前史③馮太后の由来と予断。

さて、と。

北魏末をさらっと語るハズの本節ですが、

なんかヘンな掘り方しておかしな感じに。


どうしてこうなった。


まだ孝文帝こうぶんてい生まれていません。

すべて乙渾いつこんが悪いと思います。


今回から

乙渾を誅殺して北魏を正常化したらしい

文成文明太后ぶんせいぶんめいたいごう馮氏ふうしがメインテーマですね。


「馮氏」「馮太后」と呼ばせて頂きます。


孝文帝にとっては祖母、

太皇太后となりますね。


しかし、

皇帝の生母が殺害される子貴母死しきぼし制度で

祖母とは一体どういうことなんでしょう。


まずは、

皇后と皇帝の生母を

確認しておきますね。


『魏書』皇后列伝から抜き出してみます。

皇帝とその皇后とされる人を並べてます。

<>は皇帝を生んでいない皇后、

()は皇帝を生んだ皇后ですね。

⇒は()の皇后が生んだ皇帝・太子。


太武帝たいぶてい拓跋燾たくばつとう

赫連皇后かくれんこうごう赫連勃勃かくれんぼつぼつの娘>

賀氏がし

⇒ 景穆太子けいぼくたいし拓跋晃たくばつこう

  <昭皇后しょうこうごう常氏じょうし文成帝ぶんせいていの乳母>

  (郁久閭いくきゅうりょ氏、閭毗りょびの妹)

⇒ 文成帝ぶんせいてい拓跋濬たくばつしゅん

  <文明皇后ぶんめいこうごう馮氏ふうし馮朗ふうろうの娘>

  (李氏、李方叔りほうしゅくの娘)

⇒ 献文帝けんぶんてい拓跋弘たくばつこう

  (李氏、李恵りけいの娘)

⇒ 孝文帝: 拓跋宏たくばつこう

  <廃皇后はいこうごう馮氏、馮熙ふうきの娘>

  <幽皇后ゆうこうごう馮氏、馮熙の娘>

  (林氏、林金閭りんきんりょの姪)

    ⇒ 廃太子はいたいし拓跋恂たくばつしゅん

  (高氏、高肇こうちょうの妹)

⇒ 宣武帝せんぶてい元恪げんかく

  (胡氏、胡国珍ここくちんの娘)

⇒ 孝明帝こうめいてい元詡げんく


孝文帝の前に皇帝を生んでいない皇后は

 太武帝の赫連皇后:文成帝の治世初め

 景穆太子の昭皇后常氏:和平わへい元年(460)

 文成帝の文明皇后馮氏

という3人がおりまして、これらの人は

次代の皇帝の治世にも生存していました。


赫連皇后と昭皇后常氏の:後は死没時期。


そもそも昭皇后常氏は文成帝の乳母だし、

皇后でもなんでもないけど皇太后として

扱われているのでけっこうなレアケース。


これは前例があり、

太武帝の乳母の竇氏とうしも同じく皇太后扱い。


彼女らは撫育した皇子が皇帝となると、

保太后ほたいごう→皇太后とされて尊ばれました。


ヘンなの。


さて、

赫連皇后と昭皇后常氏の死没時期よりして

乙渾が無双した和平6年(465)の時点で、

後宮には馮太后を除いて大物妃嬪はいない。


北魏の皇帝は若くして世を去りますので、

皇太后や太皇太后が後宮にワラワラ溢れて

ワケ分からなくなったかと思いますけども、

子貴母死制度により強制的に整理されてる。


つまり、

乙渾が献文帝を後宮に軟禁してしまうには

どう考えても後宮の馮太后を無視できない。


馮太后の由来は北燕ほくえんです。

家系図はこんな感じです。


馮跋ふうばつ文成帝ぶんせいてい(兄)

馮弘ふうこう昭成帝しょうせいてい(弟)

 →馮朗ふうろう

 →馮熙(兄)、馮太后(妹)


北燕は五胡期の泡沫政権の一つですね。

鮮卑せんぴ慕容部ぼようぶ慕容垂ぼようすいが建国した後燕こうえん

残り香みたいなもので死に体国家です。


馮氏の祖父世代、

馮跋と馮弘の兄弟もなかなかに香ばしい。


馮跋が病みつくとその子らで家督相続の

モメモメが発生したのでその隙に馮弘が

専権を奪って馮跋は急死してしまうのね。

で、

馮弘は簒奪すると馮跋の子らを皆殺すヨ。


五胡って感じ。


こうして馮弘が継いだ北燕も拓跋仏貍たくばつぶり

太武帝の攻勢には抗えず高句麗こうくりに亡命し、

結局はその地で殺害されてしまうのです。


馮弘の子の馮朗は北魏の攻撃に先んじて、

これも家督相続のモメモメを回避すべく

とっとと遼西りょうせいに逃げ出しておりましてね。


馮朗はさっさと北魏に降るワケですけど、

北魏のお馴染み「投降者は重用しちゃう」

により秦雍二州刺史しんようじしゅうししにまで栄達しました。


なもんで、

馮朗の子の馮熙は長安ちょうあん生まれ長安育ち、

三輔さんほ羌族きょうぞくはみんなトモダチって感じ。


これには事情がありまして、

叔父の楽陵公がくりょうこう馮邈ふうばくが戦の最中に柔然じゅうぜん

降ってしまってから話がおかしくなるの。


馮朗は「事に坐して誅さる」とあります。

その「事」が馮邈の柔然投降なのですね。


これは解釈様々だと思うのですけどもね、

「叔父の樂陵公邈は戰に因りて蠕蠕に入る」

という記述から馮邈は戦場において柔然に

投降したと観るのがよいかと思うのですね。


だから、

軍事国家の北魏では激ツメされたハズで。


当然、

馮朗が誅殺されたら累は子の馮熙に及ぶ。

馮熙は当時「姚氏ようし魏母ぎぼ」が養育していた、

という記述が史書にありますけどイミフ。


姚氏なのか魏氏なのかハッキリしろ。


よく考えると、

姚氏魏母は乳母なので既婚で経産の女性、

だから、「姚氏に嫁いだ魏姓の母」かな。

それなら乳母として子を育てられますし。


たぶんそう、きっとそう、そうだといいな。

その魏母、

馮朗誅殺でピンチの馮熙を連れて逃げます。


行き先は氐族ていぞく、羌族の中でありました。


氐族、羌族の中で馮熙はスクスクと育って

氐羌には馮熙に心を寄せる者が続出します。


スクスク育ちすぎ。


「こらアカン」と思った魏母は長安に帰り、

馮熙は孝經と論語を学んで陰陽兵法を好む

遊侠チックなオトコとして完成するワケね。


『魏書』馮熙伝

 長ずるに及び、

 華陰、河東の二郡の間に游び、

 性は汎愛、小節に拘らず。

 人に士庶なく、來れば則ち之を納る。


コレはまさに遊侠じゃないですか、奥さん。


一方、

妹の馮氏は魏母に放置されていたらしく、

馮朗誅殺の際に長安から平城へいじょうに連行され、

叔母がすでに太武帝の妃嬪だったために、

後宮にて叔母に育てられたのであります。


で、

文成帝即位の際にその貴人となりました。

そして、

話はいきなり文成帝の崩御に飛ぶのです。

『魏書』文成文明太后馮氏伝

 高宗は崩ず。

 故事に、國に大喪あらば三日の後、

 御服、器物は一に以て燒焚し、

 百官、及び、中宮は皆な號泣して之に臨む。

 后は悲叫して自ら火中に投ず。

 左右は之を救い、良や久しくして乃ち蘇る。


これは有名なシーンです。


文成帝が崩御した三日後、

御服や器物の一切を焼き、

百官や妃嬪は号泣してこれを送ります。

その際、

馮太后は泣き叫んで火中に身を投じ、

左右の者が救い出したワケであります。


研究者のご意見を聞いてみましょう。


田村実造「北魏孝文帝の政治」

「事実とすれば、

 かの女は政治家的資質の反面、

 多分に芝居気のある女性であった

 ことがわかる」


塩沢裕仁「北魏馮太后第一次臨朝の性格について」

「呂思勉氏は(中略)

 馮氏が火中に身を投じる内容を

 扱った記載について、

 乙渾による馮氏殺害の可能性を

 不確定ながら想定している」


田村センセーの身も蓋もない意見がステキ。

塩沢センセーの引く呂思勉センセー見解も

オモシロいですね。


文成帝崩御からの乙渾無双までを

カレンダーに整理してみましょう。


和平六年(465)五月

 癸卯:文成帝崩御、乙渾は楊保年らを殺害

 甲辰:献文帝即位、馮氏は皇太后となる

 乙巳

 丙午:御服、器物を焼く(馮太后ダイブ)

 丁未

 戊申:乙渾が陸麗を殺害

 己酉:乙渾が太尉、錄尚書事となる


『魏書』献文本紀では乙渾の専権確立まで

文成帝崩御から6日でケリがついてました。


最初に殺害された3人、

 尚書しょうしょ楊保年ようほねん

 平陽公へいようこう賈愛仁かあいじん

 南陽公ようへいこう張天度ちょうてんど

については五月癸卯に殺害されました。


『魏書』天象志

 五月癸卯、上は太華殿に崩じ、

 車騎大將軍の乙渾は詔を矯めて

 尚書の楊寶年等を禁中に殺せり。


ここで日付まで明確に残っております。

楊寶年=楊保年というワケであります。


塩沢センセーは次のように書かれています。


通常専権を掌握したものは、幼少の皇帝よりも先帝の皇后、すなわち皇太后となるべき人物に接近し、皇太后の詔あるいは皇太后の矯詔を以てより一層専権を確立しようと考えるものである。ところが乙渾の場合は、馮氏に対するアプローチの記述が一切なく、献文帝を手元に留めることに終始している。しかるに当初乙渾としても馮氏をその手中に引き入れようと画策したのではなかろうか。しかしながら、乙渾は皇太后馮氏と結ぶに至らず、故に乙渾と馮太后とは献文帝即位の当初より不仲であったと考えることが出来るのである。

(塩沢センセー、上掲論文より)


I see.


確かに、史料に一定の信用があるなら、

というか、

歴史を研究する限りにおいて文献資料か

出土史料などなんらかの裏打ちがないと

このように言わざるを得ないのですよね。


しかして一方、

『魏書』献文本紀

 車騎大將軍の乙渾は「詔を矯めて」

 尚書の楊保年、平陽公の賈愛仁、

 南陽公の張天度を禁中に殺せり。

という記述より推して、乙渾は早い時期に

詔を矯めて専権を振るえる状態にあるです。


これは『魏書』の他の記述にも残ってます。

『魏書』元郁伝(神元平文諸帝子孫列伝)

 高宗の崩じて乙渾は權を專らにし、

 內外は隔絕して百官は震恐するも

 計の出ずるところなし。

 郁は殿中の衞士數百人を率て

 順德門より入り、渾を誅さんと欲す。

 渾は懼れ、逆え出でて郁に問いて曰わく、

「君の入るは何の意ならん」と。

 郁は曰わく、

「天子に見えず羣臣は憂懼せり。

 主上に見えるを求む」と。

 渾は窘しみ怖れ、郁に謂いて曰わく、

「今、大行は殯にあり、天子は諒闇、

 故に未だ百官に接せず。

 諸君は何ぞ疑わんや」と。

 遂に顯祖を奉じて朝に臨む。

 後に渾は心に亂を為さんと規り、

 朝臣は側目す。

 郁は復た渾を殺さんと謀り、

 渾の誅するところと為る。


まず、

乙渾の専権により「内外隔絶」したため、

百官は憂えるも対策が打てませんでした。


この「内外隔絶」は何を意味するかですが、

「天子に見えず羣臣は憂懼せり」とあって

外廷の朝臣が献文帝に謁見できないことで、

それなら献文帝はどこに居たかと言えば、

馮氏が新たに太后となった後宮ですわね。

ここでは、

「内外」は後宮と外廷と考えるのがよい。


元郁げんいくが数百人の衛士を連れてねじ込んで、

ようやく「遂に顯祖を奉じて朝に臨む」、

乙渾が献文帝を百官にお披露目しました。


元郁は正確には拓跋郁たくばついくですけど、

面倒なので元郁としておきます。


次に、

これがいつ起こったかを調べてみますね。

『魏書』和其奴伝

 高宗の崩ずるに、

 乙渾は林金閭と擅に尚書楊保年等を殺す。

 殿中尚書の元郁は殿中宿衞の士を率て

 兵を渾に加えんと欲す。

 渾は懼れて咎を金閭に歸し、

 金閭を執えて以て郁に付す。

 時に其奴は金閭の罪惡の

 未だ分かたざるを以て

 乃ち之を出して定州刺史と為す。

楊保年たちの殺害がねじ込みの理由でした。


先ほどのカレンダーの乙巳か丙午くらいに

元郁のねじ込みがあったと推測できそうね。


その直後に献文帝のお披露目もあったはず、

こうなると、

文成帝の崩御直後から乙渾は献文帝の身柄を

確保していたと考えざるを得ないワケです。


乙渾と馮太后が対立していればどうなるか?


乙渾がコワイのは馮太后に献文帝を奪われ、

詔を矯めて誅殺されることでありましょう。

それで、

御服や器物を焼く際に馮太后の殺害を企て、

失敗したならば必ずや次の手を打つはずで。


軟禁して他との交通を遮断するとか有効ね。

しかし、

それを行ったような記録は残っていません。

やったなら悪行として記録が残ると思うの。


だから、

馮太后と乙渾が対立していた可能性は低い。

少なくとも文成帝崩御の時点では、ですね。


元郁伝では以下が最大の問題と考えます。

 後に渾は心に亂を為さんと規り、

 朝臣は側目す。

 郁は復た渾を殺さんと謀り、

 渾の誅するところと為る。

乙渾はいよいよ謀反を企てたこと、および、

元郁が乙渾の誅殺を図って返り討ちになる、

そういうことが書いてあるワケですよねえ。


ただし、

時期は『魏書』『北史』ともに触れません。


乙渾に殺害された人を列挙してみましょう。

 拓跋陵たくばつりょう天安てんあんの初めに殺害

 穆安國ぼくあんこく:時期不明(右衞將軍ゆうえいしょうぐん

 安平城あんへいじょう:時期不明(虞曹令ぐそうれい

穆多侯ぼくたこう陸麗りくれいとともに殺害された?)


乙渾の命で陸麗を迎えに行って逃亡を教唆、

そのために誅殺された穆多侯は除外ですね。

たぶん陸麗と同じ時に殺害されているはず。


天安元年2月に乙渾は誅殺されるのですが、

直前に拓跋陵を殺害しているのが気になる。

さらに、

元郁、拓跋陵、穆安國、安平城のあたりを

パラパラと殺害していったとは考えにくい。


ついでに言えば、

なぜ乙渾の誅殺が天安元年2月なのか、

という点も気になるところであります。


推測するに、

元郁伝「後に渾は心に亂を為さんと規り」

の「後に」は天安元年の初めではないか。

で、

そこで元郁、拓跋陵、穆安國、安平城らが

乙渾誅殺に失敗して返り討ちにされた結果、

馮太后たちによって反撃されたんじゃない?


ただ、

乙渾が企んだ謀反の内容はXなのですけど。


そして、前回も触れておりますけど、

塩沢センセーの最重要指摘がこちら。


換言すれば、『魏書』の編纂段階以前に、既に乙渾に関しての史料が(意図的に)処分されていたと考えることが出来るわけである。何とならば、太武帝を殺害しさらに東平王翰や南安王余を殺害して乙渾以上の混乱を北魏にもたらした宗愛の列伝が『魏書』および『北史』に載せられているにもかかわらず、この両書に乙渾独自の列伝が所載されていないという原史料の採用に関する不自然さが存在するからである。すなわち、『魏書』の編纂段階では乙潭の列伝を削除する理由が見出せないのである。

(中略)

乙渾より被った被害意識が朝廷内に残存している乙渾の誅殺後の比較的早い時期、すなわち馮氏の第一次臨朝期において史料が処分されたと考えられるのである。


「被害意識」が原因なのかはさておいて、

乙渾関連の記録が馮氏によって処分され、

「誰」と「何」をしたかは伝わらない点、

これはいわゆる「完全に同意」なのです。


一般に史料の隠蔽は何かを隠すことが目的、

それを隠したいのは隠蔽した人なワケです。

この場合、

隠したい人=隠蔽した人:馮氏

であることは前提として置ける。置けるの。


じゃあ、

「誰」と「何」をしたかですけれどもね、

これは、乙渾誅殺後の馮氏にとって不利、

そういう情報でなくてはならんワケです。


そこでもっとも致命的な情報とは何か?

すなわち、

馮氏は「乙渾」と「協力」していた、

これが一番致命的な情報のハズでして。


ひとまず、

乙渾無双までの馮氏の情報整理は終わり。

盛りだくさんな予断を前提においた上で

次からは馮氏の乙渾誅殺以降に進みます。


本稿の目的は歴史研究ではなく、

史料をオモシロく読むだからね。

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