陳元康(北魏・東魏)「文官と時代の潮目」

陳元康①わりと地味な経歴。

文官から東魏~北齊という国家を考える、

シリーズの3人目は陳元康ちんげんこうです。


毎度おなじみ

『北齊書』陳元康伝を中心に

サクサク読んで参りましょう。




陳元康、字長猷、廣宗人也。

父終德、魏濟陰內史、

終於鎮南將軍、金紫光祿大夫。

元康貴、贈冀州刺史、諡曰貞。

元康頗涉文史、機敏有幹用。


陳元康、字は長猷、廣宗の人なり。

父の終德は魏の濟陰內史、

鎮南將軍、金紫光祿大夫に終わる。

元康の貴たるや、冀州刺史を贈られ、

諡して貞と曰う。

元康は頗りに文史を涉り、機敏にして幹用あり。



陳元康も出身は北魏の官僚家系です。

ただ、

父の陳終德ちんしゅうとく濟陰內史さいいんないしというワケで

トップの名門家系とは毛色違います。


当然、

陳元康も文官として訓練されました。




魏正光五年、從尚書令李崇北伐、

以軍功賜爵臨清縣男。

普泰中、除主書、加威烈將軍。


魏の正光五年、尚書令の李崇の北伐に從い、

軍功を以て爵臨清縣男を賜わる。

普泰中、主書に除せられ、威烈將軍を加う。



これが最初の任官かは不明ですが、

正光しょうこう五年(524)に李崇りすうの出征に従軍、

軍功により爵臨清縣男しゃくりんせいけんだんに封じられます。


この李崇の出征は六鎮ろくちんらんによります。


同年三月に破落汗拔陵はらっかんばつりょうの叛乱の報が入り、

臨淮王りんわいおう元彧げんいくが命じられて出征しますが

五月には五原ごげんで敗れて官爵をはく奪され、

代わって李崇が出征を命じられたのです。


李崇は頓丘とんきゅう李氏という漢人トップの名門、

叔母は文成帝ぶんせいていの皇后で献文帝けんぶんていを生みました。


李崇本人も政戦ともに秀でて尚書令しょうしょれいまで出世、

ただし財産を大事にする人で金にはキタナイ。


この時の出征では廣陵王こうりょうおう元淵げんえんとともに

六鎮の賊に善戦したものの平定できず、

冬になって平城へいじょうに引き返しております。


元淵という人もなかなか薄汚れており、

李崇との間もうまくいってないっぽい。


李崇の長史の祖瑩そえいという人が軍功を捏造、

あわせて軍資を盗んだことを朝廷に報告、

そのために李崇は召喚されてしまいます。


この祖瑩の子が祖珽そてい

祖孝徴としても知られる人です。


父子そろってロクでもないないなあ。


北魏官軍ギスギスフィーリング、

こりゃあ勝てるモノも勝てない。


陳元康はあまり関係なかったようで、

連座もなく、放置されたようですね。


それからは不明ですが、

5年後の普泰ふたい元年(531)には主書しゅしょ

つまり主書郎として任用されます。


ちなみに、

主書郎は第六品上の官でして、

洛陽がある司州ししゅうの幹部と同等。


けっこうエライ。


この頃は爾朱兆じしゅちょう節閔帝せつびんてい元恭げんきょうを擁立、

爾朱兵団の天下という時期になります。


ここまで陳元康は特に爾朱兵団とは

関わりなく過ごしてきたようですね。




天平元年、修起居注。

二年、遷司徒府記室參軍、

尤為府公高昂所信待。

出為瀛州開府司馬、加輔國將軍。


天平元年、起居注を修す。

二年、司徒府の記室參軍に遷り、

尤も府公の高昂の信待するところと為る。

出でて瀛州の開府司馬と為り、輔國將軍を加う。



天平てんへい元年(534)、普泰元年から3年後です。


すでに爾朱兵団は滅ぼされて高歓こうかんの専権期、

高歓と対立した孝武帝こうぶてい宇文泰うぶんたいのいる関中かんちゅう

逃げ込んで魏が東西に分裂した直後のこと。


孝武帝に逃げられた高歓は元善見げんぜんけんを擁立、

これが東魏の孝静帝こうせいていと呼ばれる人ですね。


陳元康は史官としてその起居注を担当します。


翌年の三月には司空しくう高昂こうこう司徒しとに転じ、

その時に記室參軍きしつさんぐんとして引き抜かれました。


この高昂はすなわち高敖曹こうごうそう、東魏の猛将です。

その高敖曹には大変に信任されたらしく、

恙なく務めて開府司馬かいふしばとして瀛州えいしゅうに出ます。


瀛州刺史が誰だったかは不明なのですけど、

おそらく高歓に従う鮮卑武人の誰かかなあ。




所歷皆為稱職、高祖聞而徵焉。

稍被任使、以為相府功曹參軍、

內掌機密。

高祖經綸大業、軍務煩廣、

元康承受意旨、甚濟速用。

性又柔謹、通解世事。


歷するところは皆な職に稱える為、

高祖は聞きてこれを徵す。

稍やして任使を被り、以て相府の功曹參軍と為り、

內に機密を掌る。

高祖は大業を經綸し、軍務は煩廣なり。

元康は意旨を承受し、甚だ速用を濟う。

性は又た柔謹、世事に通解せり。



他にも転任したのかも知れませんけど、

いずれの職務も適切に遂行したらしく

噂が高歓の耳に入って丞相府じょうしょうふに抜擢です。


この噂が孫搴そんけんが急性アル死した後に

高敖曹の弟の高季式こうきしきの推挙なのかも。


記事を突き合わせるとそうなりそうですね。


陳元康が高敖曹に信頼されていたとすると、

その線で弟の高季式が推挙したのでしょう。


しばらくすると高歓にも信任されて

功曹參軍こうそうさんぐんに任用されて機密に関わる。


陳元康の特徴は仕事が速いことらしく、

多忙な高歓の意図を汲んで迅速に処理、

性格は温和で世事に通じていたらしい。


ここから、陳元康は高氏に食い込んでいきます。

それにしても盛り上がりに欠ける感じですねえ。


全面的に地味。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る