崔暹④憑き物落ちて日も落ちて。

非人間的弾劾マシーンから高澄こうちょうの腹心に

ジョブチェンジした崔暹さいせんでありましたが、

高澄の死去により風向きが変わりました。


高歓こうかんと高澄が仕込んだ死亡コース、

崔暹は天寿を全うできますかねえ?




顯祖初嗣霸業、

司馬子如等挾舊怨、

言暹罪重、謂宜罰之。

高隆之亦言宜寬政網、

去苛察法官、黜崔暹 、

則得遠近人意。

顯祖從之。


顯祖の初めて霸業を嗣ぐに、

司馬子如等は舊怨を挾み、

暹の罪は重しと言い、

宜しく之を罰するべしと謂う。

高隆之も亦た宜しく政網を寬くすべく、

苛察の法官を去り、崔暹を黜ければ 、

則ち遠近の人意を得んと言う。

顯祖は之に從う。



弾劾ツール時代の反動が

さっそく表れて参ります。


見せしめに弾劾された司馬子如しばしじょ

深く怨んで忘れていませんでした。


高澄の死後、跡を継いだ弟の高洋こうよう

「崔暹の罪は重く、罰さねばなりません」

と唆しておったワケであります。


さらに、

高洋の腹心を自任する高隆之こうりゅうし

渤海ぼっかい高氏こうしという既得権益層の人。


高澄の綱紀粛清を行きすぎとし、

 御史の取り締まりを緩める

 崔暹を政治の中枢から排除する

これで人心を得られると言います。


これは要するに高洋の力不足です。


高澄は綱紀粛正しつつ既得権益層を

使うことができていたワケですね。

それに対し、

弟の高洋は妥協しないと政権運営に

支障が出てしまうということですよ。


当然、

高洋が司馬子如の私怨ではなく、

高徳政の見解に同意したことで、

崔暹は退けられたのであります。


つまり、

追放されたワケではないけど

重用もされない、という立場。


あっと言う間の転落であります。




及踐祚、譖毀之者猶不息。

帝乃令都督陳山提等搜暹家、

甚貧匱、

唯得高祖、世宗與暹書千餘紙、

多論軍國大事。

帝嗟賞之。


踐祚に及び、之を譖毀する者猶お息まず。

帝は乃ち都督の陳山提等をして暹の家を搜さしむに

甚だ貧匱なり。

唯だ高祖、世宗の暹に與うる書千餘紙を得て、

多くは軍國の大事を論ず。

帝は之を嗟賞す。



高洋が皇帝に即位しても

崔暹への批難はやまず、

高洋は都督ととく陳山提ちんさんていに命じ、

崔暹の家を捜索させました。


家は甚だ貧しく、

高歓、高澄が軍国の大事を論じた

書状が千枚ほど出てきたようです。


崔暹、超清廉じゃん。


汚職蓄財は名門漢人以外が行い、

漢人名門には清廉な人々が多い。


なぜか?

まず、漢人名門は安定収入アリ。

これは過去に兼併した土地での

農業収益だろうと思われるです。


『魏書』では蓄財した人について

「産業を営む」という表現を多用、

これはおそらくお商売なんですよ。


大土地所有による農業は含まない。


博陵はくりょう崔氏さいし崔寔さいしょくは『四民月令しみんげつれい』という

豪族の家の農業に関する著作があり、

それを見る限り自給自足レベルです。


自分ちの土地で自給自足できそう。


なもんで、

金銀財宝はあんまり必要ないのです。

そうなると、与信が極めて高いワケ。


金を握っている大商人連中として、

お金を貸しても損がない人々です。


要するに、これまでの蓄積でもって

何とでもなってしまうワケなのよね。


一方、

寒門から立身した人たちは違います。

この機に蓄財しないと将来が不安ね。


だから、

汚職蓄財GOGOというワケでした。

そういう構造的な問題もあったのよ。


お話を戻して。

後のアル中皇帝も清廉では罰せません。

というか、

これ以降の高洋と崔暹の関係を観るに、

高洋には崔暹にちょっと遠慮している。


兄の高澄の腹心ということもあって、

何らかの苦手意識があったのかもね。


少なくとも

他の者に行ったような暴行は

崔暹に対して確認できません。


殴られなければイイ、

という話でもないけど。




仍不免眾口、乃流暹於馬城、

晝則負土供役、夜則置地牢。

歲餘、奴告暹謀反、

鎖赴晉陽、無實、釋而勞之。

尋遷太常卿。

帝謂羣臣曰、

「崔太常清正、天下無雙、卿等不及」。


仍お眾口を免ぜず、

乃ち暹を馬城に流す。

晝は則ち土を負いて供役し、

夜は則ち地牢に置く。

歲餘にして奴は暹の謀反を告げ、

鎖して晉陽に赴くも實なし。

釋きて之を勞う。

尋いで太常卿に遷る。

帝は羣臣に謂いて曰わく、

「崔太常の清正は天下無雙、

 卿等は及ばざるなり」と。



とはいえ、

高歓・高澄在世中に崔暹が採った

綱紀粛清の被害者は相当数に上り、

批難の声は鳴りやみませんでした。


ついに、

高洋は何らかの罪をデッチ上げて

崔暹を馬城ばじょうという地に配流します。


時期はたぶん即位直後でしょう。


馬城は『魏書』地形志に涼州りょうしゅう武興郡ぶこうぐん

同名がありますがこれは考えにくい。


西魏の領地ですからね。


他の史料をチラチラ見る限り、

代に近い定襄ていじょうにも馬城があり、

こちらが本命かと思われます。


ちなみに、

馬城は高洋のお気に入りの配流先らしく、

後年に北齊を乱す和士開わしかいも送られてます。


馬城では、

昼は土を運ぶ力役に従事させられ、

夜が地下牢に繋がれる毎日でした。


一年ほどが過ぎた頃、

奴隷の一人が崔暹の謀反を訴えます。


これは馬城で苦役に従事していた

奴隷連中の一人だったのでしょう。


崔暹も奴隷と一緒に労働していた。


訴えにより

崔暹は鎖につながれて晋陽しんように護送され、

取り調べを受けますが無実とされます。


これにより、

崔暹は労役を解かれて

自由の身となりました。


災い転じて福となった。


つまるところ、

崔暹への批難が徐々に少なくなって

高洋としても配流の必要性を感じず、

解き放たれたのが実際なのでしょう。


馬城での苦役から解放された崔暹、

しばらくすると太常卿たいじょうけいに任じられ、

政界に復帰することとなりました。


文宣帝ぶんせんてい=高洋

「崔太常の清廉潔白は天下無双、

 オマエたちは及びもできぬ」


これは陳山提の家宅捜索で明らか、

それを百官に告げることによって

崔暹の立場を造ったのでしょうか。


高洋としても、

崔暹を使いたくなったのかなあ。




初世宗欲以妹嫁暹子、

而會世宗崩、遂寢。

至是、羣臣讌於宣光殿、

貴戚之子多在焉。

顯祖歷與之語、

於坐上親作書與暹曰、

「賢子達拏、甚有才學。

亡兄女樂安主、魏帝外甥、

內外敬待、勝朕諸妹、

思成大兄宿志」。

乃以主降達拏。


初め、

世宗は妹を以て暹の子に嫁がせんと欲し、

而して會々世宗の崩ずるに、遂に寢む。

是に至り、羣臣は宣光殿に讌し、

貴戚の子は多くここに在り。

顯祖は歷して之と語り、

坐上に親ら書を作して暹に與えて曰わく、

「賢子達拏、甚だ才學あり。

 亡兄の女の樂安主は魏帝の外甥、

 內外の敬待は朕の諸妹に勝る。

 大兄の宿志を成さんことを思う」と。

乃ち主を以て達拏に降せり。



かつて、

高澄は崔暹の子に妹を嫁がせようと考え、

そのことを高洋たちにも話していました。

しかし、

そのことは高澄の死で中断しています。


崔暹が太常卿となった頃、

宣光殿せんこうでんで大きな宴会がありました。


宣光殿はもともと洛陽にあったので、

おそらく鄴に移築されたのでしょう。


この宴会は貴人の子弟も多く参加し、

高洋はそれらと親しく会話しました。


後年の高洋からは考えられない姿。


一通り子弟と話して席に戻ると、

一筆認めて崔暹に与えます。

崔達拏さいたつだには非常な才学がある。

 亡兄の娘の楽安公主がくあんこうしゅは魏帝の外姪、

 尊貴は朕の妹たちにも勝っている。

 大兄の宿志をこれで果たせよう」


高澄は妹を嫁がせようとしましたが、

高洋は高澄の娘を嫁がせることにし、

そのことをここに約したワケですね。


高洋と高澄の仲が良かったワケなく、

高澄の遺志を尊重する必要性は薄い。


この縁組の動機を推測するのならば、

高洋は崔暹を高く買ったのでしょう。




天保末、為右僕射。

帝謂左右曰、

「 崔暹諫我飲酒過多、

 然我飲何所妨?」。

常山王私謂暹曰、

「至尊或多醉、太后尚不能致言、

 吾兄弟杜口、僕射獨能犯顏、

 內外深相感愧」。


天保の末、右僕射と為る。

帝は左右に謂いて曰わく、

「崔暹は我の酒を飲むこと過多なるを諫むるも、

 然して我れの飲を何の妨ぐるところならんや」と。

常山王は私かに暹に謂いて曰わく、

「至尊は或いは多く醉い、

 太后も尚お能く言を致さず。

 吾が兄弟は口を杜すも、

 僕射は獨り能く顏を犯す。

 內外に深く相い感愧せり」と。



それが証拠に、

天保てんほう八年(557)に崔暹は

尚書右僕射しょうしょゆうぼくやに任じられます。


高澄の死から十年ほどを経て、

ようやく再び実務官僚として

トップに返り咲いたワケです。


ただし、

この頃にはすでに高洋は別人、

酒に溺れたアル中皇帝でした。


高澄に仕えていた頃から崔暹は

直言極諫の人でありましたけど、

高洋に仕えるにもそれは曲げず、

顔を犯して飲酒過多を諫めます。


高洋

「崔暹はワシのことを飲みすぎや

 っちゅーけどやなあ、

 そんなんでワシが酒を飲むのを

 止められるかっちゅーねん」


あまり効き目はなかった模様です。


高洋の弟、常山王じょうざんおう高演こうえんも同じく、

幾度も高洋の飲酒を諫めましたが、

崔暹には密かにこう言っています。

「陛下はつねに酔っておられて、

 皇太后でさえお諫めできない。

 我ら兄弟も口を閉ざしたのに、

 僕射のみ怒りを恐れず諫める。

 我らは慚愧の念に堪えぬ」


後に孝昭帝こうしょうていとなる高演ですが、

飲酒を諫めて高洋に折檻され、

かなりイタイ目を見ています。


一方、

崔暹についてそういう話がない。

やはり、

高洋としても遠慮したのかなあ。


高演と崔暹はけっこういいコンビで

北齊を切り盛りできそうなイメージ。

しかし、

それは実現することなく終わります。




十年、暹以疾卒。

帝撫靈而哭。贈開府。


十年、暹は疾を以て卒せり。

帝は靈を撫して哭き、開府を贈る。



天保十年(559)、

高洋に先立って崔暹は病に罹り、

世を去ってしまうのであります。


生年を500年と仮定しましたが、

それならば、59歳になりますね。

享年はその前後くらいでしょう。


天保十年は高洋の没年、

もっともアル中の激しい時期。


それでも、

高洋は崔暹の霊柩を撫でて哭し、

開府の位を追贈しておりますね。


この二人の関係性もちょっと

想像できないところがあります。


末年に両者に信頼関係はあった、

ということなんでしょうかねえ。


高歓が綱紀粛清のツールとして

便利使いした崔暹でありますが、

高澄・高洋から信頼を得ていた。


そういうことになってしまうと、

高歓の人を観る目は宜しくない。


崔暹にはもっと別の使い方があった、

そういう風に考えざるを得ないです。


まあ、

これも後知恵のお話に過ぎませんね。


最後に崔達拏と楽安公主の後日譚を。




達拏溫良清謹、有識學。

少歷職為司農卿。

入周、謀反伏誅。

天保時、顯祖嘗問樂安公主、

「達拏於汝何似?」。

答曰、

「甚相敬重、

 唯阿家憎兒」。

顯祖召達拏母入內、

殺之、投屍漳水。

齊滅、達拏殺主以復讐。


達拏は溫良清謹、識學あり。

少くして職を歷して司農卿と為る。

周に入り、謀反して誅に伏す。

天保の時、

顯祖は嘗て樂安公主に問うらく、

「達拏は汝に於いて何に似んや」と。

答えて曰わく、

「甚だ相い敬重す。

 唯だ阿家は兒を憎めり」と。

顯祖は達拏の母を召して內に入らしめ、

之を殺して屍を漳水に投ず。

齊の滅びるに、

達拏は主を殺して以て復讐せり。



崔達拏は温和で博学の人、

崔暹の溺愛の甲斐もあって

若くして官途に就きました。


司農卿しのうけいがもっとも上の職位かな。


北齊が北周に併呑されると北周に仕え、

尉遅迥うつちかいの叛乱に与して落命しています。


それより先、

高洋が帝位にあった天保年間のお話。


楽安公主が里帰りすると、

高洋が新婚生活について問い、

「達拏とは互いに敬意を持っています。

 ただ、

 義母上は私を好きじゃないみたい」

楽安公主の言葉を聞くと、

高洋は崔達拏の母、つまり、崔暹の妻を

宮城に呼び出して殺してしまったのです。

しかも、

屍は漳水しょうすいに投げ込んでしまう野蛮っぷり。


アル中、、、


実際のところ、

崔暹、崔達拏ともに堪えがたきを堪え、

何食わぬ顔で北齊に仕えていたワケね。


コワイ。


それが証拠に、

承光しょうこう元年(577)の北齊の滅亡後、

崔達拏は妻の楽安公主を殺害して

母親の仇を討ったのでありました。

おそらく、

楽安公主との結婚生活は20年越え、

それでも、母親の仇として殺した。


当時における結婚について、

色々と考えさせられますね。


何と申しますか、

「東魏の文官、誰も幸せになってねえな」


天寿を全うした崔暹はまだマシというべき?


次回は

東魏文官が不幸になる構造を観て、

一段の終わりとしたいと思います。

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