蘇綽⑨激務の果て。

もうタイトルからして

ちょっとアレな感じの

蘇綽さん最終話でございます。


「六條詔書」を読み終わりましたが、

歴史モノ好きでもコイツを読むのは

なかなかにマニアックだと思います。


あんまりオモシロくないからですね。

人が活躍しないとやっぱりねえ、と。


「六條詔書」の施行は大統十一年(545)、

蘇綽さんは48歳、早くもアラフィフです。


その後の蘇綽さんを見ていきましょう。




綽性儉素、不治產業、家無餘財。

以海內未平、

常以天下為己任。

博求賢俊、共弘治道、

凡所薦達、皆至大官。

太祖亦推心委任、而無間言。


綽は性儉素にして、產業を治めず、家に餘財なし。

海內の未だ平らがざるを以て、

常に天下を以て己が任と為す。

博く賢俊を求め、共に治道を弘めんとし、

凡そ薦達するところ、皆な大官に至る。

太祖は亦た心を推して委任し、而して間言するなし。



蘇綽さん、武功の名門なのにお商売など

副業は手がけていなかった模様なのです。


おかげさまで「家に余財なし」、ビンボーです。


といっても農業はしていたはずですし、

武功蘇氏ともなれば一族郎党盛り沢山。


「食うに困らないけど贅沢はできない」

それが蘇氏の実情だったと推測されます。


北魏が東西に分かれた時代でしたが、

蘇綽さんは乱世にあって天下平定が

己の務めと意気込んで吏務にまい進、

「賢良を擢く」で見たように人材登用に

意を用いて推挙した多くは大官に上り、

西魏の統治を支えたわけであります。


太祖=宇文泰も深く信任していたようですが

その信任の様はどのようだったでしょうか?




太祖或出遊、

常預署空紙以授綽、

若須有處分、則隨事施行、

及還、啟之而已。


太祖の或いは出遊するに、

常に預め空紙に署して以て綽に授け、

若し須く處分あらば、則ち事に隨いて施行せしめ、

還るに及び、之を啟するのみ。



宇文泰が本拠地を空ける際、

蘇綽は署名済みの白紙をもらっていました。


何かあれば、宇文泰の署名入りの白紙に

蘇綽が命令を書き込んで発令したのです。


いわゆる、丸投g、、、

じゃなくて白紙委任、白紙委任です。


宇文泰が還ると蘇綽は何をしたかを報告し、

宇文泰「ふんふん、おつかれさま」という。


信頼関係が強固ですよねえ、エモい?


ちなみにこの頃、

宇文泰は長安にいません。


長安より東、関中の門戸の蒲坂ほはん潼関どうかん

両睨みできる同州どうしゅうに常駐していました。


同州はそれ以前、華州かしゅうとも呼ばれました。


この同州には隋の文帝ぶんてい楊堅ようけんの祖父の楊忠ようちゅう

唐の太祖たいそ李淵りえんの祖父の李虎りこといったメンツも在中。


隋唐世界帝国のゆりかごみたいな場所ですね。

当然、

宇文泰の腹心である蘇綽さんも同州在住です。


組織的に見ますと、

西魏朝廷は皇帝を中心とする官僚連中で長安、

大行台は宇文泰を中心とする軍政組織で同州、

朝廷は大行台の傀儡かいらいってワケでございまして。


このあたり、面倒クサイ言い方をすれば、

政治のぎょうと軍事の晋陽しんようという東魏に対し、

西魏は政治の長安と軍事の同州の体制です。


こういう軍政分離は三国の魏から始まっており、

一般に覇府制はふせいと言うらしいんですけども、

どうでもいいですね、ハフんハフん。




綽嘗謂治國之道、

當愛民如慈父、

訓民如嚴師。

每與公卿議論、自晝達夜、

事無巨細、若指諸掌。

積思勞倦、遂成氣疾。

十二年、卒於位、時年四十九。


綽は嘗て治國の道を謂うに、

當に民を愛すること慈父の如くし、

民を訓むに嚴師の如かるべし、と。

每に公卿と議論して晝より夜に達し、

事に巨細なく、諸を掌に指すが若し。

思を積みて勞倦し、遂に氣疾を成す。

十二年、位に卒す。時に年四十九なり。



そんな蘇綽さんでありますが、

統治の方針は「六條詔書」で言う

民を愛すること慈父のごとく、

民を教えること教師のごとく。


政治の議論を日夜つづけて飽きない、

いわばワーカホリックでございます。


まあ単純に働きすぎですね。


「六條詔書」施行翌年(546)、

ついに過労のためにぶっ倒れてしまい、

そのまま帰らぬ人となってしまいます。


つまり、

このあたりが諸葛亮なのです(サイテーか


享年四十九歳でございました。

「六條詔書」、ほぼ遺書やん。


そら、宇文泰も座右に置くわ。




太祖痛惜之、哀動左右。

及將葬、乃謂公卿等曰、

「蘇尚書平生謙退、敦尚儉約。

吾欲全其素志、

便恐悠悠之徒、有所未達。

如其厚加贈諡、又乖宿昔相知之道。

進退惟谷、孤有疑焉」。

尚書令史麻瑤越次而進曰、

「昔晏子、齊之賢大夫、一狐裘三十年。

及其死也、遺車一乘。

齊侯不奪其志。

綽既操履清白、謙挹自居、

愚謂宜從儉約、

以彰其美」。

太祖稱善、因薦瑤於朝廷。


太祖は之を痛惜し、哀は左右を動す。

將に葬せんとするに及び、乃ち公卿等に謂いて曰わく、

「蘇尚書は平生謙退にして、敦く儉約を尚ぶ。

吾れは其の素志を全うせんと欲するも、

便ち悠悠の徒の未だ達せざるところあるを恐る。

如し其れ厚く贈諡を加うれば、又た宿昔相知の道に乖らん。

進退は惟に谷まれり、孤に疑うあり」と。

尚書令史の麻瑤は次を越えて進みて曰わく、

「昔、晏子は齊の賢大夫なるも、一狐裘を三十年せり。

其の死するに及ぶや、車一乘を遺る。

齊侯は其の志を奪わざるなり。

綽は既に清白を操履し、謙挹して自ら居る。

愚の謂うらく、宜しく儉約に從い、

以て其の美を彰らかにせん」と。

太祖は善しと稱え、因りて瑤を朝廷に薦む。



宇文泰はその死をひどく悲しんで、

その様子は左右の者も涙するほど。


メチャ働かせて亡くなると慟哭、

宇文泰のサイコパス性全開です。


さらに、

葬儀の直前には公卿に愚痴っております。

蘇尚書そしょうしょ(蘇綽)は常に倹約してたけど、

葬儀を盛大にせんと陰口叩かれるわなあ、、、どうしよ」


当時は「盛大な葬儀=生前ご立派」なので、

蘇綽の勲功を考えると盛大にすべきところ。


ただ、本人はそんなん全然望まないわけで、

宇文泰はどうするか躊躇ちゅうちょしておったのです。


そこに、

尚書令史しょうしょれいし麻瑤まようという者が

身分を顧みずにしゃしゃり出て言います。

令史はけっこう身分低いッス。

せい晏嬰あんえいは一つの皮衣を三十年使いましたので、

その死に際して君主は車一台を贈りました。

蘇尚書も生前の志を尊重して薄葬にすべき」


宇文泰はその意見に従うとともに、

麻瑤を長安の朝廷に推薦しました。


この麻瑤という人は大行台尚書だいこうだいしょうしょの属官なので、

蘇綽さんに親しんでいたのかも知れませんね。




及綽歸葬武功、

唯載以布車一乘。

太祖與羣公、皆步送出同州郭門外。

太祖親於車後酹酒而言曰、

「尚書平生為事、妻子兄弟不知者、

吾皆知之。

惟爾知吾心、吾知爾意。

方欲共定天下、

不幸遂捨我去、奈何」。

因舉聲慟哭、不覺失巵於手。

至葬日、又遣使祭以太牢、

太祖自為其文。

綽又著佛性論、七經論、並行於世。

明帝二年、以綽配享太祖廟庭。


綽の武功に歸葬するに及び、

唯だ載するに布車一乘を以てす。

太祖と羣公は、皆な步送して同州の郭門外に出ず。

太祖は親ら車後に酹酒して言いて曰わく、

「尚書の平生事を為すに、妻子兄弟の知らざるは、

吾れ皆な之を知る。

惟だ爾は吾が心を知り、吾は爾の意を知る。

方に共に天下を定めんと欲するも、

不幸にして遂に我を捨てて去れり。奈何せん」と。

因りて聲を舉げて慟哭し、巵を手より失うを覺えず。

葬日に至り、又た遣使して祭るに太牢を以てし、

太祖は自ら其の文を為る。

綽は又た佛性論、七經論を著し、並びに世に行わる。

明帝二年、綽を以て太祖の廟庭に配享す。



蘇綽さん(遺体)の帰郷となりますと、

遺体は布を張った車に乗せられて出発。


宇文泰やその部下たちが同州の外門まで

見送りに出ました。


宇文泰は車の後ろで酹酒らいしゅ

つまり地面にお酒を注いで清めを行い、

嘆いてこう言ったそうです。


「蘇尚書の行いは妻子が知らぬことでも我は知っている。

我の心は蘇尚書のみが知り、我は尚書の意を知っていた。

ともに天下を定めようと望んでいたのに、不孝にして

我を捨てて去るとは、これからどうすればよいのか」


慟哭どうこくして酒壺を落としたことに気づかなかったそうです。

いやますサイコパス感。


故郷の武功で葬られる際には、

太牢たいろう、つまり牛羊の肉を持った使者を遣わし、

宇文泰みずからが記した弔文も持たせたそうです。


なお、

蘇綽さんには『佛性論』、『七經論』の著作があり、

当時の人に読まれました。


死ぬほど忙しいのに趣味はキッチリかよ、、、


以降は余談である。


その死から十四年後、

北周ほくしゅう明帝めいてい二年(560)、

蘇綽は北周の文帝廟ぶんていびょう

つまり宇文泰の廟に祀られました。


これを配享はいきょうと言います。


また、蘇綽さんの子の蘇威そいは、

宇文泰の甥の宇文護うぶんごの娘と結婚して

車騎大將軍しゃきだいしょうぐん儀同三司ぎどうさんしに任じられており、

そのまま隋まで生き残ります。


隋の文帝楊堅の開皇かいこう年間に入りますと、

蘇綽さんは前代の偉人として勲功を顕彰され、

その家は邳國公ひこくこうに封じられました。


少なくとも隋の頃までは、

蘇綽さんの偉業は知られておったわけです。


文官でここまで名を残した人は、

北魏末にあまり見あたりません。


それだけ、

蘇綽さんは傑出していたわけです。


ただ、西魏から北周に伝えられた官制は

ほとんど隋に継承されませんでした。


宇文泰と蘇綽さんの作った関中政権は、

いわば北魏末のあだ花のようなもので、

巨大な統一王朝の運営には不適だった、

のかも知れません。


ちなみに、

蘇綽さんの死より150年ほど過ぎた頃、

中宗ちゅうそうを毒殺した韋后いこうの摂政を拒んだ

蘇瓌そかいという宰相がおりました。


この蘇瓌は蘇綽さんの玄孫げんそん=孫の孫にあたります。

武功蘇氏は100年以上も名門の家柄でありました。

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