも、
孝昌三年から翌年にかけての北魏は
大きなイベントがテンコ盛りでした。
出兵より二ヶ月前の三月に
河陰の変という大事件が
起こっておりまして、
荊州とか気にしている場合じゃない。
河陰の変を一言でいえば、
爾朱榮という人が
霊太后と幼い皇帝を
黄河に沈めて
宗室諸王と大臣高官を
殺しまくった
事件であります。
それってもう
国家の体をなしていないのでは。
このあたりも別に詳しくお話したい、
と今は考えております。なので割愛。
それでも
五月に救援を出したということは、
おそらくかなり危うかったはずです。
そうすると、
前年秋から包囲されていたかも知れません。
でも、
水量が減る冬場はどうしていたのでしょう。
ともかく、
費穆を援軍に遣わしました。
しかし、よりにもよって費穆とは。
この人、
あまり指摘されませんが、
河陰の変の責任者の一人です。
そのあたりはまた別にお話したい。
費穆という人は無能な人ではなく、
むしろ孤軍で一城を守り抜いたりと
デキる人でもあります。
十一月には梁軍を破り、
曹義宗を擒としました。
『資治通鑑』では、
この時ようやく包囲が解けたとしますが、
果たして三年に渡って包囲したかどうか。
周辺への侵攻も考えると、
孝昌元年とこの解放時期だけ
囲まれていたのではないかと
邪推してしまいます。
いずれにせよ、
王羆さんは無傷で生き延び、
覇城縣公に封じられました。
荊州刺史は任期まで
しばらくそのまま、たぶん。
▼王羆さん、約束を反故にされる
荊州を守り抜いた王羆さん、
お約束はどうなりましたか。
▽
元顥入洛,
以羆為左軍大都督。
顥敗,
莊帝以羆受顥官,
故不得本州,
更除岐州刺史。
元顥の洛に入るや、
羆を以て左軍大都督と為す。
顥の敗るるに、
莊帝は羆の顥の官を受くるを以って、
故に本州たるを得ず、
更めて岐州刺史に除せらる。
△
さて、
王羆さんが荊州刺史になる時点で、
守り抜いた暁には雍州刺史になれる
というお約束がありました。
費穆の援軍によって荊州は解放され、
まさしく守り抜いたわけであります。
しかし、
残念ながら、
雍州刺史にしてもらえませんでした。
原因はなかなかに複雑です。
費穆が荊州に援軍に向かう
その一月ほど前のこと、
北海王の元顥という人が
梁に降りました。
タチがよい人ではなかったのですが、
混乱を見て不安に思ったのでしょう。
この時、
北魏の宗室で梁に降った人は
けっこうな数がいたようです。
梁には北魏の混乱が機会です。
元顥を魏王に封じた上で、
洛陽に送り還そうとしました。
もちろん、
ただ送り還すだけではありません。
北魏の帝位に即け、
傀儡国家にしてしまおう
という野望があります。
そのために遣わされたのが、
陳慶之という人です。
梁の武帝の麾下では
一頭抜けた感じの武将で、
ご存知の方も多いかも知れません。
この時期、
両軍が徐州方面や荊州方面で
繰り返している戦を横目に、
間を縫って洛陽を突きました。
その経路は、
渦陽から北西に進み、
浚義と陳留を経て
梁國に入ったと見られます。
ちょうど、
徐州と豫州の間を
抜けていく感じになります。
梁國で元顥は帝位に即き、
西に向かって滎陽と虎牢を抜き、
翌年の五月には洛陽に入ります。
この時、
北魏の孝荘帝は黄河の北、
河内に逃げ出しておりました。
以上、前説でした。
この元顥が洛陽に入った時、
黄河の南にある州郡の多くが
従ったといいます。
おそらく、
荊州刺史の王羆さんも
この一人でありました。
元顥も皇室の人であり、
従う人が多かったのです。
王羆さんとしては自衛かも知れませんが、
左軍大都督という官職に任じられました。
しかし、
元顥の天下は続きません。
北魏の主力が集ると、
あっけなく敗死します。
陳慶之は命からがら
江南に逃げ帰ったそうです。
そういうわけで、孝荘帝は
元顥の官爵を受けた王羆さんが
気に入りません。
気に入らないから
雍州刺史に任じてもらえず、
長安の西の岐州の刺史に
任じられたのです。
残念。
▼王羆さん、サイコパスっぷりを発揮する
刺史として故郷に錦を飾るはずが、
元顥の官職を受けて反故にされ、
岐州刺史として関中に赴任します。
この時、
隣の南秦州では叛乱が続発しており、
ついでに南秦州の面倒も見てね、
と朝廷に命じられています。
そんなんでいいのだろうか。
混乱期だから仕方ないですね。
▽
時南秦數叛,
以羆行南秦州事。
羆至州,
召其魁帥為腹心,
撃捕反者略盡。
乃謂魁帥等曰:
「汝黨皆死盡,
何用活為!」
乃以次斬之。
自是南秦無復反者。
又詔羆行秦州事。
時に南秦は數々叛し、
羆を以って行南秦州事とす。
羆の州に至るに、
其魁帥を召して腹心と為し、
反く者を撃ち捕えて略ぼ盡く。
乃ち魁帥等に謂いて曰わく、
「汝が黨は皆な死して盡く、
何ぞ用て活く為さん」と。
乃ち次を以て之を斬れり。
是れより南秦に復た反する者なし。
又た羆に詔して行秦州事とす。
△
南秦州に入ると、
叛乱の首魁を集めて腹心とし、
叛乱の平定にコキ使いました。
王羆さんのガラの悪さが忍ばれます。
荊州で梁軍と戦っていただけに、
ガラも悪くなりますよね。
それで、
おおむね賊徒を滅ぼし終えたかな、
というあたりで、腹心とした首魁に
ステキな笑顔で言い放ちます。
「お前らの同類はみな死に尽くしたやん?
もう活かしといても使い道がないやん?」
首魁たちを順に斬り殺したそうです。
サイコパスやないかい。
そこは改心させて部下にすべきでは。
普通なかなかできませんよね、
一緒に仕事をした仲間を殺すとか。
おそらく、
王羆さんは最初からそうするつもりで
首魁たちを腹心にしたのでしょうけど、
ココロが強いというか、
人情味がないというか、
死刑を延期してやっているくらいの
キモチだったのかも知れません。
コエーよ。
で、
南秦の賊徒はいなくなり、
さらに秦州の面倒も見るように
命じられたそうです。
岐州と南秦州に加え、
秦州の面倒も見るという、
朝廷からすれば、
実にお買い得な役回り
となってしまいました。
それもこれも
王羆さんのサイコっぷり、
ではなく、
有能さのためです。
国家のためなら仕方ないですよね。
イイ気味だ。
▼王羆さん、歴史の奔流に顔を突っ込む
そんなこんなで
長安の西で大暴れした王羆さん、
刑期ではなく任期を終えると、
涇州の刺史に任じられました。
涇州は長安がある雍州の北隣です。
▽
尋遷涇州刺史。
未及之部,
屬周文帝徴兵為勤王之舉,
羆請前驅効命,
遂為大都督,鎮華州。
尋いで涇州刺史に遷る。
未だ部に之くに及ばず,
周文帝の徴兵して勤王の舉を為すに屬し、
羆は前驅として命を効すを請い、
遂に大都督たりて華州に鎮ず
△
辞令を受けた王羆さん、
岐州から洛陽に戻らず
一旦は故郷の覇城に
帰ったのではないか
と思います。
洛陽にいると、
違う展開になったはずですから。
王羆さんが荊州と岐州にいる間、
時代は変転しておりました。
この頃になると、
洛陽を握る高歓
と
関中に拠る宇文泰
の対立が顕在化しつつありました。
ここまでの王羆さん、
北魏の大事件には
関わっていません。
六鎮の乱も、
河陰の変も、
爾朱氏平定も、
まったく絡みなし。
唯一絡んだのが元顥、
で、
雍州刺史になれませんでした。
巡り合わせがいいんだか、悪いんだか。
転任の荷造りするところに、
宇文泰が高歓と戦うため、
軍勢を集めはじめたという
噂を耳にしたわけです。
さあ大変。
王羆さん、
涇州行きを取り止め、
宇文泰の許に出頭して
先鋒に任じられるよう
願いました。
宇文泰はその望みを容れて
大都督に任じ、
長安の西というか、
蒲坂と潼関に睨みを利かせる
華州の鎮守を命じます。
この華州は後に同州となりますが、
西魏の主力軍が配置された要地です。
何しろ、
河東から関中への入口である蒲坂
と
洛陽から関中への入口である潼関
の両方に近い。
華州に鎮守するとは、
門戸を委ねることに同義。
つまり、
王羆さんのサイコっぷり、
ではなく有能さは
宇文泰も承知していたのです。
これまで、
歴史のメインストリームから
少し距離がある感じだった
王羆さんの人生も、
いよいよ、
河北を舞台とする歴史劇に
巻き込まれるわけです。
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