東魏〜北齊「文官から見る史上屈指の乱脈国家」

孫搴(北魏・東魏)「北魏末の小物文官の一典型」

孫搴①ある小物文官の肖像。

蘇綽さんを読み終わまして、

「西魏ばっかりやってヒイキやんけ」

という感もあるので東魏もちょっと。


しばらく漢文離れしていたのでね、

ウォーミングアップ、ってヤツさ。


HAHAHAHAHA!


武人はオモシロそうでオモシロないので、

文官です。しかも小物。


姓名は孫搴そんけん

そこはかとなく漂うパチモノ臭。


軽く1話くらいで終わらせますよ。

それでは、『北齊書』の伝をサラッと。




孫搴、字彥舉、樂安人也。

少厲志勤學、

自檢校御史再遷國子助教。

太保崔光引修國史、頻歷行臺郎、

以文才著稱。


孫搴、字は彥舉、樂安の人なり。

少くして志を厲まして勤學し、

檢校御史より再び國子助教に遷る。

太保の崔光は引きて國史を修めしめ、

頻りに行臺郎を歷し、文才を以て著かに稱さる。



孫搴の出身は樂安がくあん

どこかと言うと、青州樂安郡です。


勉強大好き学者肌の人だったっぽく、

檢校御史けんこうぎょし國子助教こくしじょきょうというコース、

檢校御史は「蘭臺らんだいの職」というヤツで、

弾劾とかを担う感じの職になってます。


時期はたぶん熙平きへい元年(516)、

魏書ぎしょ溫子昇おんししょう伝によりますと、熙平初めに

東平王とうへいおう元匡げんきょうが文人を集め、対策を書かせて

優秀者を御史ぎょしに任用したとの記事があります。


対策はまあ論文みたいなもんッスわ。

その24人の合格者の一人が孫搴です。


國子助教は國子學こくしがくの助教授で従七品じゅうななひん

ちなみに教授の國子博士こくしはくし第五品だいごひん

学長の國子祭酒こくしさいしゅは従三品って感じですね。


んでから、

太保たいほ崔光さいこうに引き抜かれて國史の監修に参加、

そこからは行臺郎こうだいろうを歴して文才を謳われた、と。


崔光は三国魏の崔琰さいえんを祖とする清河せいが崔氏さいしの人、

国史の監修はほぼライフワークみたいなもので

時期が特定できないのがはだはだ遺憾いかんであります。


つーのも、

孫搴は享年52歳と分かっているんですけど、

没年不詳なんで生年が特定できないのよね。


んでまあ、

六鎮の乱が起こった正光四年(523)以降は

行臺郎を歴したということでありますわね。


ちなみに、『魏書』本紀で六鎮の乱の間に

現れる行臺らしきみなさんはこんな感じ。


正光四年(523)

 二月:元孚(任用、北道行臺)

正光五年(524)

 六月:高元榮(死亡@高平、?行臺)

 七月:元脩義(任用、西道行臺)

 九月:蕭寶夤(任用、西道行臺)

 十二月:魏子建(勝利、山南行臺)

孝昌元年(525)

 正月:高諒(死亡@徐州、徐州行臺)

 正月:元延明(任用、東道行臺)

 九月:常景(任用、四州行臺)

孝昌二年(526)

 七月:元纂(敗戦@恒州、?行臺)

 八月:元彧(任官、東道行臺)


初出のみでコレ。

死亡記事で登場する行臺もいるので、

実際にはもっと乱立していたはずよ。


なもんでたぶん孫搴も色んなところに

引きずりまわされたんでしょうねえ。


実際のところ、何をしていたか不明です。

だからここまでは列伝における前座です。




崔祖螭反、搴預焉、

逃於王元景家、遇赦乃出。

孫騰以宗情薦之、

未被知也。


崔祖螭の反するや、搴はこれに預かり、

王元景の家に逃れ、赦に遇いて乃ち出ず。

孫騰は宗情を以て之を薦むるも、

未だ知られざるなり。



孫搴が次に現れるのは六鎮の乱発生から8年後、

しかも、叛乱に参加していたというオマケつき。


崔祖螭さいそちが青州で叛乱を起こしたのは、

普泰ふたい元年(531)二月、平定は五月、

三ヶ月で平定されてしまった小規模叛乱ですね。


脱兎のごとく逃亡した孫搴は

王元景おうげんけいの家に逃げ込んでます。


この王元景は邢子才けいしさいさんと仲良しの王昕おうきんさん、

ただし、王昕の伝には孫搴を匿った記事なし。


つまり、

孫搴って邢子才や王昕あたりほどには

家柄がよろしくなかったわけなのです。


コッパ扱い。


んで、

同年11月には皇帝の廃立があって大赦たいしゃ改元かいげん

中興ちゅうこう元年に孫搴はノコノコ王昕の家を出て

遠縁っぽい孫騰そんとうの推挙で高歓こうかんに仕えることに。


当然、

叛乱に参加して家柄もイマイチな孫搴は

顧みられなかったわけでありますけども。


悲哀。




會高祖西討、登風陵。

命中外府司馬李義深、相府城局李士略

共作檄文、二人皆辭、

請以搴自代。

高祖引搴入帳、自為吹火、

催促之。

搴援筆立成、

其文甚美。

高祖大悅、即署相府主簿、

專典文筆。


會々高祖の西討して風陵に登る。

中外府司馬の李義深、相府城局の李士略に命し、

共に檄文を作さしめるも、二人は皆な辭し、

請うらく、搴を以て自らに代えんと。

高祖は搴を引きて帳に入れ、自ら為に火を吹き、

之を催促す。

搴の筆を援くに立ちどころに成り、

其の文は甚だ美し。

高祖は大いに悅び、即ち相府主簿に署し、

專ら文筆を典る。



高歓が風陵ふうりょうに登った、と。


風陵は河東の南、黄河南岸の潼関どうかんに対し、

黄河北岸にある風陵津ふうりょうしんの北にある丘陵ね。


   ┃

   黄

   河 ▲風陵

渭水━┻━━黄河━━

    ●潼関


よく分かるポンチ絵。

ただし、時期は不詳。


『北齊書』神武本紀より、

関係しそうな軍事行動はこんな感じです。


神武しんぶ=高歓ね。




天平てんへい元年(534)正月、

神武は西のかた費也頭虜の紇豆陵伊利を河西に伐ち、

之を滅して其の部を河東に遷す。


二年(535)正月、

西魏の渭州刺史の可朱渾道元は眾を擁して內屬し、

神武は迎えて之を納る。


三年(536)正月、

神武は厙狄干等萬騎を帥て西魏の夏州を襲う。

身ずから火食せず、四日にして至る。


同年二月、

神武は阿至羅をして西魏の秦州刺史、

建忠王の万俟普撥に逼らしめ、

神武は眾を以て之に應ず。

同年六月、普撥と其の子、太宰の受洛干、

豳州刺史の叱干寶樂、右衞將軍の破六韓常、

及び督將三百餘人は部を擁して來降せり。



本命は天平元年正月でしょうかね。


費也頭虜ひやとうりょは匈奴系遊牧民、

ちなみに、

唐を開いた李氏とメッチャ姻戚。


可朱渾道元かしゅこんどうげん霊州れいしゅうから東北に向かって雲州うんしゅうから

東魏に入っているので風陵は関係しなさそう。


夏州かしゅうを襲うにしても山西の西河せいかあたりから

黄河を渡って最短ルートで突撃するだろうし、

万俟普撥ぼくきふはつが東魏に降った時は、


『周書』文帝紀

太祖は輕騎を勒して之を追い、河北千餘里に至るも、

及ばずして還る。


という宇文泰の行動の記録があるので、

蒲坂ほはんから河東に渡ったとは考えられないのよ。

おそらく河套かとうから東魏に入ったんでしょうね。


そう考えると、

高歓が爾朱氏を平定した直後の天平元年の初め、

費也頭虜を河東に移す際と考えるのが妥当かと。


当時の状況としては、

風陵津の西の関中には賀抜岳がばつがくが軍閥化しており、

高歓は風陵に登って関中を眺めたのでしょうか。


ちょっと中二気味。


そこで書かれる檄文はまあありふれたもので、

関中の豪族に従うよう求めるものでしょう。


起草するよう命じられた李義深りぎしん李士略りしりゃくは辞退、

代わりに孫搴を推薦しているわけですけれども、

孫騰の仕込みがあった可能性アリですかねー。


辞退する理由が不明。


天平元年正月の時点の北魏帝は文帝=元脩げんしゅう

洛陽にあって高歓が擁立している状態です。


なので、

関中の勢力にも皇帝の名の詔でいいじゃね?

という気もしますけど、どうなんでしょうね。


高歓は孫搴を自らの帳=テントに連れ込んで

火を吹いて明かりをつけ、檄文を催促します。


孫搴は筆を執るとたちどころに檄文を書き上げ、

その文章を気に入られて丞相府じょうしょうふ主簿しゅぼを拝命する。


ありがちなお話ではあります。




又能通鮮卑語、兼宣傳號令、

當煩劇之任、大見賞重。

賜妻韋氏、既士人子女、

又兼色貌、時人榮之。

尋除左光祿大夫、常領主簿。


又た能く鮮卑語に通じ、兼ねて號令を宣傳す。

煩劇の任に當たり、大いに賞め重んじらる。

妻韋氏を賜わるに、既にして士人の子女なり。

又た色貌を兼ね、時人は之を榮とす。

尋いで左光祿大夫に除せられ、常に主簿を領す。



丞相府主簿として用いられてからの活躍ぶり。


鮮卑語に通じていたので高歓の号令を代読する、

そういう任務も担っていたようです。


しかし、

鮮卑語って北魏末の洛陽では禁止されて

使ってはダメだったはずなのですよねえ。


思うに、青州から洛陽に出た頃、

鮮卑語は話せなかったのではないかと。


行臺こうだいに所属して様々な土地を

転戦する間に身につけたのでしょうね。


その一方、

丞相府の激務にあって有能さを買われ、

漢人名門の韋氏いし出身の妻を賜っています。


詳細はないですけど、おそらく、

京兆けいちょう杜陵とりょうの韋氏かと推測されます。


「賜」という以上は韋氏の子女のうち、

後宮に入っていた者が皇帝の命により

孫搴に嫁がされたということでしょう。


美人だったようですよ、おめでとうございます。


朝廷では左光祿大夫さこうろくたいふの官に昇り、

主簿は常に帯びていたようです。


そんなわけで栄達した孫搴ですが、

東魏で栄達するとツキモノなのが

汚職・口利きというわけでして、

孫搴もキッチリやらかしております。


アレ、一回で終わらなかった。

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