東魏〜北齊「文官から見る史上屈指の乱脈国家」
孫搴(北魏・東魏)「北魏末の小物文官の一典型」
孫搴①ある小物文官の肖像。
蘇綽さんを読み終わまして、
「西魏ばっかりやってヒイキやんけ」
という感もあるので東魏もちょっと。
しばらく漢文離れしていたのでね、
ウォーミングアップ、ってヤツさ。
HAHAHAHAHA!
武人はオモシロそうでオモシロないので、
文官です。しかも小物。
姓名は
そこはかとなく漂うパチモノ臭。
軽く1話くらいで終わらせますよ。
それでは、『北齊書』の伝をサラッと。
▼
孫搴、字彥舉、樂安人也。
少厲志勤學、
自檢校御史再遷國子助教。
太保崔光引修國史、頻歷行臺郎、
以文才著稱。
孫搴、字は彥舉、樂安の人なり。
少くして志を厲まして勤學し、
檢校御史より再び國子助教に遷る。
太保の崔光は引きて國史を修めしめ、
頻りに行臺郎を歷し、文才を以て著かに稱さる。
▲
孫搴の出身は
どこかと言うと、青州樂安郡です。
勉強大好き学者肌の人だったっぽく、
檢校御史は「
弾劾とかを担う感じの職になってます。
時期はたぶん
『
優秀者を
対策はまあ論文みたいなもんッスわ。
その24人の合格者の一人が孫搴です。
國子助教は
ちなみに教授の
学長の
んでから、
そこからは
崔光は三国魏の
国史の監修はほぼライフワークみたいなもので
時期が特定できないのがはだはだ
つーのも、
孫搴は享年52歳と分かっているんですけど、
没年不詳なんで生年が特定できないのよね。
んでまあ、
六鎮の乱が起こった正光四年(523)以降は
行臺郎を歴したということでありますわね。
ちなみに、『魏書』本紀で六鎮の乱の間に
現れる行臺らしきみなさんはこんな感じ。
正光四年(523)
二月:元孚(任用、北道行臺)
正光五年(524)
六月:高元榮(死亡@高平、?行臺)
七月:元脩義(任用、西道行臺)
九月:蕭寶夤(任用、西道行臺)
十二月:魏子建(勝利、山南行臺)
孝昌元年(525)
正月:高諒(死亡@徐州、徐州行臺)
正月:元延明(任用、東道行臺)
九月:常景(任用、四州行臺)
孝昌二年(526)
七月:元纂(敗戦@恒州、?行臺)
八月:元彧(任官、東道行臺)
初出のみでコレ。
死亡記事で登場する行臺もいるので、
実際にはもっと乱立していたはずよ。
なもんでたぶん孫搴も色んなところに
引きずりまわされたんでしょうねえ。
実際のところ、何をしていたか不明です。
だからここまでは列伝における前座です。
▼
崔祖螭反、搴預焉、
逃於王元景家、遇赦乃出。
孫騰以宗情薦之、
未被知也。
崔祖螭の反するや、搴はこれに預かり、
王元景の家に逃れ、赦に遇いて乃ち出ず。
孫騰は宗情を以て之を薦むるも、
未だ知られざるなり。
▲
孫搴が次に現れるのは六鎮の乱発生から8年後、
しかも、叛乱に参加していたというオマケつき。
三ヶ月で平定されてしまった小規模叛乱ですね。
脱兎のごとく逃亡した孫搴は
この王元景は
ただし、王昕の伝には孫搴を匿った記事なし。
つまり、
孫搴って邢子才や王昕あたりほどには
家柄がよろしくなかったわけなのです。
コッパ扱い。
んで、
同年11月には皇帝の廃立があって
遠縁っぽい
当然、
叛乱に参加して家柄もイマイチな孫搴は
顧みられなかったわけでありますけども。
悲哀。
▼
會高祖西討、登風陵。
命中外府司馬李義深、相府城局李士略
共作檄文、二人皆辭、
請以搴自代。
高祖引搴入帳、自為吹火、
催促之。
搴援筆立成、
其文甚美。
高祖大悅、即署相府主簿、
專典文筆。
會々高祖の西討して風陵に登る。
中外府司馬の李義深、相府城局の李士略に命し、
共に檄文を作さしめるも、二人は皆な辭し、
請うらく、搴を以て自らに代えんと。
高祖は搴を引きて帳に入れ、自ら為に火を吹き、
之を催促す。
搴の筆を援くに立ちどころに成り、
其の文は甚だ美し。
高祖は大いに悅び、即ち相府主簿に署し、
專ら文筆を典る。
▲
高歓が
風陵は河東の南、黄河南岸の
黄河北岸にある
┃
黄
河 ▲風陵
渭水━┻━━黄河━━
●潼関
よく分かるポンチ絵。
ただし、時期は不詳。
『北齊書』神武本紀より、
関係しそうな軍事行動はこんな感じです。
▼
神武は西のかた費也頭虜の紇豆陵伊利を河西に伐ち、
之を滅して其の部を河東に遷す。
二年(535)正月、
西魏の渭州刺史の可朱渾道元は眾を擁して內屬し、
神武は迎えて之を納る。
三年(536)正月、
神武は厙狄干等萬騎を帥て西魏の夏州を襲う。
身ずから火食せず、四日にして至る。
同年二月、
神武は阿至羅をして西魏の秦州刺史、
建忠王の万俟普撥に逼らしめ、
神武は眾を以て之に應ず。
同年六月、普撥と其の子、太宰の受洛干、
豳州刺史の叱干寶樂、右衞將軍の破六韓常、
及び督將三百餘人は部を擁して來降せり。
▲
本命は天平元年正月でしょうかね。
ちなみに、
唐を開いた李氏とメッチャ姻戚。
東魏に入っているので風陵は関係しなさそう。
黄河を渡って最短ルートで突撃するだろうし、
『周書』文帝紀
太祖は輕騎を勒して之を追い、河北千餘里に至るも、
及ばずして還る。
という宇文泰の行動の記録があるので、
おそらく
そう考えると、
高歓が爾朱氏を平定した直後の天平元年の初め、
費也頭虜を河東に移す際と考えるのが妥当かと。
当時の状況としては、
風陵津の西の関中には
高歓は風陵に登って関中を眺めたのでしょうか。
ちょっと中二気味。
そこで書かれる檄文はまあありふれたもので、
関中の豪族に従うよう求めるものでしょう。
起草するよう命じられた
代わりに孫搴を推薦しているわけですけれども、
孫騰の仕込みがあった可能性アリですかねー。
辞退する理由が不明。
天平元年正月の時点の北魏帝は文帝=
洛陽にあって高歓が擁立している状態です。
なので、
関中の勢力にも皇帝の名の詔でいいじゃね?
という気もしますけど、どうなんでしょうね。
高歓は孫搴を自らの帳=テントに連れ込んで
火を吹いて明かりをつけ、檄文を催促します。
孫搴は筆を執るとたちどころに檄文を書き上げ、
その文章を気に入られて
ありがちなお話ではあります。
▼
又能通鮮卑語、兼宣傳號令、
當煩劇之任、大見賞重。
賜妻韋氏、既士人子女、
又兼色貌、時人榮之。
尋除左光祿大夫、常領主簿。
又た能く鮮卑語に通じ、兼ねて號令を宣傳す。
煩劇の任に當たり、大いに賞め重んじらる。
妻韋氏を賜わるに、既にして士人の子女なり。
又た色貌を兼ね、時人は之を榮とす。
尋いで左光祿大夫に除せられ、常に主簿を領す。
▲
丞相府主簿として用いられてからの活躍ぶり。
鮮卑語に通じていたので高歓の号令を代読する、
そういう任務も担っていたようです。
しかし、
鮮卑語って北魏末の洛陽では禁止されて
使ってはダメだったはずなのですよねえ。
思うに、青州から洛陽に出た頃、
鮮卑語は話せなかったのではないかと。
転戦する間に身につけたのでしょうね。
その一方、
丞相府の激務にあって有能さを買われ、
漢人名門の
詳細はないですけど、おそらく、
「賜」という以上は韋氏の子女のうち、
後宮に入っていた者が皇帝の命により
孫搴に嫁がされたということでしょう。
美人だったようですよ、おめでとうございます。
朝廷では
主簿は常に帯びていたようです。
そんなわけで栄達した孫搴ですが、
東魏で栄達するとツキモノなのが
汚職・口利きというわけでして、
孫搴もキッチリやらかしております。
アレ、一回で終わらなかった。
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