陳元康②三崔二張は一康に如かず。

丞相府じょうしょうふ高歓こうかんに食い込んだ陳元康ちんげんこうですが、

信任された方向がちょっとオカシイ感じ。




高祖嘗怒世宗、於內親加毆蹋、

極口罵之、出以告元康。

元康諫曰、

「王教訓世子、自有禮法。

 儀刑式瞻、豈宜至是」。

言辭懇懇、至于流涕。

高祖從此為之懲忿。

時或恚撻、輒曰、

「勿使元康知之」。

其敬憚如此。


高祖の嘗て世宗を怒るに、內に親ら毆蹋を加え、

口を極めて之を罵り、出でて以て元康に告ぐ。

元康は諫めて曰わく、

「王の世子を教訓するに自ら禮法あり。

 儀刑式瞻、豈に宜しく是に至らんや」と。

言辭は懇懇として流涕するに至る。

高祖は此より之が為に忿を懲う。

時に或いは恚撻せば、輒ち曰わく、

「元康をして之を知らしむなかれ」と。

其の敬憚すること此の如し。



高歓の教育方針は

「バイオレンスで言うことを聞かせる」

だったようです。


高歓が長子の高澄こうちょうを怒る際には、

殴る蹴る&罵声を用いた、と。


ただの毒親やんけ。


で、

終わって陳元康にそう言うと、

「王が世継ぎを訓導するには決まりがあり、殴る蹴るなどは許されておりません」

と諫めてハラハラ涙を流す。


高歓はそれよりなるべく殴る蹴るは控え、

怒りに任せてやっちまった際には周りに

「陳元康には知られぬようにせよ」

と口止めしたそうであります。


信任の方向がちょっとおかしくない?


高澄は天平てんへい三年にはぎょうに出ているので、

天平二年(535)頃のお話なのでしょう。




高仲密之叛、

高祖知其由崔暹故也、

將殺暹。

世宗匿而為之諫請。

高祖曰、

「我為舍其命。

 須與苦手」。

世宗乃出暹而謂元康曰、

「卿若使崔得杖,

 無相見也」。

暹在廷、解衣將受罰。

元康趨入、歷階而昇、且言曰、

「王方以天下付大將軍、

 有一崔暹不能容忍耶?」。

高祖從而宥焉。


高仲密の叛するに、

高祖は其の崔暹に由るが故を知るや、

將に暹を殺さんとす。

世宗は匿いて之が為に諫請す。

高祖は曰わく、

「我は為に其の命を舍つ。

 須く苦手を與うべし」と。

世宗は乃ち暹を出して元康に謂いて曰わく、

「卿の若し崔をして杖を得しむれば、

 相い見ゆることなきなり」と。

暹は廷に在り、衣を解きて將に罰を受けんとす。

元康は趨き入り、階を歷して昇り、

且つ言いて曰わく、

「王は方に天下を以て大將軍に付す。

 一崔暹の忍ぶを容るるあたわざるあらんや?」。

高祖は從いてこれを宥す。



武定元年(543)正月、

北豫州刺史ほくよしゅうしし高仲密こうちゅうみつが西魏に

投降するのでありますけども。


高仲密の姓名は高慎こうしん

兄は高乾こうけん、弟は高敖曹こうごうそう高季式こうきしき

渤海ぼっかいしゅうの高氏の人であります。


崔暹さいせんの妹を娶ったものの離縁し、

そこからギスギス関係となって

不安から叛乱したとされますが、

より生々しい記述もありますね。


『北史』高愼伝

 慎の前妻は吏部郎中の崔暹の妹、

 慎の棄つるところと為る。

 暹は時に文襄の委任するところと為り、

 乃ち暹が為に其の妹を高嫁せしめ、

 禮の夕に親ら之に臨む。

 慎の後妻は趙郡の李徽伯の女なり。

 豔にして且つ慧く、兼ねて書記を善くし、

 騎乘に工なり。

 慎の滄州と為るに、甚だ沙門の顯公を重んず。

 夜は常に語りて久しく寢ねず。

 李氏は之に患い、之を慎に構えて遂に拉殺を被る。

 文襄は其の美を聞き、之に挑むも從わず。

 衣は盡く破裂せり。

 李は以て慎に告げ、慎は是に由り憾みを積み、

 且つ謂えらく、「暹は己を構う」と。

 遂に糾劾するところなく、多く縱捨を行う。

 神武は嫌いて之を責め、彌々自ら安んぜず。

 出でて北豫州刺史と為り、

 遂に武牢に據りて西魏に降る。


これだけ見ると、文襄=高澄はアホ。

ビックリ下半身野郎じゃないですか。


多くは高仲密の離反は崔暹が原因としますが、

こうして見ると高澄と崔暹の合わせ技ですね。


まさにそびえ立つクソ、

タワーリング・シット。


で、

高歓も崔暹が原因と認識したらしく、

崔暹に刑罰を加えようとしますけど、

同じ穴のムジナの高澄が庇いました。

高歓

「命は許してやるが、罰さぬわけにはいかぬ」


どうしようもなくなった高澄、

困った時の「陳元康えもん」。

高澄

「崔暹が杖罰を受けるようであれば、

 卿とは二度と顔を合わせるまい」


どう考えてもオマエが原因や。

なんで「陳元康が悪い」風?


やむなく陳元康が高歓の許に向かうと、

すでに崔暹が杖罰を受ける直前ですよ。

階段を昇りつつ、陳元康が言います。

「王は天下を長子に委ねようとしておられる。

 どうして崔暹を我慢できないのでしょうか」


おなじみの陳元康にゲンナリした高澄、

崔暹を許して放免したのでありました。


高仲密の離反を違う側面から観てみましょう。


『北齊書』封隆之伝

 武定の初め、

 北豫州刺史の高仲密は將に叛さんとし、

 遣使して陰かに消息を冀州の豪望に通じ、

 內應を為さしむ。

 輕薄の徒は、頗る相い扇動せり。

 隆之に詔して驛を馳せて慰撫し、

 遂に安靜を得る。


高仲密はただ西魏に降るだけに止まらず、

冀州きしゅうの豪族に内応を呼びかけていました。


冀州は渤海を含む高氏の故郷であります。


ここでは「輕薄の徒」と書かれてますが、

高仲密の扇動に乗る豪族もいたわけです。


同じく渤海蓨の封氏ほうし封隆之ほうりゅうしが冀州に行き、

豪族たちに思いとどまるよう説いたわけで。


「驛を馳せ」という限り、

けっこうな緊急事態だったように見えます。


これはつまり、

同じく冀州で高歓の挙兵から従っていた

漢人豪族にも派閥分かれが進んでおり、

渤海蓨の高氏と一部の冀州の豪族たちは

身の危険を感じていたということです。


高仲密の離反の底には東魏の漢人間の

亀裂が見え隠れしているわけなのです。


陳元康は全然関係ないけど。




世宗入輔京室、

崔暹、崔季舒、崔昂等並被任使,

張亮、張徽纂並高祖所待遇。

然委任皆出元康之下。

時人語曰、

「三崔二張、不如一康」。


世宗は入りて京室を輔くるに

崔暹、崔季舒、崔昂等は並びに任使を被り、

張亮、張徽纂は並びに高祖の待遇するところなり。

然して委任は皆な元康の下に出ず。

時人は語りて曰わく、

「三崔二張、一康に如かず」と。



話はもどって天平三年(536)、

世宗=高澄=ビックリ下半身ヤローは

鄴に入って東魏帝の輔佐にあたります。


「クズ」という言葉がピッタリな人ですが、

側近は崔暹、崔季舒さいきじょ崔昂さいこうで「崔」尽くし。


一方、晋陽の高歓の下では

軍政に張亮ちょうりょう、柔然対策に張徽纂ちょうきさん

「張」二人が重用されていました。


ただ、この三崔二張であっても、

陳元康ほどの権限は与えられず、

人々は、

「三崔二張でも一康に及ばない」

と語ったわけでありました。


「一陳」にしないのは陳姓が多いからでしょうかね。

陳元康は東魏の中枢の人になったわけでありました。

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