マジメに調べずテキトーに語る南北朝時代北魏末の人々。
河東竹緒
北魏末の基礎知識
ざっくり年表と解説。
北朝拓跋部好きのオトモダチのみなさん、
こんにちは。
北魏末の大混乱を扱っておりますが、
あまりに混乱しすぎてワケ分からん、
という事情もあり、ちょっと時系列に
整理してみることにしましたよ、と。
ちなみに、
南朝は空気として扱わせて頂きます。
北魏末の大混乱をざっくり分けると、
こんな感じになりますな。
前史:493~521年
六鎮の乱~爾朱兵団専権:523~533年
高歓v.s.宇文泰:534~547年
北齊・北周建国:538~557年
北齊・北周並立:558~572年
河北統一戦から隋建国:573~581年
前史から90年弱、六鎮の乱から60年弱、
という期間が対象となるのであります。
なかなかに長い。
それをボンヤリ読むのもアレですので、
おおまかな期間を区切って解説する、
それがここでの目的でございますね。
▼前史
493:孝文帝の洛陽遷都
499:孝文帝の死・宣武帝の即位
515:宣武帝の死・孝明帝の即位
520:柔然の阿那瓌が北魏に亡命
521:柔然の阿那瓌が帰国・即位
まずは直接関係しない前史です。
歴史的にも有名な北魏の洛陽遷都、
コイツが六鎮の乱の遠因ですね。
それまで北の平城にあった都を
有名な洛陽に移してしまいます。
平城だと北の柔然に近いので、
さらに北の六鎮は首都防衛線。
その首都がはるか南に行ったら
六鎮はどうなっちゃうのって話。
その孝文帝が死んで子の宣武帝が即位。
宣武帝の時代は実質的に北魏の最盛期、
ここからはキッチリ下り坂に入ります。
宣武帝の死後は子の孝明帝が即位、
ただし幼児なので母親の胡太后が
代わって好き勝手を始めてしまう。
本来、北魏で皇太子の母親は死ぬ、
子貴母死という制度がありました。
野蛮この上ないと批判されがちな制度。
しかし、
その原則が漢化してないがしろにされ、
結果として胡太后が北魏を乱すワケね。
ウケる。
政治的には寵臣が激しく入れ替わり、
揃いも揃ってアタマパーという時代。
ここで北魏の国力は大幅に低下します。
ちなみに気候的にもよろしくなかった。
飢饉に地震が多くありましたし。
ゆるやかに死に向かうのです。
文化的には洛陽仏教文化の最盛期、
『洛陽伽藍記』に当時の様子など
かなり詳しく書かれておりますよ。
ちなみに、
北のガチンコ遊牧民族である柔然でも
国内で混乱が生じて可汗が不在になり
北魏はこの隙を突いて半属国化に成功、
道武帝拓跋珪から殺し合ってきた関係に
一旦終止符が打たれたのでありました。
よかったね。
▼六鎮の乱~爾朱兵団専権
523:北魏末六鎮の乱
528:孝明帝の死・河陰の変
529:陳慶之の北伐と敗北
530:
4月、六鎮の乱収束
9月、爾朱榮の死
531年:高歓が爾朱氏から離反
533:爾朱氏の滅亡
ここからが本番。
このあたりが一番オモシロいというか、
三国志の序盤チックな感じがあります。
六鎮の乱=黄巾の乱
爾朱栄=董卓
高歓=曹操
賀抜岳=孫策
宇文泰=孫権
みたいな。
ただし、董卓の部下に曹操と孫策がいる。
何それコワイ。
523年の洛陽遷都後に見捨てられてしまい、
愛の流刑地にまで身分が低くなった六鎮で
鎮民の怒りが爆発、六鎮の乱が発生します。
ここからが本格的な北魏末の大混乱。
ただし、
洛陽では胡太后がのほほんとしており、
緊張感はほとんどゼロでございました。
何しろ誰も正しく報告しませんからね。
報告したら?
そんなもん厳罰に処しちゃいますわよ。
そんな感じで六鎮の乱は、
西北辺境
→ 関中 → 河東
→ 東北辺境 → 幽州
といったあたりに飛び火します。
んで、
柔然に兵を出してもらってようやく
西北辺境の叛乱を平定したものの、
流民を食わせる米粟が全然足りない。
なもんで、
流民を山東地方に移す暴挙に出ます。
結果的に山東でも叛乱が発生します。
あたりまえですよねー。
これでほぼ河北全体が火の海ですよ。
唯一残ったのが山西、
その山西では爾朱氏が軍閥化して
ほぼ自立を果たしてしまいました。
そうこうするうちに5年目が過ぎ、
528年に孝明帝が死亡いたします。
胡太后による暗殺説が濃厚。
言うこと聞かなくなったので殺し、
幼児を次の皇帝に即位させました。
KY極まりありません。
当然のように朝臣はブチ切れ、
ついでに山西の爾朱氏の棟梁、
爾朱栄もブチ切れでございます。
兵を率いて洛陽に向かってしまう。
その部下は六鎮関係者山盛り。
高歓と後の東魏のみなさん、
賀抜岳・宇文泰と後の西魏のみなさん、
たいがいみんな爾朱兵団に所属。
チート過ぎる。
洛陽の北で別に皇帝を擁立すると、
胡太后&幼児皇帝with朝臣ズには
お祝いに来るよう命じます。
ノコノコ現れた胡太后&幼児皇帝は
黄河に沈められて行方不明となり、
朝臣ズは鉄騎に踏みつぶされました。
これがいわゆる河陰の変、
実質的な北魏滅亡ですね。
北魏の実権を握った爾朱栄ですが、
幸い軍事的にもお強かったために
隙を突いて攻め込んできた南朝梁の
陳慶之の軍もパッと退けてしまい、
見る間に六鎮の乱を平定します。
河北に爾朱政権の誕生は時間の問題、
というところまで詰めましたものの、
擁立した皇帝に暗殺されてしまいます。
ドラマティック。
爾朱榮の死後、
爾朱兵団は一族の爾朱兆が継承します。
この人はたんなる脳ミソ筋肉ですので、
やることなすことおおむね裏目に出て
懐朔鎮出身の高歓がキッチリ自立です。
爾朱榮の死の翌年には高歓が冀州で自立、
3年後には爾朱氏は滅亡してしまうのです。
そうなりますと、
高歓が爾朱榮の跡を継いで河北の覇者になる、
と思いきや、そういうワケにも参りませんで。
▼高歓v.s.宇文泰
534:賀抜岳の死と宇文泰の継承
535:東西魏の分裂
537年:
1月、潼関の役・竇泰の死(高歓v.s.宇文泰)
10月、沙苑の役(高歓v.s.宇文泰)
542:第一次玉壁の役(高歓v.s.王思政)
543:邙山の役(宇文泰v.s.高歓)
546:第二次玉壁の役(高歓v.s.韋孝寛)
547:高歓の死・侯景の離反
六鎮の乱平定に派遣された爾朱兵団のうち、
関中に派遣された兵団は爾朱天光がトップ、
その配下は武川鎮の出身者ばっかりでした。
その武川鎮出身者の棟梁が、
賀抜岳という人でございます。
賀抜允・賀抜勝という二人の兄があって
賀抜三兄弟と呼ばれる三人の末っ子です。
そんな賀抜岳でありますが、
高歓とはどうにも合わない。
爾朱氏の滅亡に際して関中の兵団を奪い、
高歓には従うような従わないような感じ。
高歓が擁立した皇帝も当然のように、
賀抜岳を利用して高歓の抑制を図る。
高歓にとって賀抜岳はマジクソ。
そこで、
賀抜岳の協力者である侯莫陳悦という人を買収、
策略により賀抜岳を暗殺させることに成功します。
賀抜岳のいない武川鎮軍閥はヒヨコの群れも同然、
侯景あたりを遣わせばとっとと降ってしまうだろ、
と高歓は思っておりました。
一方、
賀抜岳を失った武川鎮軍閥では
年若い宇文泰をトップに擁立し、
みなで支えていくことにします。
関中に遣わされた侯景は宇文泰に怒鳴られ、
スゴスゴと逃げ帰るよりなかったのですね。
この辺は小説アレンジクサイけど。
これより、
河北は懐朔鎮の高歓と武川鎮の宇文泰による
ほぼほぼ私闘の場となってしまうのですねえ。
そこから10年以上も戦いを繰り返すも
決着がつかないままで高歓は世を去り、
いよいよ次のフェーズに突入しますよ。
▼北齊・北周建国
548:潁川の役(高岳&慕容紹宗v.s.王思政)
549:高澄の死
550:北齊建国・文宣帝即位
553:西魏の尉遅迥による蜀の平定
555:西魏の于謹による江陵の平定
556:宇文泰の死
557:
1月、北周建国・孝閔帝即位
11月、孝閔帝廃位・明帝即位
高歓が死んでも宇文泰は健在です。
ここから宇文泰の死までが超重要、
というか両国の勝敗はここで決定。
高歓亡きあとの東魏は長子の高澄が継承、
宇宙大将軍こと侯景の離反もうまく凌ぎ、
いよいよ禅譲というか簒奪の準備ですね。
しかし、
その高澄が南朝梁からの亡命者に
暗殺されてしまうのでありました。
享年29歳、若い。
犯人は蘭京、なんかアレっぽい。
分かる?分かんない?まあいいや。
10代半ばから政治に関わってきた
高澄であればまだしも、その弟、
高洋あたりでは東魏体制の維持は
できませんでした。
やむなく皇帝に即位して
北齊が建国されますのよ。
アル中キ●ガイ皇帝=北齊文宣帝爆誕。
一方、
宇文泰は蜀、江陵といった土地を
南朝梁から奪うことに熱心でした。
高歓がいなくなったので自由にできる!
いわゆるナメプというヤツであります。
この時期の宇文泰の狙いは、
ひたすら国力の増強ですね。
とにかく、
北齊の山東・河南に負けない国力の蓄積、
そのために南朝から土地を奪ってしまう。
さらに、
西魏には蘇綽が徹底整備済みの
地方統治のノウハウもあります。
北齊文宣帝のキ●ガイぶりばかり目立つも、
歴史を考える上で一番大事なのはココです。
この江陵と蜀の奪取によって、
西魏は北齊に負けない国になる。
これがおそらく勝敗の分かれ目。
北齊はなんだかんだ北魏の後継者、
西魏は関中に開拓された新国家です。
この差は思いのほか大きいのであります。
そこまで準備した上で、
宇文泰は世を去ります。
で、
西魏のトップに据えるには、
宇文泰の子も貫目軽くてムリ。
宇文泰って武川鎮軍閥内では年若なんでね。
みんな同輩くらいにしか思ってないですよ。
そういうワケで、
宇文泰の甥である宇文護の画策によって
西魏からの禅譲が行われるのであります。
北周爆誕。
これで、
河北は北齊と北周の二国が並立する
次フェーズに入ることになるのです。
▼北齊・北周並立
559:北齊文宣帝の死・廃帝即位
560:
5月、北周明帝の死・武帝即位
8月、北齊廃帝の譲位・孝昭帝の即位
561:北齊孝昭帝の死・武成帝の即位
565:北齊武成帝の譲位・後主の即位
568:北齊武成帝の死
572:北周宇文護の死
死にまくり。
正直、ここはどうでもいいというか、
それぞれの国内事情ばっかりの時期。
両国間の動きは大したモノがないです。
悲惨な話はイッパイありますけどもね。
殺害、死体損壊、強姦、近親相姦、
北齊はお好きな方にはたまりません。
個人的には宇文護推し。
廃立・弑逆なんでもありあり。
北齊はひたすら親族間で殺し合い、
北周は宇文護が実権を握ってます。
宇文護という人は軍事的な才能はなく、
この人が北周トップの間は北齊は安全。
その宇文護は572年に武帝に誅殺され、
いよいよ北周武帝が軍事行動を開始、
そこまでの前振りに過ぎない時期です。
別の言い方をしますと、
この時期に北周は蜀を得た効果により
国力を飛躍的に増大させたワケです。
▼河北統一戦から隋建国
574:北周武帝による仏教・道教の弾圧
575:北周が北齊への侵攻を開始
576:北周が晋陽を陥れる
577:北周による北齊の平定
578:北周武帝の死・宣帝の即位
579:宣帝の譲位・静帝の即位
581:楊堅による隋の建国
これが北魏末の混乱の最終フェーズ。
隋建国までのカウントダウン、
その間わずかに7年なのです。
北周武帝は戦に備えて仏教・道教の弾圧を開始、
これは両者が保有する人と財を奪うためですね。
武帝が入念に準備していたと分かります。
その上で北齊への侵攻を開始、
わずか2年で北齊を併呑します。
武帝の構想では、
北の突厥の平定
南の陳の平定
という順で進めるはずでしたが、
北齊平定の翌年に世を去ります。
その後はアホの宣帝が即位してしまい、
北周の実権は楊堅の手に落ちるのです。
その最後の決戦が韋孝寛v.s.尉遅迥ね。
武帝の死から楊堅の即位まで3年、
あっという間の出来事であります。
この最後のアッサリ感もまた、
なんとも無情でございますよ。
三国志よりポカーン度は高い。
ここから先は『隋唐演義』あたりの範疇、
翻訳も出ているのでそちらを参照下さい。
オモシロいですよ。
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