陳元康③小ネタ集。

ここからは

陳元康ちんげんこう小ネタ集をお楽しみ下さい。




魏尚書僕射范陽盧道虔女

為右衞將軍郭瓊子婦。

瓊以死罪沒官、

高祖啟以賜元康為妻。

元康乃棄故婦李氏、

識者非之。


魏の尚書僕射、范陽の盧道虔の女は

右衞將軍の郭瓊の子の婦と為る。

瓊の死罪を以て官に沒し、

高祖は啟して以て元康に賜いて妻と為す。

元康は乃ち故の婦の李氏を棄て、

識者は之を非とせり。



右衞將軍ゆうえいしょうぐん郭瓊かくけいという人は天平の初めに

ちょろっと東魏の将として記事あります。


それ以降は記事がないのですけれども、

いつも間にやら誅殺されていたらしい。


范陽はんよう盧道虔ろどうけんの娘がその子に嫁いでおり、

巻き添えに遭って官奴婢にされてしまう。


范陽の盧氏というと漢人名門ですがな。


それで、高歓はその身柄を下げ渡され、

これを陳元康に妻として与えたのです。


これくらいしないと、陳元康の家柄では

漢人名門の妻は迎えられないというお話。


ついでに、

アゲアゲになった陳元康はそれまでの妻、

李氏を離縁してしまい、DISられます。


人として軽薄だったんでしょうね。




元康便辟善事人、

希顏候意。

多有進舉、

而不能平心處物、

溺於財利、受納金帛、

不可勝紀。

放責交易、徧於州郡、

為清論所譏。


元康は便ち辟に善く人に事え、

顏を希いて意を候う。

多く進め舉ぐるところあるも、

而して平心に物を處するあたわず。

財利に溺れ、金帛を受納すること、

勝げ紀すべからず。

交易を放責して州郡に徧く、

清論の譏るところと為る。



さて、

糟糠の妻を捨てた陳元康ですが、

果たしてお金周りもまあアレで。


人のご機嫌伺いが得意な

錢ゲバだったようですね。


職務でもお金でいろいろと動く、

さらに、交易する際のテラ錢を

カツアゲしたりなんかしています。


「清論の譏るところと為る」

東魏の清論ってどこにあるの?




從高祖破周文帝於邙山、

大會諸將、議進退之策。

咸以為

「野無青草、人馬疲瘦。

 不可遠追」

元康曰、

「兩雄交戰、歲月已久。

今得大捷、便是天授。

時不可失、必須乘勝追之」。

高祖曰、

「若遇伏兵、孤何以濟?」。

元康曰、

「王前沙苑還軍、彼尚無伏。

今奔敗若此、何能遠謀。

若捨而不追、必成後患」。

高祖竟不從。

以功封安平縣子、邑三百戶。

尋除平南將軍、通直常侍、轉大行臺郎中、徙右丞。


高祖の周文帝を邙山に破るに從い、

大いに諸將を會して進退の策を議す。

咸な以為えらく、

「野に青草なく、人馬は疲瘦す。

 遠く追うべからず」と。

元康は曰わく、

「兩雄の交戰すること歲月已に久し。

今、大捷を得るは、便ち是れ天授なり。

時は失うべからず、必ず須く勝に乘じて之を追うべし」と。

高祖は曰わく、

「若し伏兵に遇わば、孤は何ぞ以て濟わん」と。

元康は曰わく、

「王は前に沙苑に軍を還すに、彼は尚お伏なし。

 今、奔敗すること此の若く、何ぞ能く遠謀せん。

 若し捨てて追わざれば、必ず後患を成さん」と。

高祖は竟に從わず。

功を以て安平縣子、邑三百戶に封じらる。

尋いで平南將軍、通直常侍に除せられ、

大行臺郎中に轉じ、右丞に徙る。



これはちょっとイイお話。

舞台は武定ぶてい元年(543)の邙山ぼうざんえき


この戦で東魏軍は西魏軍に大打撃を与えます。


西魏の督將以下四百餘人を捕らえ、

捕虜と戦死者が六万人にも上った、

それくらい大ダメージであります。


西魏軍では于謹うきん獨孤信どくこしん殿しんがりを務め、

何とか撤収に成功した感じでしたね。


勝利を収めた東魏の軍勢は将帥を集め、

西魏の軍勢を追撃するか議論しました。

「野には馬に食わせる青草もないし、

 人馬ともに疲れ果てておりますし、

 深追いはできません」

将帥連中はこのように申しております。


しかし、

春三月なのに野に青草がないのかな。

ちょっと不思議な感じがしますけど。


それに真っ向反対したのが陳元康。

「宇文泰との戦は連年すでに久しく、

 今回の大勝は天の授けるところです。

 時を失ってはなりません。

 すぐさま追撃しましょう」

高歓

「伏兵がいればどのように救うべきか」

陳元康

「宇文泰は沙苑さえんで勝っても伏兵を置けなかった。

 敗戦の後に伏兵を置く余裕なんかないって。

 このまま逃がしたら絶っっ対後悔するって」


そう言われても強く命令できない高歓、

追撃に賛成の者は西に、

反対の者は東に並ぶよう諸将に命じ、

西に並んだのは劉豊りゅうほう潘楽はんがくの二人だけ。


そういうワケで

追撃は取り止めとなりました。




及高祖疾篤、

謂世宗曰、

「邙山之戰、不用元康之言、

 方貽汝患、以此為恨。

 死不瞑目」。

高祖崩、祕不發喪、

唯元康知之。


高祖の疾の篤きに及び、

世宗に謂いて曰わく、

「邙山の戰、元康の言を用いず、

 方に汝に患を貽し、此を以て恨みと為す。

 死して瞑目せざるなり」と。

高祖の崩ずるに、祕して喪を發さず、

唯だ元康のみ之を知る。



それより四年が過ぎた武定五年(547)、

高歓は病の床について高澄に言いました。

「邙山の戰の後に陳元康の進言を容れず、

 お前に患いの種を残したのが心残りだ。

 これでは死んでも瞑目できぬ」

後悔先に立たずというワケでございますね。


この年の正月に高歓は世を去りますが、

喪が発せられたのは六月のことでした。


それまで、高歓の死は陳元康の他には

知らされなかったといいますけどもね、

その月のうちに宇宙大将軍うちゅうだいしょうぐんこと侯景こうけい

離反しておりますので、バレバレです。

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