前史②文成帝崩御&乙渾無双。
初手からちょっとおかしな感じになった
「北魏末の基礎知識」シリーズですけど
今回もさらにあらぬ方向に脱線というか
目的地に到着する意思をまるで感じない。
あんま語られない時代だし、いいじゃん。
と開き直った感じで今回も思考実験が
原稿用紙15枚相当つづく誰得仕様です。
治世はざっくりこんな感じですね。
※文成帝(25)死去
※
※8月より献文帝が親政開始
※献文帝(17)譲位
太和17年(493):26歳、洛陽遷都
太和20年(496):29歳、
太和21年(497):30歳、
太和23年(499):32歳、崩御
471年からは冒頭に孝文帝の年齢を挙げてます。
旅のお供はこちらのクラシックな有名論文、
公開されておりますのでご興味の向きは是非。
京都大学学術情報リポジトリ
田村實造「北魏孝文帝の政治」(『東洋史研究』1982)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/153875
その一方、前回に整理した史官の紆余曲折では
この時期はちょうどこんな感じでありました。
文成帝(452~465):460~史官復活、以降ザル
献文帝(465~471):全面的にザル
孝文帝(471~499):491?~紀伝体を採用
つまり、孝文帝の親政期を除いて
『魏書』の記録そのものがザル。
そういう時期なので史料を読んでも
分からないところがVERY多いです。
たとえば、
献文帝の即位直後に無双した乙渾は
『魏書』も『北史』も立伝なしの上、
その他の記事も無双前後に限られる。
早い時期に記録が抹消されただろうと
以下の論文でも推測されていますのよ。
法政大学学術機関リポジトリ
塩沢裕仁「北魏馮太后第一次臨朝の性格について」
https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=11226&item_no=1&page_id=13&block_id=83
こちらも献文帝期の馮太后に関する
重要な論文でオモシロいんですのよ。
さて、
上記論文においては史料の欠如を
「乙渾に抑圧された被害意識により
早い時期に史料が廃棄されたかも」
と推論されますがなんか違和感アリ。
普通に考えると乙渾を誅殺して正道に
引き戻した人たちが顕彰されるべき、
というのが史官の思考と思いますし。
竹帛に名を垂れられないじゃん。
そうなりますとねえ、
乙渾の排斥に動いた人々も
史官からするとかなりアレ、
という可能性もあるかなあ?
ワクワクしますね。
歴史はドロドロして欲しい。
というように史料の欠如した原因から
そもそもよく分からないという感じで。
歴史研究をするつもりはないので、
そこはソレ、史料をかき集めても
あらぬ妄想できるというワケです。
それでは、レッツラゴー(昭和並感
孝文帝の異常なところは、
父の献文帝の崩御ではなく
譲位によって即位したトコ。
まあ珍しいですよね。
いわゆる、滅亡フラグ。
その治世をざっくり見るに、
471~476年:献文上皇v.s.馮太后暗闘期
476〜490年:馮太后の
490~499年:親政期
という3期があると。
28年の治世で親政したのは実質10年で、
もうなんというか、垂簾聴政のツール。
孝文帝の母は李貴人、
中山の李氏なので超名門って感じはなし。
皇太子の生母は国を乱さないように殺す、
この人は追尊されて
しかし、
一族から高官になった人がほとんどない。
フツー、外戚となると大官を多数輩出し、
我が世の春を謳歌するものなのですけど。
子貴母死制度で母后が不在の北魏では、
皇太后令による外戚登用は考えにくい。
なので、
おそらく皇帝が求めて外戚を重用した。
北魏の皇帝は味方が少なかったのかな。
孝文帝にはその力もなかった可能性大、
ぶっちゃけ馮太后の傀儡だったのです。
これを許容するには背景がありますね。
孝文帝が生まれる6年前から北魏は
ゴタゴタつづきだったのであります。
まずは、
乙渾こと一弗歩〇〇が朝権を握る。
〇〇は「文成帝南巡碑」の欠字、
たぶん「
「文成帝南巡碑」は以下の論文に詳しいです。
九州大学附属図書館
川本芳昭「北魏文成帝南巡碑について」
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD100000&bibid=25789
「一弗」は「乙弗」と同音なので
つまり、乙弗歩度根=乙渾なのね。
それなら五胡南北朝北朝派には
お馴染みの姓でございますわよ。
乙渾の権力奪取はメチャクチャです。
・文成帝崩御 → 献文帝を百官から隔離
※以降、「詔を矯め」られるようになる。
・
・
→ 楊保年たちの殺害を
・
・自ら
→ 三公は乙渾、
→ 封王は
・
・
= 専権を確立
文成帝崩御の5月から7月まで2ヶ月の早業。
時期不明ですが他にもやらかしております。
・乙渾の誅殺を計画した拓跋郁を殺す
→ 弟の
・
・妻が庶姓なのに公主の号を求める
→
ちなみに、『魏書』の記述を信じますと、
文成帝崩御の時点で乙渾は
将軍号のトップスリーはこんな感じです。
乙渾、軍のトップの1人じゃないですか。
つまり、文成帝の治世からすでに大物。
乙渾の出身部族の乙弗氏については
『北史』に由来が載っておりますね。
『北史』文帝文皇后乙弗氏伝
文帝文皇后乙弗氏、河南洛陽の人なり。
其の先世は吐谷渾の渠帥たり、
青海に居りて青海王を號す。
涼州の平ぐに、
后の高祖の莫瓌は部落を擁して入附し、
定州刺史を拜し、西平公に封じらる。
莫瓌より後、三世に公主を尚し、
女は乃ち多く王妃と為り、
甚だ貴重さる。
父の瑗は儀同三司、兗州刺史たり。
母の淮陽長公主は孝文の第四女なり。
この人は政略結婚で
孝文帝の孫娘という貴種でもあったわけですね。
その高祖の
『魏書』に
「乙」弗莫「瓌」ってコト。
シミケンみたいなモンです。
子孫はこんな感じ、莫瓌は4代前ですね。
高祖は祖父の祖父なので当たり前だけど。
乙弗莫瓌(乙瓌)
→
→
→
→ 文帝文皇后乙弗氏
『魏書』にある乙瓌が北魏に降った経緯は、
世祖の時、瓌の父の匹知は國威の化を慕い、
瓌を遣りて入貢せしめ、世祖は因りて之を留む。
とあって『北史』とは趣が違いますね。
パパンの
『北史』では
乙瓌は献文帝の和平年間(460~465)に29歳で
世を去っておりますので、北涼滅亡時3~8歳、
ジャリやないですか、『北史』記事はマユツバ。
乙弗部は道武帝の登國元年(386)に部帥の
逃亡した記事があって半世紀ぶりの北魏臣属です。
それまでは
その乙弗部の北魏臣属とともに乙渾も北魏に仕え、
和平三年(462)時点で車騎大将軍だったとすると、
乙瓌と乙渾は兄弟または同世代くらいでしょうか。
乙瓌の最終的な官爵は、
さらに
なお、乙渾の和平三年時点の官爵は
車騎大將軍、(
ということになりますけど、なんかヘン。
『魏書』官氏志の太和令によりますと、
征東將軍 : 從第二品上
車騎大將軍 : 第一品下
この関係性は太和以前も同じでしょう。
乙瓌の儀同三司を含めても太和令では
車騎大將軍が上になってしまいますね。
そうすると、乙渾の方が乙瓌より格上?
異姓で王二人ってなんか異常ですが
当時は王が非常に多く存在しており、
文成帝の
柔然から亡命した
同時に封王された例がありましてな。
この時に閭氏の一族では
王二人
公五人
侯六人
子三人
が同時に爵位を与えられたそうです。
大安売りというか、投げ売り。
つーか、
北魏ってヨソから降った有力者はすぐ王号。
このあたりの事情をシツコく考えていくと、
孝文帝以前の北魏は宗室諸王と異姓諸王の
連合政権的なモノだった節がイッパイです。
だから、
道武帝の部族解散はちょっと信じらんない。
それはさておき。
二人の官爵を比較すると、
閭毗 :
閭紇 :
とありますけど官位が意味不明なのです。
『魏書』あたりの用例から推測すると
「評尚書事」したという記事から考えて、
評尚書事は三公クラスの合議集団クサイ。
中都大官の用例を見ると、
「入りて中都大官と為り、察獄に稱あり」
「中都大官に位し、性明敏、鞫獄に平を稱さる」
「中都大官に轉じ、善く獄訟を察し、政刑に明らかなり」
いずれも獄や訴訟に関わると分かります。
たぶん
以上から考えると、
兄の閭毗の評尚書事の方が
弟の閭紇の中都大官よりも
格上と考えてよいでしょう。
この、他国から北魏に降った同族内で
二人が王に封じられてそれぞれ官職に
差があるって乙渾と乙瓌と同じケース。
そうすると、
乙渾と乙瓌が兄と弟という可能性も、
考えられなくはないのかしらね、、、
ここからは歴史研究とはほど遠い
ザル仕様の妄想になりますけど、
『魏書』と『北史』の整合には、
・乙匹知が乙瓌を北魏に質入れ
・乙匹和→乙渾に部族が継承される
・涼州平定の際に乙渾が部族ごと降る
・乙弗部帥が乙瓌と乙渾でグチャる
・文成帝の裁定により両方を封王
西平王 : 征東將軍 乙瓌
太原王 : 車騎大將軍 乙渾
という経緯も考えられないかなあ?
ん?ん?
北魏においては先に降った乙瓌を
優遇したいのはヤマヤマですけど
兵を握る乙渾を怒らせるとコワイ。
官職は乙渾を上にして乙瓌に兵を
渡させると万事丸く収まっちゃう。
乙瓌は太武帝お気に入りのタフなガイです。
『魏書』乙瓌伝
瓌は弓馬に便でて射を善くし、
手ずから猛獸と格い、膂力は人に過ぐ。
數々征伐に從い、甚だ信待さる。
文成帝もヒイキにしたくなるワケですよね。
そうなると、
乙渾の方は怨みの炎が三千丈、
北魏への復讐を胸を誓うのでした。
以下次号。
まあ待て、と。
乙渾があれだけやらかしておいて
乙瓌が兄弟なら三族皆殺しは確定。
実際には、
『魏書』によると乙瓌の子の乙乾歸が
延興五年(475)に没していますから
三族皆殺されてはいないワケですよね。
じゃあ、乙渾に協力した者が合わせて
天誅喰らっているかと見てみますと、
『魏書』慕容白曜伝
高宗の崩ずるに、乙渾と共に朝政を秉り、
尚書右僕射に遷り、爵を南鄉公に進め、
安南將軍を加えらる。
~中略~
(皇興)四年冬、誅さる。
初め、乙渾の權を專らにするに、
白曜は頗る俠附するところ、
此れに緣りて追い以て責を為す。
將に誅するに及ぶや、反叛を謀むと云い、
時論は之を冤とす。
乙渾の死から4年後の皇興四年(470)に
誅殺されており、理由は謀反とされます。
時の人は「捏造やん」と言ってますけども、
直接的に乙渾への協力が理由になってない。
ちなみに、
乙渾の専権期に司徒に任じられた劉尼は
同じ年に事に坐して免官されていまして
(献文帝の閲兵中に泥酔するアホ仕様)、
司空に任じられた和其奴は前年に死去、
乙渾に重用された人は見事に全滅ですね。
一方、乙渾に封王された二人ですけど、
ちょっと意外なメンツなんですよねえ。
李嶷(頓丘李氏)
文成帝の太安年間(455~459)に劉宋より亡命
馮熙
馮太后の兄
李嶷は情報がないですけど子の
喪に服しているため加罰を受けたとは見られず、
馮熙に至っては馮太后の兄として孝文帝が重用、
娘を孝文帝の後宮に送り込むなどしております。
気になる点は乙渾がなぜ馮熙を王に封じたか。
その時期は乙渾が太尉、錄尚書事になった直後、
つまり、献文帝を擁して専権を確立しようとし、
それが形になりつつあった時期ということです。
そもそも考えるに、
幼い献文帝を擁して百官から隔離するには、
どう考えても後宮の協力が必要になるよね?
外廷に皇帝を軟禁するわけにもいかないし、
後宮に皇帝を軟禁するのが利口ですよねえ。
この当時、
後宮で誰が権力を握っていたかと言えば、
言うまでもなく先帝の皇后だった馮氏ね。
当初に乙渾に協力していた林金閭は宦官、
これが生きていれば後宮まで監視できた。
しかし、
拓跋郁に激ツメされた乙渾はヒヨって
林金閭をイケニエの子羊にしてしまい、
林金閭を定州刺史にバシルーラした後、
誅殺せざるを得なくなってしまいます。
いわゆる口封じでありますね。
無論、林金閭の後釜がいないとは限らず、
それでもって監視を継続できたかもです。
ただ、
おそらく後宮にあって権力を握る馮氏に
遠慮しないワケにもいかなくなっており、
その結果が馮熙の封王ではないかな、と。
もっとツッコんで言ってしまいますと、
乙渾の専権にあたっては馮氏の黙認を
得ないと実行できなかったんじゃね?
そういう疑いを持ってしまいます。
そうなると、
乙渾が誅殺された後に協力した者たちが
一網打尽にされていないのも当然でして、
もともと、乙渾+馮太后と一緒になって
朝政を
だから、
ホトボリが覚めるまで待って慕容白曜や
劉尼のように誅殺、免官させたのかもよ、
という邪推を強く否定できる材料がない。
そういうワケで、
孝文帝のパパン献文帝即位時に無双した
乙渾の周辺を洗ってみる限りにおいては、
・乙渾は乙弗部という有力部族出身
・乙渾の誅殺後も大量連座はなさそう
・乙渾と馮氏は仲良しの可能性もある
という実にトンデモな感じになるのです。
それじゃあ、
馮太后にとっての乙渾無双とは?
それはまた次回観てみたいです。
北魏朝廷ギスギスフィーリング。
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