前史「孝文帝の洛陽遷都~六鎮の乱直前」

前史①史官の紆余曲折

年表だけでもちょっと分かりにくい。


ということで、

各フェーズにちょっと雑談風解説を。


雑談なのでとりとめのない感じです。

まずは前史から。


▼前史

493:孝文帝の洛陽遷都

499:孝文帝の死・宣武帝の即位

515:宣武帝の死・孝明帝の即位

520:柔然の阿那瓌が北魏に亡命

521:柔然の阿那瓌が帰国・即位


太和たいわ23年(499)までが孝文帝の治世ね。


『魏書』高祖紀

 高祖孝文皇帝、諱は宏、

 顯祖獻文皇帝の長子、母を李夫人と曰う。

 皇興元年八月戊申、平城紫宮に生まる。

 神光は室內を照らし、天地氛氳、

 和氣は充塞せり。

 帝は生まれながら潔白、異姿あり。

 襁褓岐嶷、長じて淵裕仁孝、

 綽然として君人の表あり。

 顯祖は尤も愛して之を異とす。


姓名は拓跋宏たくばつこう、後に改姓して元宏げんこう

北魏を漢化したことで知られます。


オレ、オマエ、キライ。


『魏書』の本紀を読んでいても、

孝文帝の前後でけっこう違うし。


なんというか、

孝文帝以前は夷狄いてきっぽい。


官職も見慣れないモノがイッパイだし、

「ああ、漢人じゃない王朝だなあ」と、

LOVEが溢れざるを得ないわけです。


ご承知のとおり、

『史記』

『漢書』

『後漢書』

『三國志』

『晋書』

ここまでの史書はすべて漢人の王朝で、

『魏書』だけは鮮卑せんぴ拓跋部たくばつぶの建国です。


鮮卑は東胡とうこの一部とされますけど、

東胡そのものにマユツバ感があります。


『史記』『漢書』は記事が少なくて、

実際にどんな連中なのかは不明です。


そもそも東胡という名前からしてアレ、

漢人が名づけたこと確実なのですよね。


北狄とか南蛮とか東夷とか西戎と同じで、

東胡という名には概念的なモノを感じる。


誰だって自分の民族を中心に置くワケで、

「中東」とか「極東」とか「東南」とか

自称なんてするわけないのでありますね。


そう考えると、「日本」も変なのかも。


「日出るところ」にしても西側目線、

東側は太平洋なんで国ないですしね。


話を戻して。


実際は東胡もそれらと同じ概念的なもので

鮮卑、烏桓うかん契丹きったん室韋しついけい扶余ふよとか、

東北方面にいた異民族の総称なのかもよ。


それで、

近い=西側にいる民族を東胡と捉えた、

というのが実際のところじゃないかな。


前漢の初め頃、

高祖こうそ劉邦りゅうほうの幼馴染の盧綰ろわん匈奴きょうどに亡命し、

匈奴単于きょうどぜんう東胡盧王とうころおうとされているのよね。


これは『史記』『漢書』ともに記載あり。


東胡盧王の他にも東胡〇王というのが

イッパイいたことが推測されるわけで。


東胡烏桓王とうこうかんおう東胡鮮卑王とうこせんぴおうがいてもいい。

そのあたりの史料は全然ないですけど。


時代が下って、

『後漢書』『三國志』になると、

烏桓、鮮卑が東北の脅威として

描かれるようになってきますね。


これは東北の遊牧民の勢力交替なのか、

東胡の解像度が上がったのかも不明瞭。


鮮卑の故地が大興安嶺だいこうあんれい北部の嘎仙洞かつせんどう

あったことは考古学的に確認されています。

そこから南下したことはまあ確実っぽいの。


東洋史の御大おんたい宮崎市定みやざきいちさだの著作に

『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会 』(東洋文庫、1940)

があります。


ここでは、

遊牧民族 = 活力満載

→ 王朝建設

→ 文化発展 = 活力衰退

→ 別の遊牧民族の征服王朝登場

という観点で中国史を俯瞰しています。


グウの音も出ない正論。

たぶん夏、殷、周あたりから説明つく。


つまり、

技術的な差がそれほど大きくなければ、

文化的には野蛮な方が強かったりする。


そう考えると、

『史記』『漢書』→『後漢書』『三國志』の

変化の中で鮮卑の登場は勢力交替の反映と

考える方が実情に近いのかも知れませんね。


文明化した南匈奴なんきょうどは弱くなり、

烏桓も漢人の戦に巻き込まれて弱体化、

代わって東北でウダウダしていた鮮卑が

「どうもどうも」という感じで登場する。


鮮卑は南匈奴、烏桓と比較して未開。

だから、

『魏書』は読むとかなり違和感があり、

それがオモシロいところでもあります。


無論、孝文帝以前の記述であっても、

かなり漢人王朝風に改変されていて、

異民族っぽさを感じるにはちょっと

考えないといけなかったりはします。


哀しいかな、北魏を知るために必須となる

魏収ぎしゅうの『魏書』は史書としてよくない、

というお話はよく耳にするところです。


穢史わいし」という言い方までされます。

キタナイ史書、ヒドイ。


ただ、魏収が責められた理由の多くは、

「一部の漢人名門の扱いが不当だった」

ということであって当時の政界事情です。


史書としてのデキとは区別しないとね。


その一方、

魏収が『魏書』を編纂するにあたり、

材料が劣悪だったという事情もある。


『魏書』を編纂した魏収の認識では、

國史は鄧淵、崔琛、崔浩、高允、李彪、崔光より以還、諸人の相い繼ぎて撰錄す

というように、北魏では繰り返し、

国史編纂が試みられて参りました。


一番最初は道武帝どうぶてい鄧淵とうえんに命じて

編纂させた『国記』なのでありますね。


『魏書』崔浩伝

 初め、太祖は尚書郎の鄧淵に詔して

 國記 十餘卷を著さしむ。

 編年に事を次ぶるも體例は未だ成らず。

 太宗に逮び、廢して述べず。

 神䴥二年、詔して諸文人を集めて國書を撰錄せしむ。

 浩及び弟の覽、高讜、鄧穎、晁繼、范亨、黃輔等は

 共に著作に參じ、敍べて國書三十卷を成せり。


鄧淵の祖父は鄧羌とうきょうと言いまして、

苻堅ふけんに仕えて「万人敵ばんにんのてき」と呼ばれた猛将。

その子の鄧翼とうよく後燕こうえん慕容垂ぼようすいに降ります。


鄧翼の子の鄧淵とうえんは道武帝に抜擢されて

北魏に仕えることになったわけですが、

結局はその道武帝に死を賜わってます。


そのためか、

道武帝の次の太宗たいそう明元帝めいげんていの時代は

史官が廃されて記録が残っていない。


たしかに、

『魏書』太宗明元帝紀あたりはスカスカです。


鄧淵の『国記』の実態となりますと、

『魏書』鄧淵伝

 太祖は淵に詔して國記を撰せしめ、

 淵は十餘卷を造るも、

 惟だ年月起居行事を次ぶるのみ、

 未だ體例あらず。

鄧淵の『国記』は編年体だった、と。


年月とその時の皇帝の行動や事件を

並べるだけで終わったみたいですね。


崔琛さいちんについては『魏書』『北史』ともに

記述を欠くのですけど崔浩さいこうの同族かな?


崔浩は太武帝の神䴥しんか2年(429)、

『国書』の編纂を命じられて完成させた、

まではよかったのですけどもその後がねえ。


『魏書』崔浩伝

 著作令史の太原の閔湛、趙郡の郄標は素より

 浩に諂い事え、乃ち石銘を立てて國書を刊載し、

 并せて注するところの五經を勒さんことを請う。

 浩は之に贊成す。

 恭宗はこれを善しとし、遂に天郊の東三里に營み、

 方百三十步、用功三百萬にして乃ち訖る。


閔湛びんたん郄標げきひょうというオベッカ遣いに乗せられ、

『国書』を石に刻んで公開してしまいます。

これが悲劇の始まりというワケであります。


『魏書』崔浩伝

 真君十一年六月、浩を誅し、清河崔氏は遠近なく、

 范陽盧氏、太原郭氏、河東柳氏、

 皆な浩の姻親は盡く其の族を夷さる。

 初め、郄標等の石銘を立てて國記を刊するに、

 浩は盡く國事を述ぶるも、備にして典ならず。

 而して石銘は顯かに衢路にあり、

 往來の行者は咸な以て言を為し、事は遂に聞發せり。


『国書』編纂が命じられた神䴥二年から21年、

太平真君たいへいしんくん11年(450)に崔浩は誅殺されます。

ついでに、三族姻戚まとめて皆殺しの憂き目。


理由は、

『国書』が刻まれた石を観た往来の人々が

内容を喋々したことによるとされています。


『国書』が公開された理由は、

次のように記されております。


『魏書』高允伝

 既にして浩に撰するところの國史を石に刊し、

 用て不朽に垂れんことを勸め、

 以て浩の直筆の跡を彰かにせんと欲す。

 允は之を聞き、著作郎の宗欽に謂いて曰わく、

 「閔湛の營むところ、分寸の間、

  恐るらくは崔門萬世の禍を為さん。

  吾が徒は類なきなり」と。

 未だ幾ばくもせずして難は作る。


ここで注目すべきは

「以て浩の直筆の跡を彰かにせんと欲す」です。

つまり、『国書』を石に刻んで公開した動機は

崔浩の直筆を漢人連中に知らしめるため、と。


崔浩『国書』は忠実に事実を記していたっぽい。

少なくとも、漢人はそう感じる記述のはずです。


『国書』の体裁については次のように語られます。


『魏書』李彪伝

 成帝より以來、太和に至るまで、

 崔浩、高允は國書を著述し、

 編年序錄に春秋の體を為し、

 時事を遺落すること、三に一の存するなし。

 彪と祕書令の高祐は始めて奏し、

 遷固の體に從い、創りて紀傳表志の目を為す。


「春秋の体」という記述から観て

編年体で本紀のみだったようです。


成帝は文成帝ぶんせいていでしょうね。

そこから孝文帝の太和年間まではこの形。


紀伝体を採用した時期を考えると、

太和15年(491)の孝文帝の親政開始時、

という理解がよいのかも知れません。


『魏書』高祖孝文帝紀

 十五年春正月丁卯、帝は始めて皇信東室に聽政す。

 初めて左右の史官を分かち置く。


史官を左右に分けておりますが詳細不明。

左右の役割くらい書いておいて欲しいな。

ただ、

この時に史官の体制は一新されたはずです。


それ以前から太和年間まで

「時事を遺落すること、三に一の存するなし」

まったくのザルやないかい。


崔浩が殺された太平真君11年(450)から

太和元年(477)まで最短でも四半世紀、

この間の記録はザルだったということね。


太和以降は司馬遷しばせん班固はんこの体裁に従い、

本紀、列伝、表、志といったお馴染みの

形で記録されるようになったワケです。


話を太平真君11年に戻しますと、

正史を漁っても崔浩の誅殺に関わる動機に

直接言及した記事は見当たらないのですよ。


それっぽい記事はこれくらいかなあ。


『魏書』高允伝

 世祖は允を召し、謂いて曰わく、

 「國書は皆な崔浩の作なるや不や」と。

 允は對えて曰わく、

 「太祖記は前の著作郎の鄧淵の撰するところなり。

  先帝記、及び今記は臣と浩の同に作すなり。

  然れど浩は綜務の多きに處り、總裁するのみ。

  注疏に至らば臣は浩より多し」と。

 世祖は大いに怒りて曰わく、

 「此れ浩より甚し。安んぞ生くる路あらんや」と。

 恭宗は曰わく、

 「天威は嚴重にして允は是れ小臣、

  迷亂して次を失うのみ。

  臣の向に備問するに、皆な浩の作と云えり」と。

 世祖は問うらく、

 「東宮の言の如かるや不や」と。

 允は曰わく、

 「臣は下才を以て謬りて著作に參じ、逆を天威に犯す。

  罪は應に滅族すべく、今や已に死を分かち、

  敢えて虛妄せず。

  殿下は臣の侍講すること日久しきを以て

  臣を哀れみて命を乞うのみ。

  實に臣に問わず、臣に此の言なし。

  臣は實を以て對え、敢えて迷亂せず」と。

 世祖は恭宗に謂いて曰わく、

 「直なるかな。此れ亦た人情の難しとするところ。

  而して能く死に臨んで移らず、亦た難からずや。

  且つ君に對するに實を以てす。貞臣なり。

  此の言の如くんば、

  寧ろ一有罪を失うも宜しく之を宥すべし」と。

 允は竟に免るを得る。


これは『国書』の問題が発生した後、

崔浩とともに編纂にあたった高允こういん

恭宗きょうそう=皇太子の拓跋晃たくばつこうに伴われて

世宗=太武帝に謁見した際の会話ね。

ちょっと長い。


ここで触れられている内容は、

 道武帝:鄧淵

 明元帝・太武帝:高允&崔浩

という本紀の分担について。

先の「春秋の体」に則していますよね。

かつ、

明元帝・太武帝の記を多く執筆した高允に

「此れ浩より甚し。安んぞ生くる路あらんや」

と太武帝が激怒しているところから観るに、

國書に関わる問題の原因は一般に言われる

「鮮卑の野蛮な習俗をそのまま記述した」

というお話とはちょっと様相が異なる模様。


あくまで問題は明元帝・太武帝の本紀です。

なもんで、

崔浩は鮮卑の野蛮な習俗を書いて怒られた、

という理解はすっぽ抜けているかも知れん。


先ほど触れた大興安嶺北部の嘎仙洞には

太武帝の太平真君4年(442)の祝文があり、

皇帝を「可寒かかん」、皇后を「可敦かとん」と呼ぶ

当時の習俗が明らかになっておりまして、

太武帝の時期も夷狄らしさは抜けてない。


しかし、

当時の習俗をそのまま記録したとしても

それが三族皆殺しの理由とは考えにくい。


だって、周知の事実なわけですからね。


最近では、

崔浩の誅殺は『国書』を口実にするけど

南朝への侵攻に向けた戦意高揚を目的に

漢人を排斥した政策の一環ではないか、

という見方もされている感じであります。


戦場で戦うのは鮮卑軍人なわけですし。


これは国史事件と呼ばれますけども、

それからしばらく史官は置かれない。


『魏書』高宗紀には和平わへい元年(460)六月に

史官をふたたび置いた記事がありましてね。

 崔浩の誅さるや、史官は遂に廢され、

 是に至りて復た置かる。

崔浩の死の太平真君十一年(450)から

10年ほどはザルどころか記録がない感じ。


太和以降の記録はどうかと言うと、


『魏書』山偉伝

 綦儁及び偉等は上黨王天穆及び尒朱世隆に諂い說き、

 以て國書は正しく應に代人の修緝たるべく、

 不宜しく之を餘人に委ぬべからず、と為す。

 是れ以て儁、偉等は更めて大籍を主る。

 舊を守るのみにして初めて述著するなし。

 故に崔鴻の死後より偉の身を終える迄の二十許りの載、

 時事は蕩然として萬に一を記さず。

 後人の執筆するに憑據するところなし。

 史の遺闕は偉の由なり。


崔鴻さいこうの没年は孝昌こうしょう元年(525)、

太和年間から半世紀ちょっとくらいの間は

紀伝体に則した記録はされていたはずです。

しかし、

崔鴻の死後は綦儁きしゅん山偉さんいというB級史家が

史官となったために「萬に一を記さず」、

記録されていないも同然となってしまった。


以上を整理すると、北魏の記録は、

道武帝(386~409):途中まで鄧淵の国記

明元帝(409~423):高允と崔浩の国書

太武帝(423~452):高允と崔浩の国書、450~史官廃止

文成帝(452~465):460~史官復活、以降ザル

献文帝(465~471):全面的にザル

孝文帝(471~499):491?~紀伝体を採用

宣武帝(499~515):紀伝体を継続

孝明帝(515~528):525~ザル

ということになってしまうわけですね。


こういう紆余曲折テンコ盛りでして

北魏の記録はそもそも問題が多そう。


そう考えると、

太和年間に紀伝体を採用した孝文帝は

歴史に興味ある人には功徳があります。


北魏末の詳細が残っているのは孝文帝のおかげ、

という側面もなくはないわけでありますからね。


そういうワケなので、

正史を読んでも問題が多い時代なのであります。


孝文帝をDISるつもりが史官の話になったよ。

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