王羆=オウヒ⑥悲願の雍州刺史着任(即解任)、そして。

▼王羆さん、念願の雍州刺史になる


王羆さんが高歓と口ゲンカした翌年、

西魏の大統四年(538)に入っても

宇文泰と高歓の戦はつづきます。


ってか

ホントに戦しかしてねえなあ、この二人。


七月

 東魏の侯景たちが洛陽の獨孤信を包囲する

八~十月

 宇文泰が兵を出して洛陽の包囲を解く

 河橋の戦を有利に進めるも宇文泰は兵を返す

 長安で東魏の降卒の趙青雀が叛乱する

 宇文泰が趙青雀の叛乱を平らげる


まず、

洛陽の獨孤信どっこしんが東魏軍に囲まれ、

救出すべく宇文泰が出兵しました。


包囲は解けたものの、

洛陽の北、黄河のあたりで

東魏軍と西魏軍は戦となり、

最初は西魏が優勢で東魏の猛将、

高敖曹こうごうそう

を討ち取るなど戦果を挙げます。


ただ、それも長くはつづかず、

結局は地力に優る東魏が盛り返し、

西魏軍は散り散りに軍勢を返しました。


洛陽に詰めていた兵も西に帰り、

東魏は洛陽を取り戻します。


一方、

前年の沙苑の役により

西魏には多くの降卒がいました。


彼らが西魏の敗戦を聞くと

怪しい動きを始める。


最初は

恆農、

ついで、

長安

で叛乱が発生、

不在中に家に入られるようなもんです。


帰る場所がなくなってしまいます。


この時、

河東での叛乱は記録にないようですが、

そもそも河東も前年に奪った土地です。


東魏というか、高歓に

心を寄せる者があっても

不思議はありません。


河東の豪族の薛氏にいたっては、

一族内で高歓に与する者もあり、

宇文泰に従う者もあってバラバラ。


イッパツあてたいと思えば、

衆人を煽動して叛乱しやすい

環境にあったわけです。




河橋之戰,王師不利,

趙青雀據長安城,

所在莫有固志。

羆乃大開州門,

召城中戰士謂曰:

「如聞天子敗績,不知吉凶,

諸人相驚,咸有異望。

王羆受委於此,以死報恩。

諸人若有異圖,可來見殺。

必恐城陷沒者,

亦任出城。

如有忠誠,能與王羆同心,

可共固守。」

軍人見其誠信,皆無異心。

及軍還,徴拜雍州刺史。

 

 河橋の戰にて王師は利あらず。

 趙青雀は長安城に據り、

 所在は固志あるなし。

 羆は乃ち大いに州門を開き、

 城中の戰士を召して謂いて曰わく、

 「聞くが如く、天子は敗績して吉凶を知らず、

 諸人は相い驚きて、咸な異望あり。

 王羆は此に委を受け、死を以って恩に報ゆ。

 諸人に若し異圖あらば,來りて殺さるべし。

 必ずや城の陷沒せんかと恐るる者は

 亦た城を出るに任す。

 如し忠誠ありて能く王羆と心を同じうするは、

 共に固守すべし」と。

 軍人は其の誠信なるを見て、皆な異心なし。

 軍の還るに及び、徴されて雍州刺史を拜す。




そんな時世にあって、王羆さん、

城門をパッカーンと大開きにします。


さらに城内の兵士を集め、

訓諭しました。


「知ってのとおり、天子は戦に敗れて無事なんかも分からへん。敗戦に愕いて変なことを企てるヤツもおる。この地を委ねられとるからには、ワシは死んでも国の恩に報いるで。変なことを考えているヤツがおったら、さっさと殺されに来んかい。この城を守りきれへんのちゃうかと思うようなヤツもいらん。さっさと城から逃げ出したらええねん。忠誠心があってワシと同じキモチのヤツらだけ、残ってこの地を守りぬくで」


補足しますと、

河橋の戦には西魏の天子も

出陣していたのですね。


これを親征しんせいと言います。


この時、

高歓と対立して長安に逃れた

孝武帝

はすでに亡く、

文帝と諡される

元寶炬げんほうきょ

に代わっています。


孝武帝の死には生臭い話がありますが、

それはまた別として。


王羆さんの話は

直情径行というか、直截的です。


さすが、

思ったことがダダ漏れするタイプの人です。


ただ、

兵士のような単純な人種には

その方が人気があったクサイ。


実際、

王羆さんのこの発言を聞き、

兵士たちは異心を抱かなかった。


結果オーライ


河橋の敗戦を経ても、

王羆さんのお膝元では

叛乱は起きませんでした。


そして、

宇文泰が長安に入って叛乱を平定すると、

王羆さんは雍州刺史に任じられます。


荊州を守り抜いたにも関わらず、

元顥の官爵を受けたばっかりに

反故にされた雍州刺史、

故郷の地の州刺史です。


念願であったことは疑いありません。


あれから苦節十年、

ついに雍州刺史になったわけです。

おめでとうございます!





▼王羆さん、宰相をバカにして河東に帰らされる


王羆さんが雍州刺史となったのは、

河橋の戦の翌年なら大統五年(539)、

太和末年(499)から四十年、

18歳で仕官したと考えると58歳、

当時の平均寿命から考えると、

いつ逝ってもおかしくありません。


が、

オッサンまったく枯れてねえ。


尚書右僕射しょうしょゆうぼくや

という宰相相当の官にある人に

一発カマしてしまいます。合掌。




時蠕蠕度河南寇,

候騎已至豳州。

朝廷慮其深入,

乃徴發士馬,屯守京城,

塹諸街巷,以備侵軼。

右僕射周惠達召羆議之。

羆不應命,臥而不起,

謂其使曰:

「若蠕蠕至渭北者,

王羆率郷里自破之,

不煩國家兵。

何為天子城中,

遂作如此驚動!

由周家小兒恇怯致此。」

羆輕侮權貴,守正不回,

皆此類也。

未幾,還鎮河東。


 時に蠕蠕は河を度りて南に寇し、

 候騎は已に豳州に至る。

 朝廷は其の深く入るを慮り、

 乃ち士馬を徴發して京城に屯守せしめ、

 諸街巷に塹して以て侵軼に備う。

 右僕射の周惠達は羆を召して之を議す。

 羆は命に應じず、臥して起たず、

 其の使に謂いて曰わく

「若し蠕蠕の渭北に至らば、 王

 羆は郷里を率いて自ら之を破り、

 國家兵を煩わさざるなり。

 何為すれぞ天子の城中に

 遂に此の如き驚動を作さん。

 周家の小兒の恇怯に由りて此を致すのみ」と。

 羆の權貴を輕侮し、正を守りて回らざること、

 皆な此の類なり。

 未だ幾くばくもせず、還して河東に鎮す。




当時、柔然が陰山の北にあり、

高歓も宇文泰も無視できませんでした。


この柔然、

北魏の人は蠕蠕=ゼンゼン

と呼んでいますが、

南朝の人は茹茹=ジョジョ

と呼んでいました。


ジョジョねえ。


オレは遊牧民を辞めるぞ、茹茹ー!!!


というわけで、

洛陽に都を移して漢化した鮮卑に対し、

ジョジョは現役バリバリの遊牧民です。


たまに、

長安近くに侵入することがよくあります。


雍州の北の豳州ひんしゅうまで

その斥候が来て、

長安の朝廷は兵馬を揃えて防備を固め、

街路に塹壕を掘るなど大慌てしたことが

あったようです。


運悪く、

この時の雍州刺史が

すなわち王羆さんでした。


尚書右僕射は周惠達しゅうけいたつ

朝廷にあって礼楽を定めたこともあり、

モロに文人気質です。


戦や荒事は得意ではありません。


そういうわけで、

荒事が得意な王羆さんに相談すべく、

人を遣わしました。


使者が雍州の官府に行くと、

王羆さんが床に転がっている。


超・不貞腐れてます。


宰相の使者を迎える態度ではない。


使者が呼びかけると、

転がったまま喚きます。


「蠕蠕が渭水の北まで来るんなら、ワシが郷党を率いて退けたるわ。国家の兵なんざいらん。天子のいる城で何を大げさに騒いどるんじゃ。周家の小倅がビビッとるだけじゃろ」


あーあ、やっちゃいました。

宰相を小倅呼ばわりです。

目上の人なんですけど。


ガキですか。


まあとにかく、

昔からの性格は直らないもので、

こういう態度をとってしまいます。


これが原因かは分かりませんが、

いくらも経たないうちに雍州から

河東に帰らされてしまいました。


この後、

王羆さんは河東で東魏の侵攻に備えます。


そして、二年後の大統七年(541)、

在任中にお亡くなりになりました。




羆舉動率情,不為巧詐,

凡所經處,

雖無當時功迹,

咸去乃見思。


 羆の舉動は率情にして巧詐を為さず。

 凡そ經る所の處、

 當時の功迹なしと雖も、

 咸な去らば乃ち思わる。




世渡り上手とは言えませんが、

ムダに率直な人だったようで、

郡太守、州刺史を務めると、

在任の間は目立った成績を

挙げませんでしたが、

転任していなくなると、

「王羆さんの頃はよかったなあ」

とみなが思う人柄だったようです。


わりと損な性格ですね。


そんなわけで、

三十代半ば以降の人生を

戦乱の中に送った王羆さんですが、

単なる脳筋ではなかったようです。


史書には、

薛善せつぜんという人が汾陰令ふんいんれいとなり、

郡内でもっとも政績を挙げた際には、

高く評価して六縣の統治を委ねた

と記されています。


その弟の薛慎せつしんという人が

岐州刺史として善政を行った際も

書状を送って褒め讃えたそうです。


この薛氏は河東の豪族であり、

なんとなく、

王羆さんとご縁があったようですね。


史書には残っていませんが、

これらが例外でもなかったとすると

育てた官吏も多かったでしょう。


崔亮さんに見出されて世に出た経緯から

部下をよく見る人になったのかも、です。




卒于官,

贈太尉、都督、相冀等十州刺史,

諡曰忠。


 官に卒す。

 太尉、都督、相冀等十州刺史を贈られ、

 おくりなして忠と曰う。




その死にあたっては、

太尉、

都督、

相冀等十州刺史

の官を贈られ、

忠と諡されたそうです。


王羆さんには王慶遠おうけいえん

という子があり、

功臣の子弟ということで弱冠にして

宮中の警備に携わり、

直閤ちょっこう將軍しょうぐん

任じられましたが、

王羆さんより早くに

亡くなってしまいました。


孫に王述おうじゅつという人が

あったことを記し、

王羆さんの列伝は終えられています。


なお、

『北史』によると孫の王述は、

宇文氏が建国した周

その跡を襲った隋

に仕え、高官に昇ったとあります。


八歳の頃には宇文泰に見え、

「これほど出来のよい孫がいるならば、

王公は死んでも名は不朽となろう」

と激賞されたそうです。


「王公」と呼んでいることからして、

敬意を払われていたようですね。


逆に言うと、

激賞は王羆さんに気を遣った可能性もあり、

要検証であります。


しかし、

王述さんは主題ではないので省略します。



『周書』には令孤徳棻れいことくふん

史臣の評が付されており、

好き勝手をほざいております。




史臣曰:

王羆剛峭有餘,

弘雅未足。

情安儉率,志在公平。

既而奮節危城,

抗辭勍敵,

梁人為之退舍,

高氏不敢加兵。

以此見稱,信非虛。

述不隕門風,

亦足稱也。


 史臣は曰く、

「王羆は剛峭に餘あるも,

 弘雅は未だ足らず。

 情は儉率に安んじ、志は公平に在り。

 既にして節を危城に奮い、

 辭を勍敵に抗い、

 梁人は之が為に舍を退け、

 高氏は敢えて兵を加えず。

 此を以て稱さるは、信に虚に非ざるなり。

 官述は門風を隕とさず、

 亦た稱するに足るなり」と。




訳してみます。気が進みませんが。


王羆は剛直さは人に過ぎ、

雅量が足りなかったが、

その情は倹約率直にして

公平を旨としていた。


失陥直前の城で節義を表し、

強敵であっても罵って抗い、

そのために梁人は軍勢を退いて

高歓は城を攻めなかった。


このことで称賛されているが、

偽りではない。


孫の王述も家門の風を損なわず、

称えられるに相応しい。



こんな翻訳をして

言えた義理ではありませんが、

うーん、何様?


王羆さん亡き後の河東の防衛は

王思政おうしせいに引き継がれ、

西魏の最前線でありつづけます。


華州に拠って東魏の侵攻を防ぎ、

奪い取った河東を維持した勲功は

西魏の創成期を支えるものです。


それゆえに、

頑固ジジイである王羆さんが

竹帛に名を垂れたわけですね。


名将かといえば、

攻戦をしていませんから評価が難しいですし、

名臣かといえば、下に厳しく上に薄いので

伝統的な名臣像には当てはまりません。


型破りです。


しかし、人間臭さ全開です。


こういう人がいるから歴史は面白いと言えます。

謹直な人ばかりでは息がつまりますからね。




-end-

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