前史⑦馮太后の権力掌握with宦官ズ。
そうは言っても馮太后が大人しくしていた、
などとは到底思えません。
ただ、
献文帝親政以降の馮太后の動向については
史料を欠くので明確にしがたいのですよね。
その伏せられた部分について前回は、
・姻戚
・宦官
二つが馮太后の影響力の根かもねえ、
そういう予断を持って終わりました。
姻戚に関する情報は少なかったですが、
果たして宦官の方はいかがでしょうか。
少し調べてみたいと思います。
『魏書』を編んだ
漢人名門の家譜を正すという目的が
けっこう大きく存在するのですよね。
だから、
漢人名門の対局にある宦官に厳しい。
というか、扱いが非常に雑なのです。
それでも、
『魏書』閹官列伝にはけっこうな量の
記録がありますから何か分かるかもね。
まずは、
立伝された25人を時代別に整理します。
宗愛、仇洛齊、段霸
馮太后~孝文帝期:11人
王琚、張宗之、孫小、張祐、趙黑、苻承祖、
王質、抱嶷、劇鵬、王遇、李堅、
秦松、白整、劉騰、賈粲、楊範、成軌、
王溫、孟鸞、平季、封津、劉思逸
献文帝期以前が3人と大変少ないです。
これは、
別に宦官がいなかったわけではなくて、
単に記録が残っていないだけですよね。
たとえば、
『魏書』宗愛伝(閹官列伝)
宗愛は其の由り來たるところを知らず、
罪を以て閹人と為り、
碎職を歷して中常侍に至る。
つまり、
宦官はそれまでもフツーにいたのです。
馮太后と宦官との関わりは、
『魏書』文成文明皇后馮氏伝
太后は智略多くして猜忍、能く大事を行う。
生殺賞罰、之を俄頃に決し、
多く高祖に關わらざるあり。
是れ以って威福は兼ね作り、
內外を震動せしむ。
故に杞道德、王遇、張祐、苻承祖等は
微閹より拔かれて歲中に王公に至れり。
この記述によると、
馮太后が専権を確立 → 宦官登用
という流れで記されておりますけどもね、
マユツバで信じるのは難しいと思うのよ。
まず、
これは北魏を通じてなんですけど、
宦官であっても
・封王される
・州刺史になる
・
他時代の宦官を知っている人には
かなり異常なんじゃないですかね。
フツー、宦官は「皇帝の奴隷」であって
官僚とは対立関係にある特殊な層ですね。
彼らの権力の源泉は皇帝権力であるため、
統治能力や輿望が必要な外任に出にくい。
しかし、
北魏の宦官はそう言えない面があります。
これはつまり、
北魏の地方統治が徳望のような形でなく、
厳格な法治によるものだったとも言える、
かも知れません。
まあ、
北族の州刺史が多かったワケですからね。
徳望もへったくれもなかったのでしょう。
宦官の州刺史任官については
馮太后~孝文帝期だけではなく、
北魏を通じての特徴のようです。
馮太后~孝文帝期以前
仇洛齊:冀州刺史
段霸:定州刺史
馮太后~孝文帝期以降
秦松;并州刺史
賈粲:濟州刺史
楊範:華州刺史
王溫:瀛州刺史
平季:肆州刺史
封津:濟州刺史
このように、前後の時代であっても
多くの宦官が州刺史になっています。
さすがに、
孝文帝期以降の漢化の進行に伴い、
吏部は宦官の手から離れますけど。
封王もそれ以降は見えないですね。
つまり、
北魏の宦官は他の時代とは異なり、
士大夫と並んで官僚扱いだったと。
実にダイバーシティな時代であります。
よく言われるとおり、
遊牧文化から発生したもののようです。
家畜を扱う際の基本的な技術ですから。
なもんで、
北魏のような遊牧民族ナマ出しの王朝で
「宦官に権限を与えるなどもっての他」
と言っても通じないのは理解できます。
去勢馬だろうが走る馬はイイ馬なのです。
つまり、
北魏における宦官は皇帝の奴隷とともに
官僚にもなり得る存在だったワケですね。
コイツをアタマに入れて
馮太后~孝文帝期の宦官の略歴を調べると、
けっこう特徴的な傾向が見えて参りますね。
それぞれの人について推測も含む活動期間、
任官賜爵をテキトーにまとめておりますよ。
<>内は死後の追贈であります。
パラパラふーん程度に御覧下さいな。
王琚
:泰常年間(416~423)~太和20年(496)
→ 禮部尚書、廣平公、寧南將軍
→ (孝文帝)散騎常侍
→ 侍中、征南將車、冀州刺史、假廣平王
→ (高平王の李敷の誅殺以降)
侍中、征(大)南將軍、高平王
+ 冀州刺史
→ 散騎常侍、高平公
<征南將軍、冀州刺史>
張宗之
:泰常年間(416~423)~太和20年(496)
→ 侍御中散、鞏縣侯
→ 右將軍、中常侍、儀曹・庫部二曹尚書
中祕書、彭城公
→ 散騎常侍、寧西將軍、東雍州刺史
→ 內都大官
→ 散騎常侍、鎮東將軍、冀州刺史、彭城侯
<建節將軍、懷州刺史>
孫小
:始光4年(427)~延興年間(471~476)
→ 西臺中散
+ 左衞將軍、泥陽子
→ 留臺將軍
→ 給事中、綰太僕曹
→ 領駕部尚書
→ 冠軍將軍、并州刺史、中都侯
→ 冠軍將軍、冀州刺史
張祐
:太延年間(435-440)~太和10年(486)
→ 曹監、中給事、黎陽男
→ 散騎常侍、都綰內藏曹
→ (馮太后臨朝)
尚書、安南將軍、隴東公、綰內藏曹
→ 尚書、安南將軍、隴東公、監都曹
+ 侍中
→ (太和3年)
散騎常侍、鎮南將軍、尚書左僕射、新平王
<征南大將軍、司空公>
趙黑
:太延5年(439)~太和6年(482)
→ (太武帝)
侍御、典監藏、安遠將軍、睢陽侯
→ 選部尚書
→ 侍中、河內公
→ (献文帝譲位後、李訢と権を争い)
門士
→ 侍御、散騎常侍、侍中、尚書左僕射、兼選部
→ 假節、鎮南大將軍、儀同三司、定州刺史、睢陽王
→ 冀州刺史
<司空公>
苻承祖
:?~馮太后没後(490以降)
→ 御厩令
→ (馮太后の寵愛を得て)
中部給事中、散騎常侍、輔國將軍、略陽侯
+ 典選部事
→ 吏部尚書、領中部
→ 侍中、安南將軍、知都曹事、略陽公
→ (収賄を孝文帝に咎められ)
悖義將軍、佞濁子
王質
:?~孝文帝洛陽遷都後(493以降)
→ 中曹吏、內典監
→ 祕書中散、寧朔將軍、永昌子
領監御
→ 侍御給事、領選部・監御二曹事
+ 前將軍、魏昌侯
→ 選部尚書、員外散騎常侍
→ 鎮遠將軍、瀛州刺史
→ 大長秋卿
抱嶷
:?~太和末年(495以降)
→ 中常侍、安西將軍、中曹侍御、尚書、安定公
→ 殿中侍御、尚書領中曹如故、統宿衞
+ 散騎常侍
→ (太和12年)
→ 侍中、祭酒、都曹、尚書領中曹・侍御
→ 安定侯
+ 大長秋卿
→ 右光祿大夫、鎮西將軍、涇州刺史
劇鵬
:?~太和23年(499)
→ (馮太后により)
給事中
王遇
:?~宣武帝正始初め(504頃)
→ 中散
→ 內行令、中曹給事中
+ 員外散騎常侍、右將軍、富平子
→ 散騎常侍、安西將軍、宕昌公
→ 吏部尚書、散騎常侍、宕昌侯
→ 安西將軍、華州刺史
+ 散騎常侍
→ (孝文帝幽皇后をDisって)
免官
→ (宣武帝即位後)
兼將作大匠、光祿大夫、宕昌侯
<使持節、鎮西將軍、雍州刺史,宕昌侯>
李堅
:興安年間(452~454)~永平年間(508~512)
→ (馮太后臨朝)
中給事中、魏昌伯
→ (洛陽遷都後)
太僕卿
→ (宣武帝即位後)
安東將軍、瀛州刺史
→ 光祿大夫
<撫軍將軍、相州刺史>
先に挙げた馮太后の列伝によると、
といったあたりが筆頭格のようです。
ただ、
杞道德に限っては列伝がないのよ。
そこで、
他の3人の様子を確認してみます。
顕官への就任は馮太后の引きなので、
それ以前の官位を見るのがよさげね。
王遇:
張祐:
內行令は宮廷の遣いっぱしりクサイ感じ。
中曹給事中はおそらく
これは皇室の雑務を扱う
都綰內藏曹がちょっと異常な感じですが、
綰は統と同義ですので、內藏曹のトップ、
內藏曹は財物を収める中蔵の管理かねえ。
宦官らしく皇室会計責任者でいいのかな。
この二人を比較すると、
張祐の方があきらかに格上な感じアリ。
ただ、
馮太后はまず張祐と王遇と結んだ上で、
彼らの上位を含む宦官層を取り込んだ、
そういうことなのかも知れませんね。
じゃあ、どうやって取り込んだのか?
カネだよ。
『魏書』王遇伝(閹官列伝)
始め遇は抱嶷と並びに
文明太后の寵するところと為り、
前後に賜うに奴婢數百人を以てし、
馬牛羊の他物も是に稱う。
二人は俱に富室と號さる。
馮太后は王遇と
それに見合う家畜を下賜してます。
この奴婢や家畜などの出どころには
都綰內藏曹の張祐が絡むのかもです。
馮太后の宦官への下賜による取込は
その一代を通じて行われたようです。
『魏書』劇鵬伝(閹官列伝)
是の時、李豐の徒數人あり。
皆な眷寵を被りて禁闈に出入し、
並びに名位を致して貲を積むこと巨萬、
第宅は華壯なり。
文明太后の崩ずるの後、乃ち漸く衰えり。
一方、
苻承祖はもともと
馮太后によって
中部は
これは裁判刑罰に関わる部署でしたね。
三都大官に関わる任官は苻承祖のみ、
おそらく、これが苻承祖の特異性で
宦官を中心とする馮太后の側近層と
外廷の有力者の三都大官のパイプ役、
馮太后の死後に弾劾を喰らったのも
外廷に憎まれていたからなのかもね。
その仕上げとして、
苻承祖よりはるかに大物の張宗之が
これにより、
馮太后の専権体制は確立されますね。
ただ、
時期は不明なのでありますよ、残念。
ここで知りたいところは、
馮太后が献文帝を譲位させる影響力を
どのように確保したか、という点です。
つまり、
献文帝は世捨て人志向の譲位ではない、
そのウラを取っておきたいワケですね。
それじゃあ、
その結果として発生するであろう、
献文帝の親政期に馮太后の政治的な
行動を探してみると一例ありました。
『魏書』高句麗伝
後に文明太后は顯祖の六宮の
未だ備らざるを以て、
璉に敕して其の女を薦めしむ。
璉は表を奉じ、
云えらく「女は已に嫁ぎ出ず」と。
弟の女を以て旨に應ずるを求め、
朝廷はこれを許す。
乃ち安樂王真、尚書李敷等を遣りて
境に至りて幣を送らしむ。
璉は其の左右の說に惑い、
云えらく
「朝廷は昔、馮氏と婚姻して
未だ幾ばくもせず其の國を滅ぼす。
殷鑒遠からず、
宜しく方便を以て之を辭せよ」と。
璉は遂に上書して妄りに女は死せりと稱す。
朝廷は其の矯詐を疑い、
又た假散騎常侍の程駿を遣りて切に之を責む。
若し女の審かに死すれば、
更に宗淑を選ぶを聽す。
璉は云えらく
「若し天子の其の前愆を恕さば、
謹みて當に詔を奉ずべし」と。
會々顯祖は崩じ、乃ち止む。
これは、
馮太后が献文帝のために
皇女を娶ろうと動いた記事ですけど、
ぱっと見は献武帝の譲位後に見える。
『魏書』程駿伝
延興の末、
高麗王の璉は女を掖庭に納れんことを求め、
顯祖は之を許す。
駿に散騎常侍を假し、爵安豐男を賜い、
伏波將軍を加え、節を持して
高麗に如きて女を迎め、布帛百匹を賜う。
実際、
高句麗に使者として赴いた
そのように記されております。
しかし、
高句麗伝をよくよく見ると
最初に国境に赴いたのは、
という二人なのでありまして、
李敷は献文帝が譲位する前年、
つまり、
馮太后が献文帝の嬪御を高句麗に求めたのは
少なくとも皇興四年より以前ということです。
この時、
高句麗王の璉は輿入れするはずだった
弟の妹が死んだと偽ったワケですよね。
その後、
北魏と高句麗との間でやりとりがされ、
延興末年に程駿が高句麗に赴きました。
時系列で見ますと、
皇興四年(470)以前:高句麗王璉がウソ
延興末年(475-476):程駿が高句麗に赴く
高句麗王璉のウソは時期特定不能ですが、
第一次臨朝時(466-467)と仮定しますと
10年越しになってしまうので考えにくい。
孝文帝を生んだ
皇興三年(469)以降と考えるのが
まあフツーではないかと思いますよ。
そうなると、
この時期は馮太后の第一次臨朝以降、
それでも一定の発言権を持っている。
そして、
その発言権は姻戚や宦官により確保された、
そう考えておくのがよいかと思うのですね。
馮太后の第二次臨朝以降も宦官たちは
重要な地位を与えられて活動しますが、
先に引いた『魏書』劇鵬伝にある通り、
「文明太后の崩ずるの後、乃ち漸く衰えり」
それも馮太后がいる間だけのことでした。
それでも、
『魏書』張瑋伝(閹官列伝)
諸々の中官は皆な世々衰うも、
唯だ趙黑、及び宗之の後は
家僮數百、士流に通ず。
というように、趙黑と張宗之の一族は
士大夫と交際する富豪として残ります。
これも北魏独特と言えるかも知れません。
馮太后の政治のやり方はこんな感じです。
『魏書』文成文明皇后馮氏伝
后の性は嚴明、假りに寵待あるも
亦た縱すところなし。
左右に纖介の愆ちあらば、
動もすれば捶楚を加え、
多くは百餘に至り、少くも亦た數十。
然れど性に憾を宿らせず、
尋いで亦た之を待つこと初めの如く、
或いは此に因りて更に富貴を加う。
是れ以って人人は利欲を懷き、
死に至るも退くを思わず。
メッチャ厳しくて寵臣であっても厳罰、
何かしでかした場合には容赦一切なし。
フツーに100回そこらはブッ叩かれます。
しかし、
翌日にはケロッとして後を引かない。
で、
恩賞として金目のモノをくれてやる。
だから、
みんな争って従ったワケであります。
他の王朝にはないナマナマしさです。
これはおそらく、
馮太后は専権を確立する過程において
利欲でもって宦官を動かすことを覚え、
その成功体験に基づいていると思うの。
馮太后は権威ではなく利益誘導により
政治をおこなった政治家なのでしょう。
そして、
利益誘導による馮太后の影響力拡大は
第一次臨朝期後に継続して進められ、
身近で利欲に弱い宦官を取り込んで
献文帝を譲位に追い込むまでになった。
そういう風に理解したいと思うのですね。
そうなると、
献文帝の親政期からバチバチのやり合い、
次回はそれを探してみたいと思うのです。
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