蘇綽(西魏)「西魏の諸葛亮かも ※内政に限る」

蘇綽①けっこう名門、武功蘇氏。

蘇綽そしゃくという人は歴史的に有名な人です。

西魏の「六條詔書ろくじょうしょうしょ」を起草した人ですね。


また、中国史上屈指の「社畜」としても有名、

死因は間違いなく過労死。


この人の重要性は西魏という激ヨワ国家の

基礎を固めたことにあります。


宇文泰&蘇綽が西魏の基礎を固めた、

といっても大きな誤りはありません。


そもそも当初の勢力を比較すると、

西魏が東魏に敵うはずないのです。

・版図は関中だけ、蜀は梁の領地

・北魏の官僚集団は東魏に所属

・六鎮の鮮卑兵団の大半も東魏に所属

・支配層の鮮卑が少なく土着漢人が強い

とまあ三国蜀末期レベルにハードモード。


フツーに考えると、東魏の圧勝で終わります。


歴史的には西魏とそれを継いだ北周は、

劣勢を覆して東魏を継いだ北齊を併呑、

遂に統一国家「隋」の母体となります。


ただ、西魏の施策はメチャクチャ地味。

「当たり前のことを当たり前にやる」

これが西魏の施策の神髄でありました。


それを六條詔書から読み解いてみたい。

そのように思うワケであります。


それでは、『周書』蘇綽伝を読んでいきます。



『周書』蘇綽伝

蘇綽、字令綽、武功人。

魏侍中則之九世孫也。累世二千石。

父協、武功郡守。

綽少好學、博覽羣書、

尤善筭術。


蘇綽、字は令綽、武功の人なり。

魏の侍中の則の九世孫なり。累世二千石たり。

父の協は武功郡守たり。

綽は少くして學を好みて羣書を博覽し、

尤も筭術を善くす。



左様ですか。


蘇綽の出身は長安の西の武功ぶこう

先祖は三国魏に仕えた蘇則そそくという人です。


蘇則の事績は『三國志』魏書十六任蘇杜鄭倉傳第十六にあり、

曹操の張魯平定の際に案内役を務めて用いられたようです。


その頃から武功にいたようですので、

地元では有力な家柄だと分かります。


こういう名門漢人は官僚になります。


蘇氏も例外ではなく父の蘇協そきょうは武功郡守、

要するに地元の郡の長官となっていたのですねえ。


つまり、蘇氏は地元の統治を務める家柄、

身近に郡の行政があったということです。


そのためか、蘇綽は学問好きでありました。

なかでも「筭術さんじゅつ」を好んだそうです。


この「筭術」とはつまり「算術」です。


漢の頃には『九章筭術きゅうしょうさんじゅつ』という書物があり、

これは数学の問題集だったようですけど

単なる計算ドリルではないようですよ。

 方田第一

 粟米第二

 差分第三

 少廣第四

 商功第五

 均輸第六

 盈不足第七

 方程第八

 句股第九

章立てを見る限り行政に必要な問題で

構成されていたようです。


つまり、

統治のために必要な算術なのです。


実用的。


蘇綽という人は実学に通じていたわけです。




從兄讓為汾州刺史、太祖餞於東都門外。臨別、謂讓曰「卿家子弟之中、誰可任用者?」。讓因薦綽。太祖乃召為行臺郎中。


從兄の讓は汾州刺史と為り、太祖は東都門外に餞せり。別るるに臨み、讓に謂いて曰わく、「卿家の子弟の中、誰ぞ任用すべき者あらんや?」と。讓は因りて綽を薦む。太祖は乃ち召して行臺郎中と為す。



その蘇綽さんの従兄の蘇讓そじょうという人が

太祖=宇文泰に仕えて河東の刺史に任じられた、

その際のやりとりがきっかけで世に出ます。


蘇讓には蘇亮そりょう蘇湛そたんという兄があり、

特に蘇亮は蘇綽と並び称される人だったようです。


一方、蘇讓は丞相となった宇文泰に抜擢され、

衞將軍えいしょうぐん南汾州刺史なんふんしゅうししとして出鎮したようです。


この時、宇文泰と以下の会話がありました。

「オマエの一族で誰かイイ奴おらんの?」

「蘇綽というモノがオススメですな」


そういうわけで、宇文泰の行臺郎中こうだいろうちゅうに任用されます。

この時、宇文泰は西魏の丞相じょうしょうでありますが、

あわせて関西大行臺かんさいだいこうだいという職を兼ねておりました。


大行臺は非常置の官ですね。

正式名称は行臺尚書省こうだいしょうしょしょう


異民族の侵入や叛乱など危機の際に

数州をまとめて面倒を見る官職です。


たぶん、軍事も政治も両方兼任。

そこの幕僚となったわけですね。


時期はおそらく大統元年(535)、

38歳の時かと思われます。


この時、宇文泰は31歳でした。


つーか、38歳までは何していたかと言うと、

おそらく実家の仕事をしていたのでしょう。




在官歲餘、太祖未深知之。然諸曹疑事、皆詢於綽而後定。所行公文、綽又為之條式。臺中咸稱其能。


官に在ること歲餘、太祖は未だ深く之を知らず。然れども諸曹の疑事は、皆な綽に詢りて後に定む。行う所の公文、綽は又た之が條式を為す。臺中は咸な其の能を稱せり。



とはいえ、いきなり信任されるわけもなく。

何しろこの時期の宇文泰はひたすら戦です。


蘇綽は地味ながら徐々に能力を表していき、

一年後には行臺に不可欠の人にまでなります。


万事、蘇綽に諮った後に決したくらいです。

また、公文書の体裁を定めてもおります。


こうして、

行臺で誰もが頼りにするようになりました。




後、太祖與僕射周惠達論事、惠達不能對、請出外議之。乃召綽、告以其事、綽即為量定。惠達入呈、太祖稱善、謂惠達曰「誰與卿為此議者?」。惠達以綽對、因稱其有王佐之才。太祖曰「吾亦聞之久矣」。尋除著作佐郎。


後に太祖の僕射の周惠達と事を論ずるに、惠達は對うるあたわず。外に出でて之を議さんことを請う。乃ち綽を召し、告ぐるに其の事を以てし、綽は即ち量定を為す。惠達は入りて呈し、太祖は善しと稱う。惠達に謂いて曰わく、「誰ぞ卿と此の議を為すか?」と。惠達は綽の對うるを以てし、因りて其れ王佐の才ありと稱う。太祖は曰わく、「吾れも亦た之を聞くこと久し」と。尋いで著作佐郎に除せらる。



蘇綽がいよいよ宇文泰に用いられますが、

記事はちょっと妙な感じになっております。


きっかけは宇文泰と周惠達しゅうけいたつのやりとり。

この人の転機はこんなんばっか。


周惠達は宇文泰が出征の際に留守を任される、

初期の西魏を支えた重臣の一人であります。


宇文泰「これってどうなってんの?」

周惠達「あ、ちょっと分からん。確認してくる」

 周惠達は外で蘇綽に確認して戻る。

周惠達「こういうことじゃわ、問題なし」

宇文泰「誰に聞いたんよ?」

周惠達「蘇綽。アレ王佐の才だわ」

宇文泰「知ってる(ドヤ」


ここで周惠達は「僕射ぼくや」とされてますけど、

周惠達は大統四年に尚書右僕射しょうしょゆうぼくやを兼任してます。


ただ、同年に蘇綽は衞將軍えいしょうぐん右光祿大夫ゆうこうろくたいふの官を

加えられているのでいまさら著作佐郎ちょさくさろうかよ、と。


しかも、僕射は西魏の丞相職ですから

行臺郎中とは命令系統が別なのよね。


宇文泰が大行臺に任じられた際、

周惠達は行臺尚書こうだいしょうしょに任じられておりますので、

こちらなら大行臺内で命令系統も正しくなります。


たぶん、「僕射」は誤り。


大統元年頃に行臺郎中に登用され、

翌年(536)に著作佐郎に遷った、

と考えるのがよさげ。


この時、蘇綽は39歳、

早くもアラフォーです。

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