陳元康④高澄との蜜月と潮目の変化。

高歓こうかん亡き後も陳元康ちんげんこう高澄こうちょうと昵懇、

相変わらず政治を委任されてます。



世宗嗣事、又見任待。

拜散騎常侍、中軍將軍、

別封昌國縣公、邑一千戶。


世宗の事を嗣ぐに、又た任待さる。

散騎常侍、中軍將軍を拜し、

別に昌國縣公、邑一千戶に封じらる。



ここでも出ました中軍將軍ちゅうぐんしょうぐん

爵も縣公まで上り詰めてます。




侯景反、世宗逼於諸將、

欲殺崔暹以謝之。

密語元康。元康諫曰、

「今四海未清、綱紀已定。

若以數將在外,苟悅其心、

枉殺無辜、虧廢刑典、

豈直上負天神、何以下安黎庶。

晁錯前事,願公慎之」。

世宗乃止。


侯景の反するに、世宗は諸將に逼られ、

崔暹を殺して以て之に謝さんと欲し、

密かに元康に語る。

元康は諫めて曰わく、

「今、四海は未だ清からざるも、綱紀は已に定まる。

 若し數將の外に在るを以て苟くも其の心を悅ばせ、

 無辜を枉殺して刑典を虧廢せば、

 豈に直だ上は天神に負うのみならず、

 何ぞ以て下に黎庶を安んぜんや。

 晁錯の前事、願わくば公は之を慎め」と。

世宗は乃ち止む。



一方、

武定ぶてい五年正月に生じた侯景こうけいの離反、

侯景に同情的な諸将もいるわけで、

崔暹さいせんを殺せと突き上げられました。


高澄も悩んでまた陳元康えもんに相談、

陳元康

「外にいる諸将に突き上げられたからって

 無罪の人間を殺したら法治メチャクチャ

 そんなんで万民を統治できますかいな」


晁錯ちょうそは前漢の人、

景帝の頃に起こった呉楚七国の乱の際、

叛乱の標的にされた官僚でありますね。


晁錯は処刑されてしまいますが、

叛乱は一向静まりませんでした。


その轍を踏むな、ということですね。


高澄は陳元康の意見に従い、

崔暹の処刑を思いとどまります。


しかし、

侯景の叛乱が静まったワケではない。

さて、高澄はどのように応じますか。




高岳討侯景未克、

世宗欲遣潘相樂副之。

元康曰、

「相樂緩於機變、不如慕容紹宗,

 且先王有命、

 稱其堪敵侯景。

 公但推赤心於此人、

 則侯景不足憂也」。

是時紹宗在遠、

世宗欲召見之、

恐其驚叛。

元康曰、

「紹宗知元康特蒙顧待、

 新使人來餉金、以致其誠欵。

 元康欲安其意、

 故受之而厚答其書。

 保無異也」。

世宗乃任紹宗、遂以破景。

賞元康金五十斤。


高岳は侯景を討ちて未だ克くせず、

世宗は潘相樂を遣りて之に副えんと欲す。

元康は曰わく、

「相樂は機變に緩く、慕容紹宗に如かず。

 且つ先王に命あり、

 其の侯景に敵するに堪うと稱せり。

 公は但だ赤心を此の人に推さば、

 則ち侯景は憂うるに足らざるなり」と。

是の時、紹宗は遠くに在り、

世宗は召して之に見えんと欲するも

其の驚き叛くを恐る。

元康は曰わく、

「紹宗は元康の特に顧待を蒙るを知る。

 新たに人をして來りて金を餉り、

 以て其の誠欵を致さしめよ。

 元康は其の意を安んぜんと欲し、

 故に之を受けて厚く其の書に答えん。

 保ちて異なきなり」と。

世宗は乃ち紹宗に任じ、遂に以て景を破る。

元康に金五十斤を賞す。



侯景の平定には高岳こうがくが遣わされましたが、

一向にはかばかしい戦果が挙げられない。


高澄は潘相樂はんそうがくを遣わそうとします。

オーマーエーはー、高歓の遺言無視かい!

すかさず陳元康

「潘相樂は臨機応変の才を欠き、

 慕容紹宗ぼようしょうそうに及びません。

 『紹宗は侯景に匹敵する』と

 先王は言われておりました。

 紹宗に赤心を推せば侯景など

 憂えるにも及びますまい」


この時、慕容紹宗は外任に出ており、

急に呼び寄せると誤解されかねない。


下手すると挙兵しちゃいますよ。

高澄、将帥からの人気全然ない。


そこで、

まず陳元康が慕容紹宗に金を贈る、

慕容紹宗は礼状を送らざるを得ず、

その礼状に対して陳元康が返書し、

懇切丁寧に持ち上げてやるコトで

慕容紹宗を安心させたワケですね。


これにより、

ようやく高澄は慕容紹宗を起用し、

宇宙大将軍の平定を成功させます。


上げ膳据え膳。

やっぱり二代目ってこんなんやな。


その賞として陳元康は高澄から

金五十斤を贈られたのでした。




王思政入潁城、

諸將攻之、不能拔。

元康進計於世宗曰、

「公匡輔朝政、未有殊功。

雖敗侯景、本非外賊。

今潁城將陷、願公因而乘之、

足以取威定業」。

世宗令元康馳驛觀之。

復命曰、「必可拔」。

世宗於是親征、既至而克、

賞元康金百鋌。


王思政の潁城に入るに、

諸將は之を攻むるも拔くあたわず。

元康は計を世宗に進めて曰わく、

「公は朝政を匡輔するも未だ殊功あらず。

 侯景を敗ると雖も、本より外賊にあらず。

 今、潁城は將に陷らんとす。

 願わくば公の因りて之に乘ずれば、

 以て威を取りて業を定むるに足らん」と。

世宗は元康をして驛を馳せて之を觀さしむ。

復命して曰わく、「必ず拔くべし」と。

世宗は是に親征し、既に至りて克くす。

元康に金百鋌を賞す。



武定六年(548)、前年のドサクサに紛れ、

西魏の王思政おうしせい潁川えいせんに入っておりました。


潁川の奪還にも

高岳と慕容紹宗が遣わされます。


潁川はそれから一年近く抵抗を続けますが、

さすがに翌年には敗色濃厚となってきます。


陳元康

「公は内政も外征も殊勲を立てておられません。

 潁川の城は間もなく陥るでしょうからこれを

 利用して大業を定められるのが上策です」

前半、軽く高澄をDisってません?


つまり、

潁川奪還を高澄の功績にするワケです。

なかなかヒドイお話ではありますよね。


自己中の高澄はノリノリで陳元康を遣わし、

潁川が陥りかけていると確認して自ら出馬、

まるで自分が陥れたように見せたのですね。


また、上げ膳据え膳。

この時も、陳元康は金百鋌で賞されました。


この二回、

陳元康は官爵ではなく

金で慰労されています。


このあたりに潮目の変化が

うっすら表れているようで。




初魏朝授世宗相國、齊王、

世宗頻讓不受。

乃召諸將及元康等密議之、

諸將皆勸世宗恭應朝命。

元康以為未可。

又謂魏收曰、

「觀諸人語專欲誤王。

 我向已啟王、受朝命、置官僚、

 元康叨忝或得黃門郎、但時事未可耳」。

崔暹因間之、薦陸元規為大行臺郎、

欲以分元康權也。


初め、魏朝は世宗に相國、齊王を授け、

世宗は頻りに讓りて受けず。

乃ち諸將及び元康等を召して密かに之を議す。

諸將は皆な世宗に朝命に恭應せんことを勸む。

元康は以て、未だ可ならずと為す。

又た魏收に謂いて曰わく、

「諸人の語を觀るに專ら王を誤らんと欲す。

 我は向に已に王に啟すらく、

 『朝命を受けて官僚を置かば、

  元康は叨りに或いは黃門郎を得るを忝くせん。

  但だ時事は未だ可ならざるのみ』と」と。

崔暹は因りて之を間す。

陸元規を薦めて大行臺郎と為し、

以て元康の權を分かたんと欲するなり。



東魏帝は高歓の跡を継いだ高澄に対し、

相國しょうこく齊王せいおうを授けようとしますけども

含むモノがある高澄は辞退を続けます。


高澄としてはタイミングを見計らって

そこから直接的に禅譲に繋げたいはず。


で、

諸将や陳元康を集めて事を諮るワケです。


諸将は当然、高澄に受けるよう進め、

陳元康はそれに反対したようですね。


理由は、まだ時機ではないとのこと。


おそらく文官でも孤立していたのか、

魏收ぎしゅうには、

「みなが王を誤らせようとしている。

 王が相国ともなれば私は黄門郎こうもんろう

 官を頂けるであろうが、いまだに

 時勢がそれを許さないのだ」

と愚痴っておったようであります。


話は魏収から崔暹に伝わって

陳元康の権を削りたい崔暹は

陸元規りくげんき大行台だいこうだい郎中ろうちゅうに推挙し、

陳元康の権限を削りにかかります。


魏収ってこーゆートコ最高にアレ。


二度も陳元康に救われていながら、

恩を一切感じない崔暹も非人間的。


東魏のみなさん、人でなし感満載。




元康既貪貨賄、

世宗內漸嫌之、

元康頗亦自懼。

又欲用為中書令、

以閑地處之、

事未施行。


元康は既に貨賄を貪り、

世宗は內に漸く之を嫌う。

元康も頗る亦た自ら懼る。

又た用て中書令と為して

閑地を以て之を處かんと欲するも

事は未だ施行せず。



この記述を信じれば、

高澄も財貨にキタナイ陳元康を

内心では嫌いはじめていた模様。

そして、

それは陳元康にも伝わっていた。


先の二回で金をくれてやったの、

解釈次第で直球あてこすりです。


「金か?金が欲しいんだろ?」


中書令ちゅうしょれいに進めて閑職に追いやる、

そういう計画もあったようです。


ただ、

この動機は鵜呑みにできない感じ。

つーか、

高澄周りでカネに汚くない人って?

崔季舒とか少ないけどいます。


これまで見たとおり、

陳元康のスキルは人間関係の調整、

高歓と高澄の間を調整することで

信任を得て足場を固めてきました。


慕容紹宗と高澄をつないだ献策も、

そのスキルの発露と言えましょう。


これはイレギュラー対応であって

創業期のみに求められるスキル。


組織の命令系統とは別の話です。


また、

経歴をざっと並べてみますと、

主書郎

→ 司徒府記室參軍

→ 瀛州開府司馬

→ 丞相府功曹參軍

→ 通直散騎常侍

→ 大行臺郎中

→ 大行臺右丞

吏部や御史台のような花形を経ず、

大規模な組織の運用は大行臺右丞が

おそらく初めての経験となりますね。


思うに、

陳元康の得意分野は組織の運用より

秘書や参謀としての個人技にあった。


高歓の没後、東魏はよりシステム的に

行政を回す方向に向かっておりました。

つまり、

創業期の属人性を排除しつつあります。


そうしないと高澄の手に余ってしまう。

ビックリ★下半身ヤローじゃムリムリ。


それを率先して進めてきたのが崔暹、

吏部から御史中尉ぎょしちゅういに転じて綱紀粛清を担い

高歓の没後は度支尚書たくししょうしょ兼僕射けんぼくやに任じられ、

いよいよ政治の中枢を握りつつありました。


属人性を排除すると、

トップクラスの官僚に求められる能力は

組織の運用能力にならざるを得ませんね。


高澄の腹心の中でも陳元康はその能力で、

他と比較して一段落ちるんでしょうねえ。


一つの時代が終わって潮目が変わり、

陳元康の役割は終わりつつあった。


そう理解する方がよいように思われます。

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