前史⑤景穆五王の行方。
史料が少なくて楽しい
以下の論文をベースにしつつ適度に
適度に妄想していきたい所存です。
塩沢裕仁「北魏馮太后第一次臨朝の性格について」(『法政史学』1996)
https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=11226&item_no=1&page_id=13&block_id=83
「第一次」と言いますのは、
馮太后の執政が二期に分かれるためです。
:第一次臨朝開始
:第一次臨朝終了
:第二次臨朝開始
:第二次臨朝終了
乙渾誅殺から献文帝の親政までが第一期、
献文上皇崩御から死去までが第二期です。
第一期は約1年半、
第二期は14年です。
長い長い。
ちなみに、
皇興元年8月の献文帝親政は
『魏書』文成文明皇后馮氏伝
高祖の生まるるに及び、
太后は躬親ら撫養せり。
是の後、
令するを罷めて政事を聽かず。
このように、
馮太后の孝文帝の養育に務めて
政治の表舞台から身を引きます。
この時、
献文帝はまだ13歳に過ぎません。
さて、
塩沢センセーは論文で乙渾誅殺直後の
北魏の上位執政者をリストされてます。
まずはこれを拝見していきましょうね。
以下の独自記号も追加してみましたよ。
▲:乙渾専権期に昇官
△:乙渾専権期に封王
◆:乙渾専権期に重用
◇:平/評尚書事、大官の任官
尚:平/評尚書事
内:内都大官
中:中都大官/中都坐大官
外:外都大官
本筋に関係ないけど、
征西将軍に「閭紇(外戚)」がありましたが、
『魏書』文成本紀和平三年十二月條にある
「戊午、零陵王の閭拔、薨ず」は時期的に
閭紇を指すと見られるので除外しましたよ。
第一品上・中・下相等官
太師: 常英(外戚)◇尚内
司徒: 劉尼(功老重臣)▲
司空: 和其奴(功老重臣)▲◇尚
開府儀同三司: 淮南王他(宗族)▲◇中
儀同三司: 南平王渾(宗族)
(諸)開府: 封勅文(功老重臣)
衛将軍: 樂安王良(宗族)◇内
征東大将軍:
濟陰王小新成(景穆十二王)●◇外
任城王雲(景穆十二王)●◇中
馮煕(外戚)△◇内
征南大将軍:
京兆王子推(景穆十二王)●◇中
汝陰王天賜(景穆十二王)●◇内
征西大将軍:
陽平王新成(景穆十二王)●◇内
長孫観(功労重臣)
第一品従上・中・下相等官
鎮東大将軍:南平王渾(宗族)
鎮西大将軍:
准南王他(宗族)▲
拓跋石(宗族)
征南将軍:
源賀(功労重臣)
劉昶(劉宋宗族)
征西将軍:
尉多侯(功労重臣)
左光線大夫:常喜(外戚)
中軍大将軍:東平王道符(宗族)
撫軍大将軍:陸叡(功労重臣陸麗の子)
尚書左僕射:宜都王目辰(宗族)
尚書右僕射:慕容白曜(功労重臣)◆
中書監:李敷(功労重臣)
鎮南将軍:陸定國(献文帝側近)
鎮西将軍:
李峻(外戚)
封勅文(功老重臣)
こうして見ますと、
馮太后には直接関係ないのですけど、
大官の位がかなり重要と分かります。
第一品に相当する人の多くは何らかの
大官位に任じられた、または経験あり。
一般に三都大官と総称されるこの官は
「管刑獄事」を職掌とすると言います。
つまり、
刑罰および獄訟に関する官なのです。
しかし、
それなら
実際には政治の最高合議機関に近い、
そういう位置づけだったのかなあと。
北魏帝の統治を考えますと、
トップダウンというのは考えにくく、
合議制の色合いが強いと思われます。
そもそも、
この頃の北魏の皇帝権は弱いようです。
例えば、
『魏書』文成本紀
興安元年(中略)
太尉の張黎、司徒の古弼は
議して旨に合わざるを以て、
黜して外都大官と為す。
彼らを降格したと推測されますね。
逆に言えば、
北魏帝は三公の合意がなくては、
政策を実施できなかったワケで、
結果的に帝権は強く制限されます。
まあ、
年齢も12歳かそこらなのでうーむですが。
馮太后の権威が北魏帝を越えるとは、
ちょっと考えにくいところであります。
なので、
リストされた人々は上澄みですので、
彼らの支持なしで政治は難しかった。
そう考えてよいかと思われます。
その中には
乙渾に三公に叙任された
乙渾が
乙渾専権に協力していた
といった人々も含まれていますので、
想像されるような乙渾誅殺に伴っての
ガラガラポンはなかったと見られます。
つまり、
馮太后の第一次臨朝は乙渾からの体制に
景穆五王の監視がついたようなものです。
この点、
上掲論文において明確に指摘されてます。
事態が収拾されれば彼らはそれぞれの任地に帰還することになる。しかしながら、朝廷内の混乱を以て彼らは徴召されたわけであるから、再び任地に帰還するに至っても中央に対する厳しい監視の目が向けられるのは当然である。故に馮氏の第一次臨朝はこれら諸王の監視下にあったと見ることが出来るのである。
ここでの「彼ら」は景穆五王を指します。
この後にちょっと見ておりますけどもね、
おそらく、
景穆五王は乙渾誅殺の後も
献文帝を輔佐したと考えるのがよさげで。
つまり、
馮太后の第一臨朝は指摘されている通り、
朝廷での馮太后の発言力はけっこう弱い。
馮太后の第一次臨朝における朝政に対する姿勢は、献文帝崩御後の諸改革を伴った第二次臨朝における積極的な姿勢に比べると、明らかに消極的なものであるといえる。第二次臨朝期にみられるような朝政に意欲を示す馮太后であったからこそ、宗族と前朝を引き継ぐ臣僚とに取り囲まれた官僚集団の中での抑圧が、馮太后をして自らを引退せしめたと考えることが出来るのである。
このご指摘の通りなワケですよね。
では、
馮太后がどのようにして献文帝を
譲位させるまでの力を得たのか?
それが問題となりますよねえ。
その後を見てみます。
皇興元年(467)8月から献文帝親政、
その4年後、
延興元年(471)8月に孝文帝が即位、
献文帝は上皇となるワケでありますが、
それに先立ってゴタゴタが発生します。
それが
景穆五王の兄弟順で言いますと、
文成帝(故人)
陽平王新成(故人:470年12月没)
京兆王子推
濟陰王小新成(故人:467年2月没)
汝陰王天賜
任城王雲
ただし、
だから、
延興元年8月時点では京兆王子推が最年長、
残りは
この時、
献文帝は京兆王子推への譲位を希望し、
それに反対した主だったメンバーは、
任城王雲
という連中が中心となっておりました。
なので、
任城王雲は確実に平城におりますよね。
また、
汝陰王天賜は皇興5年(471)4月に
これは平城から発したと思われますね。
よって、
汝陰王天賜も平城にいたと見られます。
京兆王子推は徴召される前は長安にあり、
献文帝が親政を始める前の皇興元年正月、
長安鎮都大將の
謀反を図る事件が起きているのですよね。
つまり、
乙渾が誅殺された天安元年のうちには、
東平王道符が長安鎮都大將になっている。
つまり、こういうことね。
和平6年(465)
10月:景穆五王の徴召
= 京兆王子推は長安鎮都大將
天安元年(466)
2月:乙渾誅殺
→ 東平王道符が長安鎮都大將に就任
皇興元年(467)
正月:東平王道符の謀反@長安
これはこれでどうして謀反したのかな、
という興味を惹くところではあります。
じゃあ、
京兆王子推はどこにいたかと言えば、
平城にいたと考えるのが順当ですね。
推論ですけど、
景穆五王は献文帝即位後も平城に留まり、
献文帝の輔佐にあたった可能性が高そう。
一方、
乙渾誅殺から献文帝譲位までの間には
リストのメンバーの一部が退場します。
●は景穆五王です。
天安元年(466):
「2月、馮太后第一次臨朝」
封勅文(没)
皇興元年(467):
東平王道符(謀反)
濟陰王小新成(没)●
「8月、献文帝親政」
皇興3年(468):
和其奴(没)
皇興4年(469):
劉尼(免官)
慕容白曜(誅殺)
李敷(誅殺)
陽平王新成(没)●
延興元年(471):
「8月、献文帝譲位、孝文帝即位」
「第一品上・中・下相等官」リストの
掲載者の生存状況はこんな感じですね。
景穆十二王
✖陽平王新成
○京兆王子推
✖濟陰王小新成
○汝陰王天賜
○任城王雲
宗族
○淮南王他
○南平王渾
○樂安王良
外戚
○常英
○馮煕
功老重臣
▲劉尼
✖和其奴
✖封勅文
○長孫観
功老重臣は年長者が多いのでともかく、
景穆十二王2人は死にすぎじゃないの?
まだ10代~20代だと思うのですけど。
ちなみに、
陽平王新成と濟陰王小新成の伝は
異様に短いという特徴があります。
『魏書』陽平王新成伝
太安三年に封ぜられ、征西大將軍を拜す。
後に內都大官と為る。
薨じ、諡して幽と曰う。
『魏書』濟陰王小新成伝
和平二年に封ぜらる。頗る武略あり。
庫莫奚の侵擾するに
新成に詔して眾を率て之を討たしむ。
新成は乃ち多く毒酒を為り、
賊の既に漸逼せば、便ち營を棄てて去る。
賊は至り、喜びて競い飲み、
聊かも備うるところなし。
遂に輕騎を簡え、醉に因りて縱に擊ち、
俘馘すること甚だ多し。
後の外都大官に位す。
薨じ、大將軍を贈られ、諡して惠公と曰う。
これで全文。
なお、
二人は名前が激似ですけど同腹ではなく、
濟陰王小新成は京兆王子推と同腹ですね。
二人は共通して軍事的才能があったみたい。
伝には見えませんけども、
陽平王新成は
『魏書』文成本紀
(和平元年)六月甲午、
詔して征西大將軍、陽平王新成等は
統萬、高平の諸軍を督して南道に出で
南郡公李惠等は涼州の諸軍を督して
北道に出で、吐谷渾什寅を討たしむ。
濟陰王小新成は「頗る武略あり」と記述され、
詔により辺境に跳梁する
毒酒を用いた計略で大破した実績があります。
で、
京兆王子推、汝陰王天賜、任城王雲について
そういう華々しい戦歴は記録されていません。
強いて言えば、
皇興四年に献文帝の北伐にお供したくらいね。
つまり、
献文帝の譲位までの間に景穆五王のうち、
陽平王新成
濟陰王小新成
という武力的にも手強そうな二人が死没、
ということですね、そうですか不思議だ。
そういう感じで、
献文帝の叔父のうち、頼りになる二人は
譲位に至るまでに世を去っていたのです。
実に不思議な事象と言えましょう。
そして、
献文帝親政期の馮太后の動静については
ほぼ史料を欠いて不明なのでありました。
これは、
政治の表舞台に現れなかったことを示し、
裏で何をしていたか一切不明ということ、
そのあたりは次回に回したいと思います。
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