前史④馮太后の乙渾誅殺はナゾ。

天安てんあん元年(466)2月、

いよいよ馮太后ふうたいごう乙渾いつこんを誅殺します。

しかし、経緯や動機は闇の中でして。


冒頭でご紹介した通り、

何しろ史料がアレです。


というワケですので、

ニヨニヨしながらの妄想がフルバースト。


今回はそういう回になります。


まず、

史料に入って参りましょう。


『魏書』献文本紀

(天安元年)二月庚申、

 丞相、太原王の乙渾は謀反して誅に伏す。

 乙亥、侍中の元孔雀を以て濮陽王と為し、

 侍中の陸定國を東郡王と為す。

 三月庚子、隴西王の源賀を以て太尉と為す。


短っ。

史料の廃棄は想像以上ですね。


これでは何がなんだか分かりません。

馮太后の列伝の方ではどうでしょう。


『魏書』文明文成皇后馮氏伝

 顯祖は即位し、尊びて皇太后と為す。

 丞相の乙渾は逆を謀る。

 顯祖は年十二、諒闇に居り、

 太后は密かに大策を定めて渾を誅し、

 遂に朝に臨みて政を聽く。


首謀者が馮太后だったことは分かります。

では、

誰が参画していたかを調べてみましょう。

明言されているのは4人だけみたいです。


『魏書』元丕伝(神元平文諸帝子孫伝)

 顯祖の即位するに、侍中に累遷す。

 丞相の乙渾は謀反し、丕は以て奏聞す。

 丕に詔して元賀、牛益得を帥て渾を收め、

 之を誅す。

 尚書令に遷り、東陽公に改封さる。


『魏書』陸雋伝:陸麗の子

 顯祖の初め、侍御長たり。

 謀りて乙渾を誅するを以て

 侍中、樂部尚書を拜す。


『魏書』高允伝

 高宗の崩ずるに顯祖は諒闇に居る。

 乙渾は專ら朝命を擅にし、

 社稷を危うくせんと謀る。

 文明太后は之を誅し、

 允を禁中に引きて參じて大政を決す。


『魏書』高閭伝

 高宗の崩ずるに乙渾は權を擅にし、

 內外は危懼せり。

 文明太后は朝に臨みて渾を誅し、

 閭を引きて中書令の高允と禁內に入れ、

 參じて大政を決し、爵安樂子を賜わる。


さっとまとめますと、

元丕げんひが乙渾の謀反を馮太后に上奏

・乙渾誅殺の詔が元丕に下される

・元丕が乙渾を捕らえて誅殺する

ということになります。


で、

馮太后は乙渾を誅殺した後、

高允こういん高閭こうりょと政務を執った。


当時の官爵を見るに、

高允は中書令ちゅうしょれい、高閭は中書侍郎ちゅうしょじろうですね。

共通点は中書省ちゅうしょしょうの官人であることです。


さて、

中書省とはどういう役所かと言いますと、

『宋書』百官志

 魏武帝の王と為るに、祕書令を置く。

 尚書の奏事を典るは又た其の任なり。

 文帝の黃初初め、改めて中書令と為す。

(中略)

 江左の初め、

 舍人通事を合して之を通事舍人と謂い、

 呈奏案章を掌る。

 後に通事を省き、中書は侍郎一人を差して

 西省に直して又た詔命を掌らしむ。

というワケで、尚書しょうしょの上奏に関わる官職、

後には詔勅の起草なども扱うようになる。

つまり、

高允と高閭は詔に関わる立場ですよね。


そうなると、

馮太后が高允、高閭とともにしたのは、

乙渾誅殺後のことなのかはやや疑問ね。


乙渾の誅殺は、元丕伝に

 丞相の乙渾は謀反し、丕は以て奏聞す。

 丕に詔して元賀、牛益得を帥て渾を收め、

 之を誅す

とある通り、詔によって行われていますね。


じゃあ、

その詔を誰が起草したんでしょうね、

ということになると、中書省の官吏、

高允、高閭の可能性が高そうですし。


なぜなら、

この動きは秘匿されないとマズイし、

誰でもできるお話ではちょっとない。


一方、

乙渾の誅殺に関わった二人を見るに、

 元丕:侍中じちゅう

 陸雋りくしゅん侍御長じぎょちょう

侍中はまあよいとして侍御長はナゾ。


『魏書』皮喜伝

 道明の第八弟の喜。

 高宗は其の名臣の子たるを以て、

 擢きて侍御中散と為し、侍御長に遷る。


侍御中散じぎょちゅうさん→侍御長というコースらしく、

功臣の子弟が多く任じられていました。


おそらく禁中の儀仗兵みたいなモノで、

侍御長は侍御中散を統括する職かなあ。

それなら、

一応の動員力はあると考えられますね。


先に乙渾を誅殺しようとした元郁げんいく

殿中尚書でんちゅうしょうしょという官職に就いてました。


その職権でもって殿中の衛士を率いて

乙渾を威圧することができたのですね。


なので、

馮太后が乙渾を誅殺するにあたっても

殿中尚書を取り込む必要があるのです。


乙渾誅殺の直後には

侍中の元孔雀げんこうじゃく濮陽王ぼくようおうに、

侍中の陸定國りくていこく東郡王とうぐんおうに、

それぞれ封じられています。


陸定國は乙渾に殺害された陸麗りくれいの長子、

献文帝けんぶんていと一緒に後宮で育ったお子さま。

なので、

まあ、そういうことなのだろうと納得。

一方、

元孔雀の方は列伝もなくて経緯不明です。

乙渾誅殺の恩賞という可能性が高そうね。


ここから、

乙渾誅殺の実行部隊は侍中の元丕を中心に

侍御長の陸雋、おそらく殿中尚書の元孔雀、

というメンバーだったと推測してみました。


馮太后が乙渾を誅殺した理由は一切不明、

とにかく動機が完全に隠蔽されています。

実は、

残っている記録だけを見ると、乙渾の行動は

重臣を数人殺害しただけに過ぎないのですね。


それでも十分にアレではありますけども、

具体的な廃立や簒奪の記述も欠いており、

史書には「逆を謀る」と述べるに止まる。


『魏書』穆多侯伝

 多侯は麗に謂いて曰わく、

「(乙)渾に無君の心あり。

 大王は眾の望むところなり。

 去らば必ず危し、

 宜しく徐に歸りて之を圖れ」と。


強いて言えば穆多侯ぼくたこうは陸麗に

「乙渾には無君の心がある」

と言っておりますけどもねえ。


ポジショントークかも知れぬ。


そういうワケですので、

馮太后が乙渾を誅殺したテクニカルな

部分は分からなくもないのですけれど、

動機はまったく不明ということですね。


そこは好きに想像するしかありません。


ただ、

元丕は馮太后に直接上奏しており、

馮太后は詔を独自に起草している。

つまり、

乙渾の馮太后への警戒はザル同然で、

それが致命傷となったワケですよね。


乙渾と馮太后が敵対的関係とすると、

それはちょっとないんじゃないかと、

今のところはそう考えておりますよ。


でまあ、

さらに妄想を進めてみます。


文成帝は和平わへい6年の2月に樓煩宮ろうはんきゅう

行幸して翌月に平城へいじょうに戻っています。

その後、

5月に平城の太華殿たいかでんで崩御しました。


太華殿は百官の引見や宴会に使われますが、

そこで生活することもできたっぽいのです。


『魏書』王叡伝

 初め、叡の女は李沖の兄子の延賓に妻ぎ、

 次女も又た趙國の李恢の子の華に適ぐ。

 女の將に行かんとするや、先に宮中に入り、

 其の禮は略々公主、王女の儀の如し。

 太后は親ら太華殿に御し、

 其女を別帳に寢ませ、叡は張祐と侍坐し、

 叡の親しきところ及び兩李家の丈夫婦人は

 東西の廊下に列ぶ。


ここで馮太后は太華殿に足を運んで

王叡おうえいの娘を別帳で休ませていますね。


思うに、

文成帝ぶんせいていは「暴崩ぼうほう」ではありませんので、

おそらく病みついていたかと思います。


暴崩は「にわかほうず」と読み、

急死または不審死の際に用いられます。


文成帝が病床にあったと仮定すると、

その場所は太華殿と想像されますね。


そうなると、

子の献文帝が幼いことから文成帝は

遺詔いしょうを発したと推測されるのですね。


その遺詔で献文帝を託されたのが、

 尚書しょうしょ楊保年ようほねん

 平陽公へいようこう賈愛仁かあいじん

 南陽公ようへいこう張天度ちょうてんど

 平原王へいげんおうの陸麗

に乙渾だったと考えるとオモシロい。

これに最も不満を感じるのは誰かな?


『魏書』文成文明皇后馮氏伝

 太后の性は聰達、

 宮掖に入るより粗々書計を學ぶ。


このことからも馮太后は政治に関わる

強い希望を持っていたと窺われます。


文成帝の没後の政権を旧臣連中が担って

献文帝が成長してそれを引き継ぐのでは

せっかく学んだ書計もムダになりますよ。


遺詔なら文成帝の崩御数日前には下る。

それが馮太后の耳に入ったとしても、

それほどの不思議はありませんよねえ。


そこで、

馮太后は乙渾と結んで顧命の臣を粛清、

外廷は乙渾、後宮は馮太后が権を握り、

連携して朝廷を壟断ろうだんしていたとします。

ただし、

このことは朝臣には知られてはダメよ。


あくまで悪いのは乙渾一人じゃないと。


天安てんあん元年の1月、

拓跋郁(元郁)、拓跋陵たくばつりょう穆安國ぼくあんこく

安平城あんへいじょうあたりが乙渾の誅殺を企てて

露見した際に乙渾が馮太后の存在を

百官に漏らしてしまったとすると、

馮太后は身の潔白を証明するべく、

乙渾を誅殺するよりなくなりそう。


そのため、

馮太后は中書省の高允、高閭、侍中の元丕、

兵を握る陸雋、元孔雀あたりを抱き込んで、

乙渾の誅殺に踏み切らざるを得なくなると。


天安元年1月に拓跋郁が排除に踏み切った

動機を別に考える必要があるのですけども。


そうだったらドラマティックです。

これはもう陰謀論ですよ、陰謀論。


ちなみに、

乙渾との血縁が噂される乙瓌いつかいの子の乙乾歸いつけんき

献文帝の即位直後くらいに秦州刺史しんしゅうししとして

外に出ておりました。


『魏書』乙乾歸伝

 復た恭宗の女の安樂公主を尚し、

 駙馬都尉、侍中に除せらる。

 顯祖の初め、

 征西將軍、秦州刺史に除せられ、

 惠政あり。


これは乙渾がかけた保険なのかな、、、


妄想は以上。

塩沢センセーのご意見を伺ってみます。


センセーの立論は極めて妥当なもので、

(当たり前だ)

要約すると、

・乙渾=専権者

・馮太后は乙渾と潜在的に対立

・拓跋郁の死後に馮太后の存在が顕在化

・百官の要請を受けて景穆五王を徴召

・五王、百官と協議の上で乙渾を誅殺

・乙渾誅殺への馮太后の主導性は薄い

ということになります。


懸念点としては、

・拓跋郁の死の正確な時期は不明

・馮太后による景穆五王の徴召は可能か?

・乙渾誅殺の関係者が非常に少ない

 (百官に議論した形跡がない)

あたりが気になるところであります。


ここまでの妄想で遺漏していた

景穆けいぼく五王ごおう徴召ちょうしょうを少し補足しておきますね。


『魏書』献文本紀

 冬十月、陽平王の新成、京兆王の子推、

 濟陰王の小新成、汝陰王の天賜、

 任城王の雲を徵して入朝せしむ。


彼らは景穆太子けいぼくたいしの子、つまり、文成帝の

兄弟にあたる諸王ということになります。

外藩に出ていた彼らを平城に呼び寄せた、

これが景穆五王の徴召ということですね。


和平6年(465)10月ですから

乙渾の専権は確立しています。


徴は都に呼ぶ際に遣われる用字でして、

おおむね詔によるものと考えられます。


彼らの伝を見る限り、全員について

平城への徴召の前後と見られる時期に

「大官となった」旨の記述があります。


拓跋新成たくばつしんせい「後に內都大官と為る」

拓跋子推たくばつしすい「入りて中都大官と為る」

拓跋小新成たくばつしょうしんせい「後に外都大官に位す」

拓跋天賜たくばつてんし「後に內都大官と為る」

拓跋雲たくばつうん「都督中外諸軍事、中都坐大官を拜す」


平城への徴召の際の任官ではないか、

そのように疑わざるを得ないのです。


中都大官ちゅうとだいかん內都大官ないとだいかんは獄訟に関わり、

外都大官がいとだいかんとして36曹事を統べた例があり、

こちらは行政に関わる官かと思われます。

中都坐大官ちゅうとざだいかんは中都大官の上位職なのかな。

また、

彼らの伝には乙渾関連の記事はなく、

記述だけを見れば平城に召し出されて

献文帝の輔政にあたったと解されます。


これらの官は平城にいなくてはダメ、

だから、

五王徴召の際の任官と考えられます。


もう一つの仮説は、

これらを乙渾誅殺後の任官と考える。

ただ、

五王徴召の時点の官を列挙すると、


拓跋新成:征西大將軍

拓跋子推:侍中、征南大將軍、長安鎮都大將

拓跋小新成:?

拓跋天賜:鎮南大將軍、虎牢鎮都大將

拓跋雲:侍中、征東大將軍、和龍鎮都大將


拓跋小新成の官は不明、

拓跋新成と拓跋天賜は軍号のみ、

拓跋子推と拓跋雲の二人は侍中として

朝政に参加できるものの、それ以外は

軍号のみなので徴召されても動けない。

まあ、

皇叔という身分で何とかできるかもね。


とはいえ、

馮太后であっても乙渾であっても、

皇叔を呼び出して官職を与えない、

という状況は想定しにくいかなあ。


なので、

徴召→大人任官が現実的かと思います。


そうなると、

拓跋雲に至っては都督中外諸軍事ととくちゅうがいしょぐんじ

これは軍権の最高責任者の官です。


そんなものを専権者の乙渾が渡すかね。


塩沢センセーの見解によると、

徴召は馮太后の詔命であると。

たしかに、

専権を振るう乙渾が先帝の兄弟を呼び、

重要な官に就けるとは考えにくいです。


その一方、

果たして乙渾は史書の記述のとおりに

専権を振るっていたのかという疑問が。


乙渾の専権下での三公はこの通りです。

 太尉たいい乙渾いつこん

 司徒しと劉尼りゅうじ

 司空しくう和其奴わきど


劉尼はこれに先立つ宗愛そうあいの変を経験し、

太武帝たいぶていが暗殺された状況下にあって

源賀げんが、陸麗、長孫渴侯ちょうそんかつこうとともに皇太孫、

つまり文成帝を擁して宗愛を誅殺する、

そういう修羅場も経験しておりますね。


和其奴も乙渾から拓跋郁に引き渡された

林金閭りんきんりょの罪を疑って外任に出しており、

必ずしも乙渾に唯々諾々と従いませんし。


そうでありながら、

彼らは乙渾誅殺まで位を保っています。


長孫渴侯は文成帝の治世に誅殺され、

陸麗は乙渾に殺害されておりますが、

源賀は冀州刺史きしゅうししとして赴任しており、

特に加害などは受けておりませんね。


そうなると、

乙渾の行いは顧命の臣の権力争いで、

乙渾がそれに勝利しただけ、という

解釈も成立しなくもないの気がする。


別の可能性として、

乙渾は実際にはもっと多くを殺害し、

北魏の簒奪を企てていたということも

考えられなくはないと思うのですけど、

宗室の死者の記録が少な過ぎると思う。

さすがに、

乙渾に殺害された人の記録を破棄する、

そういう必要は馮太后にもないはずで。


それに、乙渾が専権を振るっていれば、

景穆五王なんてジャマで仕方ないはず。

それでも百官の支持を受けた馮太后が

徴召できるなら乙渾の専権とは一体?


乙渾が専権を振るった前提において

景穆五王を徴召する理由があるならば、

献文帝を廃立していずれかを擁立する、

そういうつもりだったという方がまだ

整合的という気もしてしまいますねえ。


そもそも、

乙渾と乙瓌が同族と推測されるなら

乙渾は生粋の遊牧民の可能性が高く、

漢人が後継者選定に際して重視する

嫡庶長幼をほとんど気にしないかも。


幼い嫡子が叔父に部族を奪われる、

そういうことは多々ありますから。


力こそパワー、

実力があるモノが部族を継承する。


そうなると、

馮太后としては絶対に許せないワケで

そういうコースもオモシロそうですよ。

何しろ、

五王の誰かが皇帝に即位してしまえば、

馮太后の立場は兄嫁、相当ビミョーね。


それに関連して気になる点が一つ。


『魏書』任城王雲伝

 延興中、顯祖は羣僚を集め、

 京兆王の子推に禪位せんと欲す。

 王公卿士、敢えて先言するなし。


乙渾誅殺の5年後の皇興こうこう5年(471)、

献文帝は馮太后との対立が激化すると

子の孝文帝こうぶんていに譲位するワケですけども、

それに先んじて、叔父の拓跋子推に

帝位を譲ろうとしているのですよね。


これは群臣の反対で頓挫するのですが、

もし仮に五王徴召が廃立目的だったら、

献文帝の行動は過去の経緯を利用した

馮太后へのツラ当てとして致命的です。


五王徴召が乙渾による廃立目的であり、

そこで乙渾と馮太后が激しく対立して

乙渾誅殺に踏み切ったと仮定しますと、

献文帝の叔父への譲位は非常に有効な

復讐ということになってしまうのよね。


コレはコレでオモシロい。


とまあ、

楽しくつらつらと乙渾の専権の実情と

馮太后の乙渾誅殺を探りましたけども、

結局は史料が少ないので決め手はなし。


個人的には、

・乙渾は顧命の臣の権力闘争の勝利者

・馮太后もその点では乙渾を支持

・乙渾の権限は専権ほど強くない

・五王徴召は献文帝の廃立狙い

・拓跋郁がそれに反対して粛清される

・やむなく馮太后が乙渾を誅殺

→ 献文帝は叔父への譲位で再現を図る

という経緯がオモシロくて好きかなあ。

献文帝の譲位のお話までリンクするし。


もっと色々考えられそうですけども、

結局はどれも妄想の域を出ないのよ。


次は馮太后のその後を見ていきます。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る