杜弼(北魏・東魏・北齊)「文官in汚職やり放題パラダイス」
杜弼①初手からグダグダ時系列。
東魏の小物文官、
やはり食い足りない感アリアリでしたね。
東魏時代に急性アルコール中毒で
お亡くなりになっておりますし。
そういうわけで東魏の感覚を掴むべく、
もう少し読んでみたいと思いましたの。
今回の犠牲者は
文官ですが東魏から北齊まで
生き抜いてはおるわけですね。
当たり前のように終わりは良くないです。
北齊名物「非業の死」ですよね、奥さん。
うーん、
ワクワクしますね。
それではスタート。
▼
『北齊書』杜弼伝
杜弼 、字輔玄、中山曲陽人也。
小字輔國。
自序云、
「本京兆杜陵人、九世祖驁、晉散騎常侍、
因使沒趙、遂家焉。
祖彥衡、淮南太守。
父慈度、繁畤令」。
弼幼聰敏、家貧無書、年十二、寄郡學受業。
講授之際、師每奇之。
杜弼 、字は輔玄、中山曲陽の人なり。
小字は輔國なり。
自序に云えらく、
「本は京兆杜陵の人、九世の祖の驁は晉の散騎常侍、
使に因りて趙に沒し、遂にここに家せり。
祖の彥衡は淮南太守たり。
父の慈度は繁畤令たり」と。
弼は幼くして聰敏、家は貧しくして書なし。
年十二にして郡學に寄りて業を受く。
講授の際、師は每に之を奇とせり。
▲
杜氏と言いますと、
三国末期に
杜弼は
ただ、もともとは京兆杜陵の杜氏、
九代前に
石趙に使者として赴いて抑留されたのです。
そう主張しております。
「自序」とありますから著作のアタマで
そういう風に書いていたのでありましょう。
実際、
『
祖父は
パパンは
北魏の官僚家系ではあったわけです。
生没はハッキリしておりまして、
太和20年(496)生まれの
幼い頃から聡明だったけど家が貧しい。
貧しいと言っても庶民ではないですよ。
なので、
食うには困らなかった、と思いますね。
そんな杜弼は12歳から
これは家に教師を招いて勉強するほどには
豊かではなかった、ということでしょうね。
この杜弼という人、字と小字がビミョー。
字が
小字が
何がおかしいかというとですね、
小字の輔國で問題ないはずなの。
政治家を目指すなら輔國で何も問題ない。
それをわざわざ輔玄に改めておりますね。
おそらく、
早熟だった杜弼は自ら輔國を字としたけど、
その後、老荘の学に目覚めた可能性大です。
多分、郡学に入る前は「輔國」を名乗り、
郡学でスクールカースト上位のみなさんが
清談の真似っこをしていたんじゃないかと。
ビンボーだけど上昇志向が強くて頭がいい杜弼さん、
カースト上位に食い込むべく清談に励んだはずです。
それでズッポリとハマってしまい、
「輔玄」に改めたものと推測します。
妄想楽しいです、ハアハア。
実際、この人は
名理の学は要するに清談みたいなもんで。
理屈を闘わせる「高尚な遊び」だそうです。
▼
同郡甄琛為定州長史、簡試諸生、
見而策問、義解閑明、應答如響、
大為琛所歎異。
其子寬與弼為友。
州牧任城王澄聞而召問、深相嗟賞、
許以王佐之才。
澄、琛還洛、稱之於朝、
丞相高陽王等多相招命。
同郡の甄琛の定州長史と為りて諸生を簡試するに、
見えて策問し、義解は閑明、應答は響くが如く、
大いに琛の歎異するところと為る。
其の子の寬は弼と友と為る。
州牧の任城王の澄は聞きて召問し、深く相い嗟賞し、
許すに王佐の才を以てせり。
澄、琛は洛に還り、之を朝に稱え、
丞相の高陽王等は多く相い招命す。
▲
なので杜弼と「同郡」なのです。
「シンチン」って10回言ってみ(セクハラ
その人が中山に
郡学の学生をテストしてみますと、
杜弼の聡明さに驚いたわけですね。
ついでに
北魏の宗室、
杜弼を召し出してテストしてみますと、
「オマエ、王佐の才やないの」
と感心したそうなのですね。
で、
甄琛と元澄の二人は
「中山の杜弼、マジ王佐の才」
と言いふらしたわけでありますね。
杜弼を召し出そうとしたそうですよ。
一見、順風満帆のスタートです。
しかし、
この時期の史料を盲信するのはサルなので、
この逸話の信ぴょう性を叩いてみましょう。
まず、時期でありますね。
『魏書』甄琛伝より彼の経歴を確認します。
太和の初め、中書博士を拜し、
諫議大夫に遷る。
時に陳ぶるところあり、
亦た高祖の知賞するところとなる。
通直散騎侍郎に轉じ、
出でて本州征北府長史と為り、
後に本州の陽平王頤の衞軍府長史と為る。
世宗の踐祚するに、
琛を以て中散大夫、兼御史中尉と為す。
通直散騎常侍に轉じ、仍お中尉を兼ぬ。
(太和初め)
中書博士
→ 諫議大夫
→ 通直散騎侍郎
ここまでは洛陽勤めです。
→ 征北府長史
→ 衞軍府長史
これらは本州なので故郷の定州です。
→ (世宗踐祚)中散大夫、兼御史中尉
御史ですから、ふたたび洛陽に戻ったわけですね。
なお、『魏書』甄琛伝には、
始め、琛は父母の年老ゆるを以て
常に官を解きて扶侍せんことを求む。
故に高祖は授くるに本州長史を以てす。
という記事もありますので、
征北府長史 → 衞軍府長史
の流れはガチだと思います。
ちなみに、
高祖=孝文帝
世宗=宣武帝(孝文帝の子)
ですので途中で代替わりしてます。
で、
記事を見る限り、
世宗踐祚つまり宣武帝の即位に伴い、
衞軍府長史 → 中散大夫、兼御史中尉
という流れに読めますけども、
それだとどうもつじつまが合わない。
孝文帝の死と宣武帝の即位は
太和23年(499)のことです。
この年、杜弼は9歳です。
杜弼は12歳から郡学に入ったとあり、
この時点では「簡試諸生」の対象外。
少なくとも、
甄琛は502年以降に定州にいないとおかしい。
499年に洛陽に戻ったらつじつまが合わない。
一方、元澄の定州刺史赴任の経緯の方は、
『魏書』景穆十二王伝にある任城王澄伝に
よりますと、淮南の出征において敗戦し、
結果としては左遷として定州に赴任した、
ということが読み取れます。
この敗戦は正始四年(507)夏四月でした。
その直後に転任があったとすると、
杜弼は17歳になっていますので、
まあまあつじつまは合うようです。
甄琛の伝に戻ってさらに読んでいくと、
御史中尉となった後、免官されています。
これは、宣武帝の寵臣であった
汚職に関わる疑獄事件でありました。
この時の処断に関わったのは、
兼尚書の
景明年間(500-504)、
元英は
甄琛の免官もこの時期と推測します。
甄琛はこれで洛陽から定州に帰郷し、
以降十数年ほど定州で過ごします。
そう考えると、
杜弼が郡学に入学した502年より後、
甄琛と元澄がともに定州にいたのは、
正始四年(507)から翌年(508)、
甄琛は免官され、元澄は左遷されて
定州にいたと考えるのがよさそう。
結論としては、
甄琛と元澄が評価したことは事実かも、
ただし、
時期は正始四年頃で杜弼17歳の頃の話、
という感じになるかと思います。
丞相の高陽王の元雍からの召命は不明、
ただし、初任官の経緯から考えますと、
任官には繋がらなかったと推測します。
そのあたりのお話はまた次回。
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