王羆=オウヒ⑤高歓を口ゲンカで撃退

▼王羆さん、高歓と口ゲンカする


民の食糧を徴発して飢えを凌ぎ、

一息吐いた王羆さん、次は戦です。


まともな人間なら

精神崩壊しそうですね。


さすが闇黒時代の最末期です。


神経が太くないと生き残れません。


今回は、

高歓がいよいよ本腰を入れて

関中侵攻を開始しました。




沙苑之役,神武士馬甚盛。

文帝以華州衝要,

遣使勞羆,令加守備。

及神武至城下,謂羆曰:

「何不早降?」

羆乃大呼曰:

「此城是 王羆家,死生在此,欲死者來!」

神武不敢攻。


 沙苑の役に、神武の士馬は甚だ盛んなり。

 文帝は華州の衝要なるを以って,

 遣使して羆を勞い、守備を加えしむ。

 神武の城下に至るに及び、羆に謂いて曰わく、「何ぞ早く降らざるや?」と。

 羆は乃ち大呼して曰わく、

 「此の城は是れ王羆の家なり。死生は此に在り、

 死せんと欲さば來たれ!」と。

 神武は敢えて攻めず。




この記事は、

王羆さんは沙苑さえんえきの前に

華州で高歓の大軍を迎えた、

と述べております。


沙苑は地名、

華州の西南にあります。


地図なら左下、その先には長安。


関中まで攻め込まれとるやんけ。


この大統三年(537)、

東魏の高歓と西魏の宇文泰は

二度ほど大きな戦をしています。


正月には高歓が

蒲坂ほはん

潼関どうかん

上洛じょうらく

の三箇所から関中に攻め入ろうと試み、

本命である潼関の軍勢が破れたために

兵を引きました。


秋になると、

宇文泰が恆農こうのうから河東に進出、

高歓は二十万の軍勢を率いて逆撃しました。


その決戦が沙苑の役です。


沙苑の役に至るまでの経緯は

ざっとこんな感じ。


八月

 宇文泰は李弼たち十二将とともに恆農を抜く

 黄河を北に渡った河東の正平郡までを押さえる

九月

 高歓は山西北部に侵入した柔然を退ける

閏九月

 高歓は二十万の軍勢とともに南の河東に侵攻

 宇文泰は関中に戻る

 東魏の高敖曹こうごうそうが三万の兵で恆農を囲む

 高歓は華州を包囲するも、捨てて長安に向かう

 宇文泰は渭水を北に渡って長安への道を塞ぐ

十月

 沙苑の役で宇文泰は高歓の軍を破る

 高敖曹は恆農の包囲を解いて洛陽に退く

 宇文泰の部将の賀抜勝と李弼らが河東に進出

 蒲坂を守っていた薛崇礼が宇文泰に降る

 宇文泰の部将の獨孤信が洛陽に入る


八月の宇文泰の恆農への進出ですが、

これもやはり凶作で食い詰めたことが

原因になっております。


恆農には東魏の兵糧が積まれており、

宇文泰はそれを狙ったわけです。


史書にもそう書かれています。

カッコワルイ。


空腹でトチ狂った宇文泰ですが、

恆農を抜いてしまいます。


兵も必死だったんでしょう。


恆農の兵糧を手に入れて

宇文泰がホッコリしている頃、

高歓は山西に侵入した柔然と

バトルしていました。


柔然を退けた高歓は盗み食いが許せず、

そのまま軍勢を南に返し、

蒲坂から長安に攻め込む勢いを見せます。


宇文泰は河東にもちょっかいを

かけていましたから、

途中で踏み潰したことでしょう。


潼関は

洛陽から黄河の南岸に沿って関中に入るための関、

蒲坂は

河東から黄河を渡って関中に入るための津です。


今回は、

高歓が河東から蒲坂経由で関中に向かい、

潼関手前の恆農には高敖曹が遣わされた。


どっちもどっちで大変マズイ。


高歓の南下を知った宇文泰は

兵糧食ってる場合じゃねえってわけで、

関中に逃げ込みました。


で、

高歓に備えて渭水いすいの南に兵を停める。

高歓は黄河を渡って渭水の北岸に出ます。


そこにあるのが華州、

王羆さんの城であります。


ここで、

王羆さんと高歓の戦というか

口ゲンカが実現するわけです。


王羆さんの兵は一万ちょぼちょぼ、

対する高歓の軍勢は自称二十万、

野戦では勝負にならず、籠城戦です。


城を囲む高歓は投降を呼びかけます。


「さっさと降らんかい」


王羆さんが脅しに乗るはずもなく。


「この城は王羆の家、生きるも死ぬもここ限り、

死にたいヤツからかかって来んかい!」


口ゲンカにどれだけ意味があったのか。


先を急ぐ高歓は華州城を捨て、

西の長安に向かいます。


その手前にあるのが沙苑、

渭水北岸の野原です。


川に寄ると湿地帯だったと思いますが、

まあまあ、

足場はあまりよくなかったでしょう。


高歓の軍勢は二十万、

宇文泰は一万に届かなかった。


高歓からすれば、

さっさと宇文泰を踏み潰して

長安を陥れる方が早いのは確かです。


後ろからちょっかいを出されたところで

王羆さんの兵も一万、問題ないでしょう。


一方、

宇文泰に従う将兵は恐怖を禁じえません。

何しろ二十倍です。


「とりあえず、長安に引く方がよくない?」


そういう声が上がるのは当然ですが、

何を血迷ったのか、

宇文深うぶんしんという人は

宇文泰に祝いを述べます。


確かに、

西魏と東魏では国力が全然違います。


高歓を討ち取るには戦場に引き出すよりなく

守勢に入られると付け入る隙がありません。


この宇文深という人は高歓の軍勢を

忿兵ふんへい=アタマに血が昇った軍勢」

と呼んでおります。


この年の正月、

宇文泰は潼関で東魏の軍勢を破っていますが、

その指揮官は竇泰とうたいという人でした。


この人は高歓の姉の夫ですが、戦死しました。


長らく先手の大将を務めた人であり、

速戦でケリをつけた戦で

大きな働きをしています。


それまで、

速戦と持久戦を使い分けていた高歓は、

竇泰の死後は速戦に成功していない印象。


そういう面でも

竇泰の戦死は痛手だったのかも。


さらに、

姉の夫という身内の死です。


高歓の奥さんは当時では極めてレアな、

恋愛で高歓と結婚したような人です。


行動的な人でしたし、

アタマもよかった。


そういう人がいて、

姉の夫が戦死したとなると、

家庭内で無風だった

とは考えにくいです。


まあ、色々と言われたでしょう。


沙苑の役に先立って何人かが諌めており、

宇宙大将軍こと侯景こうけい

軍勢を前軍と後軍の二段に分けて

進めるよう求めています。


しかし、

高歓はその言葉に従っていません。


確かに、

アタマに血が昇っていたのかも知れません。


宇文泰の方では、

宇文深

李弼りひつ

が地形を調べた上で、

渭水の屈曲部での戦を勧めており、

宇文泰はそれに従っています。


中でも達奚武たっけいぶという人は、

夜な夜な高歓の軍勢に潜入し、

合図の軍旗や号令を調べていたようです。


兵力差が大きかったため、

西魏の将兵は情報収集に

必死だったわけですね。


東魏の将兵は楽勝ムード、

かなり油断していました。


なので、

戦では李弼の鉄騎兵に軍勢を分断され、

大混乱に陥ってしまいます。


また、

大軍であるために諸軍の連繋も

うまくいかなかったようです。


高歓の部将の彭楽ほうがくという人は、

酔っ払っていたようにも読み取れます。


軍紀が緩んでいたのは

疑いないところでしょう。


結局、

必死の西魏軍に襲われると

みんな逃げ出してしまい、

戦場から軍勢がいなくなった。


高歓もやむなく蒲坂に逃げました。


大勝した宇文泰ですが、

李穆りぼくという人が

全軍で高歓を追撃して捕らえるべき

と勧めても、追撃しませんでした。


高歓と宇文泰には

どうもそういう逸話が多い。


なので、

二人が生きている間には

決着がつきませんでした。


それはさておき、

西魏が一息を吐いたことは確かです。


さらに、

その後の掃討戦により、

蒲坂で黄河を渡った先の

河東を得たのも大きい。


これにより、

東魏は華州を急襲できなった。


まず河東や潼関を抜かなくては、

関中には入れません。


そのため、沙苑の役の後、

華州には宇文泰が駐屯します。


じゃあ、

王羆さんはどこに行ったかと言うと、




後移鎮河東,

以前後功

進爵扶風郡公。


 後に移りて河東に鎮ず。

 前後の功を以って

 爵を扶風郡公に進む。




最前線の河東に行かされております。


公爵を授けられてはおりますが、

河東の中央を流れる汾水沿岸で

郡太守を務めていたようです。


やっぱり最前線に置かれる、

王羆さんでありました。

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