陳元康②三崔二張は一康に如かず。
信任された方向がちょっとオカシイ感じ。
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高祖嘗怒世宗、於內親加毆蹋、
極口罵之、出以告元康。
元康諫曰、
「王教訓世子、自有禮法。
儀刑式瞻、豈宜至是」。
言辭懇懇、至于流涕。
高祖從此為之懲忿。
時或恚撻、輒曰、
「勿使元康知之」。
其敬憚如此。
高祖の嘗て世宗を怒るに、內に親ら毆蹋を加え、
口を極めて之を罵り、出でて以て元康に告ぐ。
元康は諫めて曰わく、
「王の世子を教訓するに自ら禮法あり。
儀刑式瞻、豈に宜しく是に至らんや」と。
言辭は懇懇として流涕するに至る。
高祖は此より之が為に忿を懲う。
時に或いは恚撻せば、輒ち曰わく、
「元康をして之を知らしむなかれ」と。
其の敬憚すること此の如し。
▲
高歓の教育方針は
「バイオレンスで言うことを聞かせる」
だったようです。
高歓が長子の
殴る蹴る&罵声を用いた、と。
ただの毒親やんけ。
で、
終わって陳元康にそう言うと、
「王が世継ぎを訓導するには決まりがあり、殴る蹴るなどは許されておりません」
と諫めてハラハラ涙を流す。
高歓はそれよりなるべく殴る蹴るは控え、
怒りに任せてやっちまった際には周りに
「陳元康には知られぬようにせよ」
と口止めしたそうであります。
信任の方向がちょっとおかしくない?
高澄は
天平二年(535)頃のお話なのでしょう。
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高仲密之叛、
高祖知其由崔暹故也、
將殺暹。
世宗匿而為之諫請。
高祖曰、
「我為舍其命。
須與苦手」。
世宗乃出暹而謂元康曰、
「卿若使崔得杖,
無相見也」。
暹在廷、解衣將受罰。
元康趨入、歷階而昇、且言曰、
「王方以天下付大將軍、
有一崔暹不能容忍耶?」。
高祖從而宥焉。
高仲密の叛するに、
高祖は其の崔暹に由るが故を知るや、
將に暹を殺さんとす。
世宗は匿いて之が為に諫請す。
高祖は曰わく、
「我は為に其の命を舍つ。
須く苦手を與うべし」と。
世宗は乃ち暹を出して元康に謂いて曰わく、
「卿の若し崔をして杖を得しむれば、
相い見ゆることなきなり」と。
暹は廷に在り、衣を解きて將に罰を受けんとす。
元康は趨き入り、階を歷して昇り、
且つ言いて曰わく、
「王は方に天下を以て大將軍に付す。
一崔暹の忍ぶを容るるあたわざるあらんや?」。
高祖は從いてこれを宥す。
▲
武定元年(543)正月、
投降するのでありますけども。
高仲密の姓名は
兄は
そこからギスギス関係となって
不安から叛乱したとされますが、
より生々しい記述もありますね。
『北史』高愼伝
慎の前妻は吏部郎中の崔暹の妹、
慎の棄つるところと為る。
暹は時に文襄の委任するところと為り、
乃ち暹が為に其の妹を高嫁せしめ、
禮の夕に親ら之に臨む。
慎の後妻は趙郡の李徽伯の女なり。
豔にして且つ慧く、兼ねて書記を善くし、
騎乘に工なり。
慎の滄州と為るに、甚だ沙門の顯公を重んず。
夜は常に語りて久しく寢ねず。
李氏は之に患い、之を慎に構えて遂に拉殺を被る。
文襄は其の美を聞き、之に挑むも從わず。
衣は盡く破裂せり。
李は以て慎に告げ、慎は是に由り憾みを積み、
且つ謂えらく、「暹は己を構う」と。
遂に糾劾するところなく、多く縱捨を行う。
神武は嫌いて之を責め、彌々自ら安んぜず。
出でて北豫州刺史と為り、
遂に武牢に據りて西魏に降る。
これだけ見ると、文襄=高澄はアホ。
ビックリ下半身野郎じゃないですか。
多くは高仲密の離反は崔暹が原因としますが、
こうして見ると高澄と崔暹の合わせ技ですね。
まさにそびえ立つクソ、
タワーリング・シット。
で、
高歓も崔暹が原因と認識したらしく、
崔暹に刑罰を加えようとしますけど、
同じ穴のムジナの高澄が庇いました。
高歓
「命は許してやるが、罰さぬわけにはいかぬ」
どうしようもなくなった高澄、
困った時の「陳元康えもん」。
高澄
「崔暹が杖罰を受けるようであれば、
卿とは二度と顔を合わせるまい」
どう考えてもオマエが原因や。
なんで「陳元康が悪い」風?
やむなく陳元康が高歓の許に向かうと、
すでに崔暹が杖罰を受ける直前ですよ。
階段を昇りつつ、陳元康が言います。
「王は天下を長子に委ねようとしておられる。
どうして崔暹を我慢できないのでしょうか」
おなじみの陳元康にゲンナリした高澄、
崔暹を許して放免したのでありました。
高仲密の離反を違う側面から観てみましょう。
『北齊書』封隆之伝
武定の初め、
北豫州刺史の高仲密は將に叛さんとし、
遣使して陰かに消息を冀州の豪望に通じ、
內應を為さしむ。
輕薄の徒は、頗る相い扇動せり。
隆之に詔して驛を馳せて慰撫し、
遂に安靜を得る。
高仲密はただ西魏に降るだけに止まらず、
冀州は渤海を含む高氏の故郷であります。
ここでは「輕薄の徒」と書かれてますが、
高仲密の扇動に乗る豪族もいたわけです。
同じく渤海蓨の
豪族たちに思いとどまるよう説いたわけで。
「驛を馳せ」という限り、
けっこうな緊急事態だったように見えます。
これはつまり、
同じく冀州で高歓の挙兵から従っていた
漢人豪族にも派閥分かれが進んでおり、
渤海蓨の高氏と一部の冀州の豪族たちは
身の危険を感じていたということです。
高仲密の離反の底には東魏の漢人間の
亀裂が見え隠れしているわけなのです。
陳元康は全然関係ないけど。
▼
世宗入輔京室、
崔暹、崔季舒、崔昂等並被任使,
張亮、張徽纂並高祖所待遇。
然委任皆出元康之下。
時人語曰、
「三崔二張、不如一康」。
世宗は入りて京室を輔くるに
崔暹、崔季舒、崔昂等は並びに任使を被り、
張亮、張徽纂は並びに高祖の待遇するところなり。
然して委任は皆な元康の下に出ず。
時人は語りて曰わく、
「三崔二張、一康に如かず」と。
▲
話はもどって天平三年(536)、
世宗=高澄=ビックリ下半身ヤローは
鄴に入って東魏帝の輔佐にあたります。
「クズ」という言葉がピッタリな人ですが、
側近は崔暹、
一方、晋陽の高歓の下では
軍政に
「張」二人が重用されていました。
ただ、この三崔二張であっても、
陳元康ほどの権限は与えられず、
人々は、
「三崔二張でも一康に及ばない」
と語ったわけでありました。
「一陳」にしないのは陳姓が多いからでしょうかね。
陳元康は東魏の中枢の人になったわけでありました。
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