崔暹③長所と短所。

ここからはちょっとだけ

崔暹さいせんの小ネタ集ですよ。




高祖崩、未發喪、

世宗以暹為度支尚書、兼僕射、

委以心腹之寄。

暹憂國如家、

以天下為己任。

世宗車服過度、誅戮變常、

言談進止、或有虧失、

暹每厲色極言、世宗亦為之止。


高祖の崩ずるに、未だ喪を發さず、

世宗は暹を以て度支尚書と為して

僕射を兼ねしめ、

委ぬるに心腹の寄を以てす。

暹は國を憂うること家の如く、

天下を以て己の任と為す。

世宗の車服の度を過ぎ、

誅戮の常に變じ、

言談進止、或いは虧失するあらば、

暹は每に色を厲しくして極言し、

世宗も亦た之が為に止む。



高歓こうかんが世を去ると高澄こうちょうが継ぎます。


崔暹は度支尚書たくししょうしょ兼尚書僕射けんしょうしょぼくやという

実務文官の最高位に任じられました。


崔暹も国事を我がことのように憂え、

天下は我が任であると自負します。


高澄はけっこう気分屋というか、

喜怒の激しい性格でありまして

さらに行いもけっこう荒っぽい。


鮮卑の悪いところムキ出しな感じ、

ある意味、高歓よりももっとナマ。


そういうワケで当然のように

色々と踏み外してしまいます。


それを厳しく諫めるのも崔暹の仕事で、

高澄も崔暹の諫めには素直に従います。




有囚數百、世宗盡欲誅之、

每催文帳。

暹故緩之、不以時進、

世宗意釋、竟以獲免。


囚數百あらば世宗は盡く之を誅さんと欲し、

每に文帳を催す。

暹は故に之を緩くし、時を以て進めず、

世宗の意の釋ければ、竟に以て免るを獲る。



その一例。


罪人が数百も溜まって参りますと、

かなりご機嫌が悪くなってしまう。

そうなりますと、

高澄は罪状の書類だけ取り寄せて、

さっさと判決を決めてしまいます。


高澄「全員死刑」


アタマ弱いんか。


崔暹はメチャクチャしないように

取り寄せる書類を厳選しており、

おそらく重罪の者だけを取り寄せ、

微罪の者は書類を渡さずにいます。


それで、

高澄の機嫌が直ってから書類を渡し、

「全員死刑」からは逃れさせてやる。


言ってみれば、

人間的にアレな高澄のお目付け役。

しかも、

高澄自身もそのことに自覚的です。


このあたり、

実は高歓と高澄の間にはズレがある。


たぶん、

高歓にとって崔暹はあくまでツール、

うまく行けばよし、ダメなら捨てる。


実行には危険が伴う綱紀粛清のため、

使い捨てにできる便利なツールです。


一方、

高澄はぎょう赴任から崔暹の輔佐を受け、

自らの腹心の一人と見るようになる。


だからこそ、

度支尚書たくししょうしょ兼尚書僕射けんしょうしょぼくやという実務の

トップにつけていると思うのです。


もはや便利なツールというだけではない。


二人のギャップは、

東魏の綱紀粛清に不安がある高歓、

次代の体制を構想する高澄と崔暹、

そういう立ち位置の違いによって

生じたものと理解するのがよさげ。


崔暹は死亡ルートから別ルートに

高澄によって移されたワケですね。


崔暹は思ったよりデキる子、

そういうコトなのですよね。




自出身從官、常日晏乃歸。

侵曉則與兄弟問母之起居、

暮則嘗食視寢。

然後至外齋對親賓。

一生不問家事。


身を出して官に從うより、

常に日の晏れて乃ち歸す。

侵曉には則ち兄弟と母の起居を問い、

暮れには則ち食を嘗めて寢ぬを視る。

然る後に外齋に至りて親賓に對す。

一生家事を問わず。



崔暹のちょっとイイところ。


仕官するより長時間労働上等、

帰りは遅いのが常の社畜風味。

それでも、

夜明け頃には兄弟揃って母親の

ご機嫌を伺いを欠かしません。


当時の河北の人々は一族同居、

100人同居もあるレベルです。

それに対し、

江南は子が独立すると家を出て

親子同居も少なかったようです。


当然、

漢人名門の博陵崔氏は一族同居、

崔暹も母親兄弟と同居なのです。


休みで家にいれば、

夕方に母親の食事の味見をし、

寝ついたのを確かめてからも

自分は客間で賓客を応対する。


そんな感じですから、

家の資産など問うたコトがない。


当時の官僚に限らず人々の最優先は、

一族にどんなメリットがあるかです。


利己的とかそういうハナシではなく、

一族の他に自分を守るモノがないの。


そういう点では、

江南のような核家族的な在り方は、

個人にとってはリスクが高いです。


有事の際に一族の力を借りるにも、

分散しているので力が弱いのです。

まあ、

江南では分家しても近隣に集住、

同姓の集落のような形をとって

一族で自衛していたでしょうね。


河北は大きな敷地に同居して、

夫婦ごとに房を分けていた模様。


このあたりは、

五胡が大暴れして治安悪い河北と

そうじゃない江南の違いですかね。


話を崔暹に戻して。


家にあっても崔暹は仕事一筋、

一族より国家を重視している

かなり変わった人でしたよ、と。




魏、梁通和、

要貴皆遣人隨聘使交易、

暹惟寄求佛經。

梁武帝聞之、為繕寫、

以幡花贊唄送至館焉。

然而好大言、調戲無節。

密令沙門明藏著佛性論而署己名、

傳諸江表。

子達拏年十三、

暹命儒者權會教其說周易兩字、

乃集朝貴名流、

令達拏昇高座開講。

趙郡眭仲讓陽屈服之、

暹喜、擢為司徒中郎。

鄴下為之語曰、

「講義兩行得中郎」。

此皆暹之短也。


魏、梁の通和するに、

要貴は皆な人を遣りて聘使に隨いて交易す。

暹は惟だ寄りて佛經を求む。

梁の武帝は之を聞き、為に繕寫し、

幡花贊唄を以て送りて館に至らしむ。

然して大言を好み、調戲すること節なし。

密かに沙門の明藏をして

佛性論を著して己の名を署せしめ、

諸を江表に傳う。

子の達拏は年十三、

暹は儒者の權會に命じて

其の周易の兩字を說くを教えしめ、

乃ち朝貴名流を集め、

達拏をして高座に昇りて開講せしむ。

趙郡の眭仲讓は陽りて之に屈服し、

暹は喜びて擢きて司徒中郎と為す。

鄴下は之が為に語りて曰わく、

「講義兩行して中郎を得る」と。

此れ皆な暹の短なり。



その一方、

こちらは崔暹の短所の詰め合わせ。


東魏は一時的に南梁と仲直り、

両国の貴人たちは人を遣わし、

こぞって交易で利を挙げます。


時期としては、

天平てんへい四年(537)頃かと思われます。

この年、

散騎常侍さんきじょうじ李諧りかいが梁に赴いており、

それから東魏と梁の間では盛んに

使者が往来しているのですよねえ。


一方、

崔暹は江南にある仏教経典に

興味津々だったようでして、

人をやって取り寄せました。


仏教大好き梁武帝りょうぶてい蕭衍しょうえんも噂を耳にし、

仏典を筆写製本させると「幡花贊唄はんかさんばい」、

仏歌を奏でつつ使者のいる賓館にまで

送り届けさせたのでありました。


崔暹も仏教心酔者だったのね。


ただ、その心酔の仕方はちょっとアレ。

僧侶の明藏みょうぞうをゴーストライターにして

仏性論ぶっしょうろん』という書物を著させると、

自分の名を署名して江南に送ってます。


名声にはキタナイ人だったみたいよね。


さらに、悪い意味で子煩悩。

子の崔達拏さいたつだが13歳の頃、儒学者の權會けんかい

『周易』から二か所を教え込ませると、

貴人を集めて崔達拏に講義をさせます。


杜弼とひつの名理の学と同じく

『周易』の講義も知的娯楽の一種、

そういう理解でよいかと思います。


その場で、

趙郡ちょうぐん眭仲讓すいちゅうじょうが崔達拏に議論を挑み、

わざと負けてやったワケであります。


娯楽の場ですから居並ぶ人たちは

別に議論の正しさは気にしません。

13歳の崔達拏に大人の眭仲讓が

やり込められるのを喜んだだけ。


それと一緒に崔暹も大喜びし、

眭仲讓を司徒府しとふ中郎ちゅうろうに抜擢。


公私混同も甚だしいですねえ。


鄴の人々も嗤って言いました。

「講義の議論で中郎になった」


他にもちょっと挙げてみましょうかね。

『北齊書』崔㥄伝

 㥄は每に籍地を以て自ら矜り、

 盧元明に謂いて曰わく、

「天下の盛門は唯だ我と爾のみ、

 博崔、趙李は何事なる者ならんや」と。

 崔暹は聞きて之を銜む。

かなり生々しい清河せいか崔氏さいし崔㥄さいりょうによる

博陵はくりょう崔氏さいし趙郡ちょうぐん李氏りしへのDisです。


盧元明ろげんめい范陽はんよう盧氏ろしという名門出身。

この盧元明もたいがいダメな人でして。

『北史』盧元明伝

 元明は凡そ三たび娶り、

 次妻鄭氏は元明の兄子の士啟と淫汙するも

 元明は離絕するあたわず。

 又た好みて世地を以て自ら矜り、

 時論は此を以て之を貶せり。

妻が兄子と浮気しても離婚に踏み切れない。

鄭氏ていしはたぶん滎陽けいよう鄭氏ていし出身なんだろうなあ。


しかし、滎陽鄭氏。

北魏の鄭儼ていげんとか北周の鄭譯ていえきとかほとんどが

不思議なくらいクソい感じなんですけどね。


何なんだろう。


ちなみに、

崔暹が御史中尉ぎょしちゅういになった時に登用された

崔瞻さいせんは崔㥄の子です。

『北齊書』崔瞻伝

 崔暹の中尉と為るに、

 啟して御史に除さる。

 才望を以て收めらるも

 其の好むにあらざるなり。

 高祖の入朝するに晉陽に還る。

そもそも御史という職が超名門漢人に

蔑視されていたという感じもあります。


崔瞻は御史の任が気に入らず、

ぎょうに来た高歓と一緒に晋陽しんよう

還ってしまってますからねえ。


南朝でも明らかでありますが、

超名門になると実務を嫌うの。


彼らは名声だけで生きているので、

実務で失敗するよりしないがマシ。


最後は『北史』文襄敬皇后元氏伝、

つまり、

高澄が大好きな琅邪公主ろうやこうしゅの伝ね。

 文襄は崔季舒に謂いて曰わく、

「爾は由來、我が為に色を求むるも、

 我が自ら得る一絕異なる者に如かず。

 崔暹は必ず當に直諫を造すべし。

 我は亦た以て之を待つあり」と。

 暹の事を諮るに及び、

 文襄は復た假すに顏色を以てせず。

 居ること三日、暹は刺を懷にし、

 之を前に墜とす。

 文襄は問うらく、

「何ぞ此を用て為さんや」と。

 暹は悚然として曰わく、

「未だ公主に通ずるを得ず」と。

 文襄は大いに悅び、

 暹の臂を把りて入りてこれに見えしむ。

 季舒は人に語りて曰わく、

「崔暹は常に吾が佞を忿り、

 大將軍の前にありて

 每に叔父は殺に合すと言えり。

 其の自ら體佞を作すに及び、

 乃ち體は吾に過ぐ」と。


これは高澄が琅邪公主のために

東魏帝より公主号を得た直後のお話。

高澄

「オマエが我のために美人を探しても、

 オレが見つけた美女には及ばんなあ。

 崔暹が諫言しやがるだろうけど、

 その備えもちゃんとあるしな」

それを聞かされた崔季舒さいきじょは高見の見物。

崔暹が高澄と打ち合わせをしていると、

いつもは温顔の高澄が仏頂面で応じる。

それが三日もつづいた後、

崔暹は高澄の前で懐から名刺を落とす。

高澄

「その名刺で何をするつもりだ?」

崔暹

「琅邪公主にお目通りいたしたく、、、」

高澄はそれを聞くと大喜び、

崔暹の肘をとって琅邪公主の許に向かう。

崔季舒

「崔暹はいつも吾を阿ると怒り、

 大将軍(高澄)の前では常に

 『叔父は死刑に値する』とか言う。

 しかし、

 崔暹の媚び諂うのはワシ以上だよ」


まあ、高澄は直属の上司でありますし、

フツーにありがちなことでもあります。


そういうワケで、

崔暹は聖人君子とはほど遠く、

けっこうフツーの人なのです。


それだけに、

非人間的弾劾マシーンとして

御史中尉を務めるのは厳しい、

というコトもあったかもです。

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