蘇綽②2年目の新人だけどアラフォーです。
さて、数え40歳目前の蘇綽さん、
いよいよフル稼働が始まります。
まさに「四十にして勃つ」、
つまり、これは下ネタです。
官職について2年、ピカピカの新人。
それでも行臺ではみんなに頼られる。
西魏の官僚のみなさんって一体、、、
▼
屬太祖與公卿往昆明池觀漁、
行至城西漢故倉地、
顧問左右、莫有知者。
或曰、
「蘇綽博物多通、請問之。」。
太祖乃召綽。具以狀對。
太祖大悅、
因問天地造化之始、歷代興亡之迹。
綽既有口辯、應對如流。
太祖益喜。
乃與綽並馬徐行至池、
竟不設網罟而還。
太祖の公卿と昆明池に往きて漁を觀るに屬き、
行きて城西の漢の故倉の地に至り、
左右を顧みて問うも、知る者あるなし。
或るもの曰わく、
「蘇綽は博物にして多通、請うらく之を問わん」と。
太祖は乃ち綽を召すに、具に狀を以て對う。
太祖は大いに悅び、
因りて天地造化の始、歷代興亡の迹を問う。
綽は既にして口辯あり。應對は流るるが如し。
太祖は益々喜ぶ。
乃ち綽と馬を並べて徐行して池に至るも、
竟に網罟を設けずして還れり。
▲
フル稼働のきっかけは、宇文泰の観漁、
これは儀礼の一つで君主が漁を観覧します。
見るだけ。
宇文泰&公卿ズがそこに向かう途中、
長安の西にある漢代の遺跡を目にします。
宇文泰「アレ何よ?」
公卿ズ(・・・・知らんがな)
ワンオブ公卿ズ「蘇綽が物知りですよ」
蘇綽「あれは漢代の倉の跡地っスわ」
これだけで済むお話のはずですが、
なぜか宇文泰は
といった大問題を蘇綽に問い、
蘇綽は立て板に水でそれに答えたと。
会話の流れが全然見えないんですけど。
宇文泰って分裂症気味だったのかなあ。
ウソくさい、なんでやねん。
ただ、伏線っぽい記事があります。
▼
『周書』蘇亮伝
亮少與從弟綽俱知名。然綽文章少不逮亮、至於經畫進趣、亮又減之。故世稱二蘇焉。
亮は少くして從弟の綽と俱に名を知らる。然れども綽の文章は少しく亮に逮ばず、經畫進趣に至りては、亮は又た之に減ず。故に世は二蘇と稱す。
▲
蘇亮は能文家で蘇綽を凌いでおりましたが、
実務では蘇綽に軍配が上がったようなのです。
そして、そのことはよく知られていたようです。
なもんで、宇文泰としてはこの機に試したれ、
という気持ちもあったのかも知れませんねえ。
うーん、でもなんか違う気もする。
蘇綽がどこまで名が売れていたかというと、
売れていたらこんな逸話もいらんはずだし。
蘇亮と名を等しくしたのは激務化した後かな。
いずれにせよ、
蘇綽の応対が気に入った宇文泰は話し込み、
昆明池に行っても漁を見ず帰ってしまいます。
何しにきたの?
▼
遂留綽至夜、問以治道、太祖臥而聽之。綽於是指陳帝王之道、兼述申韓之要。太祖乃起、整衣危坐、不覺膝之前席。語遂達曙不厭。詰朝、謂周惠達曰「蘇綽真奇士也、吾方任之以政。」。即拜大行臺左丞、參典機密。自是寵遇日隆。綽始制文案程式、朱出墨入、及計帳・戶籍之法。
遂に綽を留めて夜に至り、問うに治道を以てし、太祖は臥して之を聽く。綽は是に帝王の道を指陳し、兼ねて申韓の要を述ぶ。太祖は乃ち起ち、衣を整えて危坐し、膝に席を前むを覺えず。語りて遂に曙に達するも厭わず。詰朝、周惠達に謂いて曰わく「蘇綽は真の奇士なり。吾は方に之に任ずるに政を以てせん」と。即ち大行臺左丞を拜し、機密に參典す。是より寵遇は日に隆し。綽は始めて文案の程式、出を朱として入を墨とすを制し、計帳・戶籍の法に及ぶ。
▲
しかも、宇文泰は蘇綽を自分の家に連れ帰り、
夜を徹して統治の術について問うたわけです。
最初は横になってヤル気ゼロの宇文泰ですが、
蘇綽が帝王の道と申韓の要を語りつづけると、
容姿を改め、話に聞き入ってしまいます。
それも朝まで。
ちなみに、「申韓の要」とはつまり、
戦国時代の韓の
いずれも法家思想に分類される学問です。
なるほど、
戦国の韓って法家が発達した国なんですね。
法家は法律重視の実務的学問ですので
宇文泰のハートにヒットしたわけです。
宇文泰は実務にしか興味ない朴念仁。
翌朝、宇文泰は周惠達に
「蘇綽マジ奇士、政治を任せるわ」
と言い、大行臺の実務トップの
みんなが「王佐の才」と言っていたのに、
しかもそれを聞き及んでいたにも関わらず
宇文泰は自分で試さないと信じないワケ。
人間不信な人柄が偲ばれます。
それより、実務はひたすら蘇綽に委ね、
蘇綽は公文書の書式や財政の管理方法を定め、
いよいよ蘇綽無双がスタートするわけですね。
▼
大統三年、齊神武三道入寇、諸將咸欲分兵禦之。獨綽意與太祖同。遂併力拒竇泰、擒之於潼關。
大統三年、齊神武の三道にて入寇するに、諸將は咸な兵を分ちて之を禦がんと欲す。獨り綽の意のみ太祖と同じうす。遂に力を併せて竇泰を拒み、之を潼關に擒う。
▲
おそらくその翌年にあたる大統三年(537)、
いよいよ40歳になった蘇綽さんですけども
その一方で西魏は危機に瀕しておりました。
当然、原因は東魏の高歓。
東魏の軍勢が
劣勢にあった西魏は決断を迫られることとなります。
何しろ、軍勢が全然足りません。
東魏の軍事拠点の
一方で黄河南岸から
洛陽の南から
関中から見ると、東の2つの正門の蒲坂と潼関、
南の裏門である武関を同時に攻められる形です。
蒲坂と潼関の間は黄河と渭水で阻まれていて
連携できないんですよねー、個別対処です。
完全にトドメを刺しに来ています。
西魏にとってマックスに危機です。
兵を分ければどこも防ぎきれず、
一か所に集中するにも思い切れない。
この時、宇文泰は潼関が本命と観ていました。
理由はたぶん指揮官の竇泰。
竇泰という人は高歓の妻の妹の婿ですけども、
東魏の騎兵隊の指揮官として有名な人でした。
高歓が速戦でケリをつけた戦の先鋒は常に竇泰、
いわば東魏の精鋭部隊を統率していたわけです。
戦場以外ではボンヤリさんみたいですけど、
『水滸伝』で言うと林冲みたいなイメージ。
竇泰を退ければ他の二軍は軍を返す、
それが宇文泰の読みです。
ギャンブルですからマトモな人は賛成しません。
当然、大半の部下は大反対しました。
ただ、蘇綽と一部の人たちはその読みに賛成し、
宇文泰はついに賭けに打って出ることに決し、
竇泰を打ち取って急場を凌いだのでありました。
高歓の戦は淡泊なのですよねえ。
そんなだからダメなんだわ。
蘇綽は戦略眼もそれなりにあった、
という逸話でありました。
▼
四年、加衞將軍・右光祿大夫、封美陽縣子、邑三百戶。
四年、衞將軍・右光祿大夫を加え、美陽縣子、邑三百戶に封ぜらる。
加通直散騎常侍、進爵為伯、增邑二百戶。
通直散騎常侍を加え、爵を進めて伯と為し、邑二百戶を增す。
十年、授大行臺度支尚書、領著作、兼司農卿。
十年、大行臺度支尚書を授けられ、著作を領し、司農卿を兼ぬ。
▲
さて、それ以降の蘇綽さんですが、
大統四年(538)に衞將軍・右光祿大夫を加えられ、
さらに
大統十年(544)には
働きすぎ。
おそらく、大統十年に大行臺度支尚書に遷るまで
大行臺左丞はずっとつづけており、そこに色々と
官を追加されていったのでしょう。
ブラック企業特有の役職兼任です。
さすが西魏。
財務に加えて農政も兼任したわけですから、
西魏内政の総責任者となった観があります。
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太祖方欲革易時政、務弘彊國富民之道。故綽得盡其智能、贊成其事。減官員、置二長、并置屯田以資軍國。
太祖は方に時政を革め易えんと欲し、彊國富民の道を弘めんと務む。故に綽は其の智能を盡くすを得て、其の事に贊成す。官員を減して、二長を置き、并せて屯田を置きて以て軍國に資す。
▲
実際のところ、宇文泰が西魏で推進した
富国強兵策は蘇綽が実現したわけですね。
具体的には官吏を省いて
屯田を広げて軍費を賄ったわけであります。
それだけ聞くとフーンですけど実際は戦時です。
これだけでも相当の激務であったと見られます。
大統十年くらいまではこういう感じみたい。
西魏は東魏の攻勢をひらすら支えつづける。
蘇綽は財務面でそれをひたすら支えた。
その一方で宇文泰&蘇綽は先々を見据えて
西魏のあるべき統治を模索していたクサイ。
その結論は史料として残っております。
これが「六條詔書」であるわけですね。
次からはそれを読んでいきますけど、
正直、あんまりオモシロくないかも。
何しろ、人が出てきませんからねー。
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