王羆=オウヒ④50歳のメジャーデビュー

▼王羆さん、寝過ごす


永熙三年(534)、

少なく見積もっても50歳過ぎ、

ついにメジャーデビューです。


いよいよ

時代の覇者=高歓

挑戦者=宇文泰

による北朝の覇権争いに

主要メンバーの一人として

加わることになりました。


場所は華州、

河東から関中に入る門戸であり、

最大の要地の一つです。


しかし、

めでたいかどうかはナゾ。


王羆さんを華州かしゅうに置いた狙いを

宇文泰はこう語っております。


『周書』文帝紀より。


「高歓はアタマはパーやけど人を騙すんはうまい。関中に攻め込むっぽく見せとるけど、裏かいて洛陽の帝を捕らえるつもりやで。先だって、寇洛こうらくに一万の兵をやって河東に攻め入れるようにしたし、王羆も一万の兵を率いて華州におる。高歓が蒲坂から攻めてきよったら、王羆が何とかするやろ。洛陽に入ったら、寇洛が河東に攻め込みよるし、ワシも行くで。高歓は進むにも背後の河東が気になるやろし、退くんもワシがさせへん。この機会にいてもうたったらええんや」


関中は函谷関かんこくかんの西なので

「関西」とも呼ばれました。


そのため?

ネイティブ関西弁で

お送りしております。


寇洛という人とともに王羆さんを

高歓への備えとしたわけです。


この時の宇文泰は28歳、若い!

高歓は一回り年上の39歳でした。


王羆さんは高歓とも渡り合える

と宇文泰に買われていました。

ステキやん。


そういうわけで、

20歳ほど年下の宇文泰に従い、

華州に鎮守することとなりました。


そこに、

洛陽の孝武帝が長安に逃れてくる

という非常事態が発生します。


この時、

宇文泰の子飼いの連中が

孝武帝を関中に迎えます。


王羆さんは華州の押さえなので

動けませんでした。




孝武西遷,

進車騎大將軍、儀同三司,

別封萬年縣伯,

乃除華州刺史。


 孝武の西遷するに

 車騎大將軍、儀同三司に進み、

 別に萬年縣伯に封ぜられ、

 乃ち華州刺史に除せらる。




そういうわけで、

孝武帝の長安行幸というか逃亡時は

地蔵のように動かなかったのですが、

この機会に官位は

車騎大將軍しゃきだいしょうぐん

儀同三司ぎどうさんし

に進められ、

爵位は萬年縣伯ばんねんけんはく

与えられたそう。


荊州から帰還した際、

霸城縣公はじょうけんこう

になっておりますから、

別に萬年縣伯を授けられたのです。


で、

正式に華州刺史に任じられました。


これまで、

華州への鎮守を命じられたとはいえ、

孝武帝は洛陽で高歓の傀儡でした。


それが

洛陽から長安に逃れてきたので、

正式に除任されたわけです。


つまり、

西魏の成立です。


後日、高歓は

元善見げんぜんけん

という皇族を帝位に即け、

正統であると主張します。


この時より北魏は東西に分かれました。


当然、

それだけで済むはずもなく、

高歓は関中に軍勢を進めます。




齊神武率軍進潼關,

人懷危懼,

羆勸勵將士,衆心乃安。

神武退,

拜驃騎大將軍,加侍中、開府。


 齊の神武は軍を率いて潼關に進み、

 人は危懼を懷けり。

 羆は將士を勸勵して衆心は乃ち安んず。

 神武の退くに、

 驃騎大將軍を拜し、侍中、開府を加う。




高歓は

神武帝しんぶてい

というコッ恥ずかしい

おくりなをされています。


いやーキツイです。


なので、

愛称は「神武」となります。


世が世なら不敬罪やで。


それが、

関中の門戸である

潼関どうかん

に攻め寄せてきた。


当時、

高歓の東魏と宇文泰の西魏では、

圧倒的に東魏の兵力が多かった。


だから、

人々が不安に感じたのもやむを得ません。


そこで、

王羆さんは励まして

落ち着かせたらしい。


またぞろ大言してみせたことでしょう。

どう大言したかは残っておりません。


残念。


孝武帝を追うように

兵を出した高歓でしたが、

それほど深追いせずに

軍勢を返しました。


深追いすると、

孝武帝を擁する宇文泰に

「朝敵」認定

される危険性もありますから、

むしろ、

別に帝を擁立して

名分を整えるのを優先した、

のかも知れません。


いずれにせよ、

高歓は徹底して西魏の成立を

阻もうとしませんでした。


それが大きなミステイク。


子孫が大変な目に遭いますが、

それはまた後のお話。


孝武帝が長安に入る、

すなわち、

西魏の成立

とともに王羆さんは

驃騎大將軍ひょうきだいしょうぐん

に進み、

侍中じちゅう

開府かいふ

の官を加えられました。


ほぼ位人臣を極めたと言っても

過言ではありません。


風前の灯のごとき

弱小の西魏ではありますが。


ここから、

華州刺史としての

王羆さんの活躍が始まります。


ついに正史の真ん中に登場です。


しかし、

第一話からいきなりすっぽ抜けており、

さすがの一言です。


フツーに考えたら更迭されてんぞ。




嘗修州城未畢,

梯在城外。

神武遣韓軌、司馬子如

從河東宵濟襲羆,

羆不覺。

比曉,軌衆已乘梯入城。

羆尚臥未起,

聞閤外洶洶有聲,

便袒身露髻徒跣,

持一白棒,大呼而出,

謂曰:

「老羆當道臥,

貉子那得過!」

敵見,驚退。

逐至東門,

左右稍集,合戰破之。

軌遂投城遁走。

文帝聞而壯之。


 嘗て州城を修めて未だ畢らず、

 梯は城外に在り。

 神武は韓軌、司馬子如を遣りて

 河東より宵に濟りて羆を襲わしむるも、

 羆は覺らず。

 比曉、軌の衆は已に梯に乘りて城に入る。

 羆は尚お臥して未だ起きず、

 閤外に洶洶として聲あるを聞く。

 便ち袒身に髻を露して徒跣し、

 一白棒を持ち、大呼して出ず。

 謂いて曰わく、

「老羆の道に當りて臥すに、

 貉子は那んぞ過ぎるを得んや」と。

 敵は見て驚き退く。

 逐いて東門に至り、

 左右は稍く集まり、合戰して之を破る。

 軌は遂に城より投じて遁走す。

 文帝は聞きて之を壯とす。




軍勢を引いた高歓でしたが、

関中への出兵を諦めてはいません。



韓軌かんき

司馬子如しばしじょ

を遣わし、

河東から蒲坂ほはんを抜けて

王羆さんの華州を襲わせました。


夜襲ですね。


これに先立ち、

二人は潼関を攻めていますが、

宇文泰に阻まれました。


やむなく

潼関の手前、

風陵津ふうりょうしん

で黄河を北に渡り、

蒲坂から華州に向かいます。


その情報、

王羆さんに伝わってますよね?


しかし、

王羆さんは超油断していたのです。


ゆるゆるガバガバであります。


ちょうど、

華州の城の修繕を進めており、

城壁に梯子が立てかけてありました。


油断しすぎだろ。

人の話を聞こう。


しかも、

王羆さん、熟睡して

東魏軍の接近に

まったく気がつかない。


うっかりにも程があります。


夜明けの頃には、

韓軌の軍勢が梯子を使い、

城壁に上がっていました。


そりゃあ、

梯子があれば登るって。


王羆さん、それでも起きない。


東魏兵が城壁を下りて攻め込んでくると、

ようやく声に気づいて目を覚ましました。


周囲から響く喧騒、王羆さん危うし。


目を覚ました王羆さん、

ほぼ裸で冠も被らず、

裸足に白い棒を持って飛び出した。


ちなみに半裸。

ちなみに冠なし。


むしろ、

裸で冠だけ被ってるとかだと、

スゴイ絵になってしまいますけど。


「この羆が道に寝とんのに、

狸が通れると思ったんか!」


語尾に「ワレ」とか付けたくなります。


しかし、

白い棒とは何だったのでしょうか。

まさか、部下をシバくためのヤツ?


それにしても、

オッサンには躊躇とか逡巡とかいう

機能はないんでしょうか、ホントに。


叫んで飛び出すと、

東魏兵は愕いて逃げ出した。


確かに逃げたくもなります。


東魏兵を追って東の城門に向かうと、

ようやく周囲に兵が集ってくる。


城門で合戦となり、

韓軌の軍勢を退けてしまいます。


半裸で棒しか持ってないのに。


宇文泰はその報告を受けると、

勇壮であると褒めたらしいです。

たぶん、爆笑したでしょうね。


爆笑で済めばよいのですけども。


華州のような要地に置いといて

大丈夫なんでしょうか。


西魏の大統元年(535)の正月のことでした。




▼王羆さん、民間から食糧を巻き上げる


西魏は最初から多難でした。



時關中大饑,

徴税人間穀食,以供軍費。

或隱匿者,令遞相告,

多被篣捶,以是人有逃散。

唯羆信著於人,莫有隱者,

得粟不少諸州,

而無怨讟。


 時に關中は大いに饑え、

 人間の穀食を徴税し、以て軍費に供す。

 或いは隱匿する者は遞いに相い告げしめ、

 多く篣捶を被り、是を以て人の逃散するあり。

 唯だ羆の信は人に著われ、隱す者あるなく、

 粟を得ること諸州に少なからず、

 而して怨讟なし。




ようやく

東魏の攻勢を凌いだかな、

という西魏でありますが、

まだまだ安心できません。


次に襲いかかったのは、

戦ではなく飢餓、

つまり、不作というわけです。


当時の不作はホントに悲惨です。

人身売買あたりまえの状況です。


下手を打つと、

「人、相食む」

または

「子を替えて食らう」

という事態に立ち至ります。


そういうわけで、

不作は恐ろしかったのです。


そこまでは至らなかったようですが、

民間の穀物を軍費に充てなくては

ならなくなりました。


東魏が虎視眈々と狙っており、

軍備を省くわけには参りません。


強制的に徴収しました。


そうすると、

隠匿する者が出るのは

当然のなりゆき、

多くの州では密告を奨励、

穀物を隠匿した者たちは

ムチ打ちに処されました。


その結果、

土地を捨てて逃げる者まで出る始末。


そんな中、

王羆さんは州人の信用を得ており、

隠匿する者がなかったらしい。


しかも、

密告を奨励した諸州に

引けをとらない量の穀物を

民間から徴収し、

さらに怨まれることがなかった。


どういう理屈かは分かりませんが、

とにかくそうだった。


王羆さんの不器用なまでの実直さが

民に通じたのかも知れませんねえ。


そんなもんで

限られた穀物を出すものでしょうか。


しかし、

史料にそう記されているということは、

そうなのでしょう。


話盛ってない?

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