前史⑥馮太后は28歳の未亡人です。
前回は
その経緯をほわっとした感じで見ました。
一方、
馮太后の動向は一切不明、と。
手がかりがまったくないです。
さすが北魏暗黒時代。
なので、
ヤケクソ気味に
ざざっと洗ってみたいと思いますよ。
『魏書』献文本紀
帝は雅より時務に薄く、
常に遺世の心あり。
位を叔父の京兆王子推に禪らんと欲す。
語は任城王雲傳に在り。
羣臣は固く請い、帝は乃ち止む。
本紀によると、
献文帝は世捨て人志向だった、と。
それが譲位の原因としております。
文中の「時務に薄く」「遺世の心」
ってヤツがそれにあたるのですね。
しかし、
それなら
叔父への譲位の説明としては不足、
ちょっと納得できない感じがする。
後段で献文帝の事績を整理予定ですが、
それと突き合わせてもやっぱりダメよ。
バーサーカーかよってくらい柔然と戦ってる。
まずは、
譲位の議論をさっと見てみましょう。
長いのでシャーっと下に行くの推奨。
『魏書』任城王雲伝
雲は進みて曰わく、
「陛下は方に太平を隆からしめ、
臨みて四海を覆う。
豈に上は宗廟に違い、
下は兆民を棄つるを得んや。
父子の相い傳うは其の來りて久しく、
皇魏の興るより未だ之れ革むるあらず。
皇儲は正統、聖德は夙に章る。
陛下の必ず塵務を割捐して
神を頤いて清曠ならんと欲さば、
冢副の寄、宜しく寶曆を紹ぐべし。
若し儲を捨てて輕がろしく
宸極を移さんと欲さば、
恐るらく先聖の意にあらず、
人情を駭き動さん。
又た、天下は是れ祖宗の天下、
而して陛下は輒ち神器を改む。
上は七廟七靈に乖き、
下は姦亂の道を長じん。
此れは是れ禍福の由るところ、
願わくば深思して之を慎め」と。
太尉の源賀も又た進みて曰わく、
「陛下の今、
外に諸王を選びて位を皇叔に禪らんと欲すは、
臣の恐るらく、春秋の蒸嘗に昭穆の亂るあり、
脫し萬世の後、必ずや逆饗の譏あらん、と。
深く願わくば任城の言を思え」
東陽公の元丕等は進みて曰わく、
「皇太子は聖德、夙に彰わると雖も、
然して實に沖幼なり。
陛下は春秋に富み、始めて機政を覽て、
普天は景び仰ぎ、率土は心に傒む。
獨善を隆からしめんと欲し、
萬物を以て意と為さざれば、
其れ宗廟を若何せん、
其れ億兆を若何せん」
顯祖は曰わく、
「儲宮は正統にして終を文祖に受く。
羣公の之を相けて何の不可あらん」
是に位を高祖に傳う。
これねえ、なんかヘンなやりとりなのです。
分かりやすい口語にしてみるとヘンですよ。
「オマエ皇帝やのに勝手に
ウチの帝位は一子相伝やから勝手に変えんなよ。
皇太子いるし皇帝辞めるなら皇太子に継がせろ。
皇太子以外に譲ると先例に背くし、皆ビビるで。
そんな勝手したら先祖も現場も大混乱するって。
こら大事なところやし、もうちょっと考えんと」
「叔父に帝位を譲られると春秋の祭りの際に
位牌の位置が乱れて後世の誹りを受けます。
任城王の言葉をよくよくお考え下さい」
「皇太子ってまだガキンチョですやんか。
アンタはまだ若いから期待してたのに。
そんな自分勝手なことしてからに、
宗廟と万民をどないしますのんや」
献文帝
「皇太子は正統な跡継ぎ、
百官がそれを輔佐するなら不都合はない」
任城王、ちょっとだけ譲位そのものに反対、
その後はひたすら皇太子に譲れとゴリ推し。
太尉の源賀、譲位はいいけど位牌を乱すな、
これも譲るのは皇太子一択という意見です。
東陽公の元丕+αはほぼ単なるグチですね。
見る限り、
献文帝の譲位そのものは別にイイ感じで、
問題は譲位の先であって
そういう意見が強く前に出ているのよねえ。
しかし、
これが献文帝のドアインザフェイスなのか、
本心はちょっと読み取れないのですよねえ。
ただ、
別史料には違う書き方がされております。
『魏書』趙黑伝(閹官列伝)
顯祖は將に位を京兆王子推に傳えんとし、
諸を羣臣に訪ぬるに、百官は唯唯として
敢えて先言するものなし。
唯だ源賀等は詞義正直、詔を奉ずるを肯んぜず。
顯祖は怒りて色を變じ、復た以て黑に問う。
黑は曰わく、
「臣愚は識なし、信情率意なるのみ。
伏して惟うに陛下は春秋始めて富み、
日の方に中せんとするが如し。
天下は其の盛明を說び、萬物は其の光景を懷き、
元元の心は萬歲を終えんことを願う。
若し聖性淵遠にして頤神味道を欲さば、
臣黑は死を以て皇太子を奉戴し、
其の他を知らず」と。
顯祖は默然すること良や久しうし、
遂に祚を高祖に傳う。
ここでは、
源賀たちの諫言を受けた献文帝は怒り、
なぜか
皇太子ゴリ推しを喰らった献文帝は
顔真っ赤のガチ切れじゃないですか。
そして、
宦官からも他のみなと同じような感じで
「譲位されるならただ皇太子を推戴する」
との回答に心が折れてしまうのですよね。
宦官というのはなかなかクセモノですが、
コイツは後ほどちょっと触れる予定です。
時に
ついでに、
献文帝から京兆王への譲位に反対した、
三人の宗族の背景を洗っておきますね。
こういう方々でしたね。
任城王雲
東陽公元丕
まずは、任城王雲です。
『魏書』元彝伝
彝の字は子倫、
繼室の馮氏の生むところ、頗る父の風あり。
通直散騎常侍を拜す。
及た元叉の專權するに彝は託附を耻じ、
故に顯職を得ず。
莊帝の初め、河陰に害に遇う。
車騎將軍、儀同三司、青州刺史を贈らる。
諡して文と曰う。
母親が馮氏となっている点に注意。
馮氏は任城王雲の子の
元彝を生んだワケでありますよね。
で、
この馮氏はおそらく馮太后の一族、
つまり、
任城王は馮太后と近しい関係にある、
そのように考えられるワケですよね。
いつ親しくなったのかなー、とかね。
一方、
乙渾の誅殺でも働いた元丕はどうか。
『魏書』元丕伝
高祖、文明太后は年を重んじて舊を敬し、
存問すること周渥、賜うに珍寶を以てす。
丕は聲氣高朗、博く國事を記え、
饗讌の際、
恒に坐端に居るも必ず抗音大言し、
既往の成敗を敍列し、
帝后は敬みてこれを納る。
然れど要人に諂い事え、輕賤を驕侮し、
王叡、苻承祖に見える每に
常に身を傾けて之に下る。
まあ、
なんと言うかあまり筋が宜しくない。
ちょっと間違うと
利によって動くタイプのお方ですね。
最後は乙渾誅殺を企てて逃げた宜都王目辰。
『魏書』宜都王目辰伝
高宗の即位するに勞累を以て侍中、
尚書左僕射に遷り、南平公に封ぜらる。
乙渾の謀亂するや、 目辰は兄の郁と議し、
渾を殺さんと欲するも、
事は泄れて誅を被り、
目辰は逃隱して免がるを得る。
顯祖の傳位するに定策の勳あり。
高祖の即位するに司徒に遷り、
宜都王に封じられ、
雍州刺史に除せられて長安に鎮せり。
目辰の性は亢直耿介、朋黨を為さず。
朝臣は咸な之を憚る。
然れど財利を好み、
州に在るに政は賄を以て成る。
罪ありて法に伏し、爵は除かる。
コイツはたぶん+αの一人なんかな。
兄の
献文帝より順陽王を追贈されました。
しかし、
弟の目辰は献文帝の即位後も
ほったらかしにされておりましたよ。
献文帝は目辰には薄かったらしいの。
で、
献文帝から京兆王子推への譲位を防ぎ、
その功績でもって宜都王となりました。
性格は
要するに付き合いづらい。
なので、
朝廷にあってもボッチだったみたい。
そんな目辰は宜都王に封王されると、
そして、
毎度お馴染み「政は賄を以て成る」、
汚職しまくりーので誅殺待ったなし。
なかなかご立派なメンバーですよね。
献文帝から京兆王への譲位に反対した人々、
けっして清廉潔白って感じではないですよ。
発酵というか腐敗というか香ばしい感じで、
裏では馮太后の毒が回っていた風味ですね。
次に、
馮太后の列伝を確認しておきましょうかね。
『魏書』文成文明皇后馮氏伝
顯祖は即位し、尊びて皇太后と為す。
丞相の乙渾は逆を謀り、
顯祖は年十二、諒闇に居る。
太后は密かに大策を定めて渾を誅す。
遂に朝に臨みて政を聽く。▼
高祖の生まるるに及び、
太后は躬親ら撫養す。
是の後、令するを罷め、政事を聽かず。▲
太后の行は正しからず、內に李弈を寵す。
顯祖は事に因りて之を誅し、
太后は意を得ず。●
顯祖の暴崩せるは、
時に太后の之を為すと言うなり。
▼▲で挟まれているところが第一次臨朝ね。
●の
献文帝が譲位する前年のお話でございます。
言わずもがなでありますけども、
「太后の行は正しからず、內に李弈を寵す」
これを訳しますと、
「太后はエロくて李弈とチョメチョメした」
(山城新伍訳『魏書』(民明書房)より)
という昭和感あふれる感じになるのですよ。
誤解のないようにしておきますと、
馮太后というと高齢っぽいですが、
皇興4年で28歳の未亡人ですから。
ピチピチの28歳の未亡人ですから。
ちなみに李弈はイケメン。
『魏書』李弈伝
式の弟の弈、字は景世。
容貌美しく才藝あり。
早くより顯職を歷し、
散騎常侍、宿衞監、都官尚書、安平侯たり。
兄の敷と同に死せり。
太和の初め、文明太后は弈の兄弟を追念し、
乃ち李訢を誅せり。
憲等の一二家を存問し、
歲時に賜うに布帛を以てす。
実は、
この李弈についても徹底的に情報がない。
まあ、そこまで大物でもなかったですし、
やむを得ないところではあるのですけど。
皇興4年10月 献文帝が李弈を誅殺
皇興5年8月 献文帝が孝文帝に譲位
献文帝の譲位および周囲の反応を見るに、
これは馮太后からの意趣返しであろうと
そういう風に考えるのが妥当でしょうね。
つまり、
馮太后は決してチョメってただけでなく、
献文帝を譲位に追い込めるほど影響力を
蓄えていたと推測されるワケであります。
その手法を考えるに、
・宗族や重臣と婚姻して結ぶ
・宦官を取り込んで手足とする
この2つが主力だったと考えております。
『魏書』穆真伝
子真、中散に起家して轉じて東宮に侍り、
長城公主を尚して駙馬都尉を拜せり。
後に敕にて離婚し、文明太后の姊を納る。
尋いで南部尚書、侍中に除せらる。
卒し、諡して宣と曰う。
北魏ではけっこう有力な家柄の人ですね。
穆真は
ただ、
穆真が仕えた
太武帝の皇太子=
文成帝は皇太子にはなっていませんから。
そうなると、
景穆太子の妹ということになりますかね。
それにしても、
それを勅によって離婚させた上で
馮太后の姉と再婚させたワケです。
ううむ、、、誰が勅を発したんでしょう。
まあ、
馮氏はワケありの一族ですけど北燕皇族、
一族の子女もけっこういたんですかねえ。
記録は穆真と任城王雲の子の澄だけですが、
馮太后に姉がいたとは知りませんでしたし、
他にも色々やっていたかも知れませんよね。
一方、
といったあたりは馮太后と時期がかぶり、
他の時期に比して異様に多いのですよね。
これは、
馮太后が宦官を使って政治を行ったことと
表裏をなすものであろうと推測されますの。
つまり、
献文帝の親政開始は単なる親政ではなく、
馮太后v.s.献文帝の第一ラウンド、
そういう側面もあったワケでありますね。
次回は、
馮太后の手足となった宦官の深掘りか、
本紀から二人の争いの足跡をたどるか、
ちょっと悩むところでありますよねえ。
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