邢子才⑤逸話集(抜粋)&生きたくても生きられないこんな世の中なのに大往生しました。
▼邢子才さん逸話集(抜粋)
東魏から北齊の逸話が伝にないので、
他の伝から逸話をちょこっとご紹介。
こういうところも、
邢子才さんの立ち位置が忍ばれます。
トリックスターではあっても、
主役じゃない。
だから、
ご当人の伝より他の人の伝の方に
逸話が収録されてしまうのですね。
まずは、東魏の頃の逸話です。
▽
『北齊書』孫搴伝
搴學淺而行薄,
邢卲嘗謂之曰、
「更須讀書。」
搴曰、
「我精騎三千,
足敵君羸卒數萬。」
搴は學淺くして行い薄し。
邢卲は嘗て之に謂いて曰わく、
「更に須く書を讀むべし」と。
搴は曰わく、
「我が精騎三千、
君の羸卒數萬に敵するに足れり」と。
△
孫搴という人は、
東西魏の抗争時期の初めに高歓に仕え、
檄文などを取り仕切った実務派の人です。
ぶっちゃけ家柄はあまりよくないです。
高歓の腹心の一人である孫騰の一族、
ということで用いられたところもあり、
正統な文学を修めた人ではなかった。
行いもあまりよろしくなかったのですね。
邢子才さん「本を読まんといけんよ」
孫搴「つまらん本の多読は意味なし」
ちょっと面白い。
何が面白いかと言うと、
邢子才さんは孫搴の無学薄行を問題視し、
それらを改めるのに読書をオススメします。
孫搴はただ文章に関わる修辞や語彙だけを、
技術論として論じているように思えます。
つまり、
孫搴という人にとって、
読書は修養の手段ではない。
一方、
邢子才さんにとって、
読書は人となる要でした。
この会話、
実は噛みあっていないと思います。
読書観の違いというヤツですねえ。
よく見るやり取りではあります。
少々時代を下り、
北魏の頃には年下の友人もいたようですよ。
▽
『北齊書』封孝琬伝
孝琬性恬靜,頗好文詠。
太子少師邢卲、七兵尚書王昕
並先達高才,
與孝琬年位懸隔,
晚相逢遇,分好遂深。
孝琬靈櫬言歸,
二人送於郊外,
悲哭悽慟,有感路人。
孝琬は性恬靜にして頗る文詠を好む。
太子少師の邢卲、七兵尚書の王昕は
並びて先達の高才たり。
孝琬と年位は懸隔するも、
晚く相い逢遇し、分好は遂に深し。
孝琬の靈櫬の歸を言うに、
二人は郊外に送り、
悲哭悽慟、路人を感ぜしむるあり。
△
この封孝琬という人は、
高歓の山東での挙兵に協力した元勲、
封隆之という人の甥にあたりますが、
幼くして父を失い、伯父に育てられます。
この時代、こういう人は多いです。
つまり、
個人ではなく一族単位で生存をかけて
戦っていたということなのでしょうね。
封孝琬は天保二年(551)、
36歳で亡くなります。
文人気質だったようで、
二周りは年上、50代半ばの
邢子才さん&王昕コンビと
仲良しだったみたいです。
その葬送にあたり、
二人は鄴の郊外まで見送りに出て、
悲哀する姿は行く人をも哀しませた、
それだけ仲良しだったのでしょうね。
その一方、
青州に一緒に行った王昕とは仲違いします。
どれだけ本気かはちょっと疑わしいですが。
▽
『北齊書』王昕伝
昕雅好清言,
詞無淺俗。
在東萊,
獲殺其同行侶者,
詰之未服,
昕謂之曰:
「彼物故不歸,
卿無恙而反,
何以自明?」
邢卲後見世宗,
說此言以為笑樂。
昕聞之,
故詣卲曰:
「卿不識造化。」
還謂人曰:
「子才應死,我罵之極深。」
昕は清言を雅好し、
詞に淺俗なる無し。
東萊に在り、
其の同行の侶を殺せる者を獲て、
之を詰るも未だ服さず。
昕は之に謂いて曰わく、
「彼は物故して歸らず、
卿は恙なくして反る、
何ぞ以て自ら明らかにせんや?」と。
邢卲は後に世宗に見え、
此の言を說きて以て笑樂と為せり。
昕は之を聞き、
故に卲に詣りて曰わく、
「卿は造化を識らざるなり」と。
還りて人に謂いて曰わく、
「子才は應に死すべし、
我は之を罵ること極めて深し」と。
△
王昕が青州の東莱太守となったことは
先に述べたとおりなのですけども、
そこでちゃんと政事をしていたらしい。
で、
二人の旅行者があり、
一人が相手を殺すという
事件が起きました。
取り調べにあたった王昕、
「同行者が死んでお前だけが生きている。どうやって自分の罪ではないと証明するつもりか!」
というところを、
「同行者は物故して帰らず、お前だけが恙無く帰った。どうやって自分の罪ではないと証明するつもりか!」
と気の利いた言い回しにしてしまう。
清談好きで「死ぬ」などの俗な言葉を
遣わないようにしていたのでしょうね。
それで、
「物故不歸」「無恙而反」という
言い回しを裁判で遣ったわけです。
邢子才は高歓の子の高澄=世宗に
このことを面白おかしく聞かせる、
笑い話にしていたのでしょうねえ。
持ちネタは準備するタイプですから。
ちなみに、
高澄は帝位についていませんから、
この時期はまだ東魏です。
それを知った王昕は怒り、
邢子才さんの許を訪れて詰ります。
「卿は造化というものを知らぬ」
ここで言う造化はおそらく、
至理のような意味かと思います。
ここでも気の利いた言い回し。
ただ、家に帰ってからは
「邢子才死ね、氏ねじゃなくて死ね」
とお怒りのご様子ですから、
面と向かって言えばいいのにねえ。
なんかヘンな二人です。
政局絡みの笑えないお話もあります。
▽
『北齊書』廃帝紀
初文宣命邢卲
制帝名殷字正道,
帝從而尤之曰:
「殷家弟及,
『正』字一止,
吾身後兒不得也。」
卲懼,請改焉。
文宣不許曰:
「天也。」
因謂孝昭帝曰:
「奪但奪,慎勿殺也。」
初め、文宣は邢卲に命じて
帝の名の殷、字の正道を制せしむ。
帝は從りて之を尤めて曰わく、
「殷の家は弟に及び、
『正』字は一に止るなり。
吾の身の後、兒は得ざるなり」と。
卲は懼れ、改めるを請う。
文宣は許さずして曰わく、
「天なり」と。
因りて孝昭帝に謂いて曰わく、
「奪わば但だ奪え、慎みて殺すなきなり」と。
△
北齊を建国した高洋という人ですが、
文宣帝と諡されております。
で、
太子の高殷の名づけを
邢子才さんに命じました。
名は殷、字は正道としました。
それを聞いた高洋、
邢子才を睨みつけて言います。
「殷か。殷の家は代々弟に家督を譲ってきた。正の字を分解すると、『一に止まる』となる。吾が世を去った後、帝位は太子に受け継がれぬであろうよ」
これには邢子才さんも驚愕し、
名前をつけ直すと申し出ました。
高洋はそれを許さずに言います。
「天だ」
そういう事情もあり、世を去るにあたって弟の高演にはこう言いました。
「帝位を奪うならば好きにせよ。ただ、太子を殺すな」
高洋はまっとうな人とは言えないのですが、
こうして見ると、自分なりの哲学を持って
世の中を観ていたようにも思うのですね。
単純な悪役とするにはもったいない人です。
高殷は帝位を継ぎますが、短期間でした。
晋陽に蟠る元勲たちの支持を得た
高演に帝位を奪われるのです。
そして、
高洋の遺命は守られず、
高殷は殺害されてしまいます。
それを知った高歓の妻の婁昭君は、
ムスコの高演を口を極めて罵ったと伝えられます。
ホント、悲惨な一族だなあ。。。
最後は10歳下のライバル、
魏収の伝で締めたいと思います。
▽
『北齊書』魏収
尋兼中書舍人,
與濟陰溫子昇、河間邢子才齊譽,
世號三才。
尋いで中書舍人を兼ね,
濟陰の溫子昇、河間の邢子才と譽れを齊しくし、
世に三才と號さる。
收碩學大才,
然性褊,
不能達命體道。
見當途貴遊,
每以言色相悅。
然提奬後輩,
以名行為先,
浮華輕險之徒,
雖有才能,弗重也。
初河間 邢子才及季景
與收並以文章顯,
世稱大邢小魏,
言尤俊也。
收少子才十歲,
子才每曰:
「佛助寮人之偉。」
後收稍與子才爭名,
文宣貶子才曰:
「爾才不及魏收。」
收益得志。
自序云:
「先稱溫、邢,後曰邢、魏。」
然收內陋邢,心不許也。
收は碩學の大才なるも、
然して性は褊、
命に達して道を體する能わず。
當途の貴遊を見れば、
每に言色を以て相い悅ばす。
然れども後輩を提奬するに
名行を以て先と為し、
浮華輕險の徒は
才能ありと雖も重んじざるなり。
初め、
河間の邢子才、及び季景は
收と並びて文章を以て顯れ、
世に大邢小魏と稱し、
尤俊と言うなり。
收は子才より少きこと十歲、
子才は每に曰わく、
「佛助は寮人の偉なり」と。
後に收は稍く子才と名を爭い、
文宣は子才を貶しめて曰わく、
「爾が才は魏收に及ばず」と。
收は益々志を得る。
自序に云えらく、
「先に溫、邢と稱し、後に邢、魏と曰う」と。
然して收は內に邢を陋しとし、
心に許さざるなり。
△
魏収という人は、
温子昇、邢子才さんと並び、
文学で名を知られた人でした。
現在でも、
穢史=『魏書』の編者として大人気です。
がっつりワイロをもらったら
史書の記述を改めちゃうよ、
という
歴史家の努力を無に帰す名言で
中国史界隈で知らぬ者はいません。
ここから、
史料批判という慣例が発生しました。
それはウソです。
やはり人格的にはけっこうアレでして、
・権勢家にはへつらっちゃうよ
・後進の人はどんどん推薦するよ
・でも軽佻浮薄の人はダメよ
という方針の人でありました。
あれ?
冒頭以外はマトモ?
これだけ見ると、
やはりどうこう言いはしても、
孫搴のような確信犯と比して
邢子才さん側の人なんですよね。
文学の人なのです。
それだけに、
「大邢小魏」と言われるのは悔しく、
北齊の世に入ると、
「邢子才は魏収の才に及ばない」
という文宣帝=高洋の言葉もあり、
いよいよ邢子才を凌ぐようになります。
ただ、文人だけに厚顔には徹せず、
『魏書』自序でも「溫、邢」「邢、魏」
という世人の呼称を改めずに記録しております。
ちょっとカワイイ感じでありますね。
『顔氏家訓』文章編によると、
邢子才は沈約の平易かつ達意の文を好み、
魏収は任昉の典故を駆使する文を好んだ、
というように伝えられております。
祖孝徴
「邢子才と魏収の優劣を論じるのは、詰まるところ、沈約と任昉の優劣を論じることなのさ」
酒宴の席で議論がこの点に及ぶと、
二人は顔真っ赤で論じあったと
言いますから、目指す文章の方向も
まったく別だったのでしょうねえ。
何しろ、
北齊の文壇は、邢子才派と魏収派に
分かれるくらいだったそうですから。
邢子才さんはそういう顔もあったのです。
それでは、
邢子才さんの伝に戻ります。
▽
『北齊書』邢子才伝
文宣幸晉陽,
路中頻有甘露之瑞,
朝臣皆作甘露頌,
尚書符令卲為之序。
及文宣皇帝崩,
凶禮多見訊訪,
勑撰哀策。
後授特進,卒。
文宣の晉陽に幸するに、
路中に頻りに甘露の瑞あり。
朝臣は皆な甘露頌を作し、
尚書は符令して卲をして
之が序を為らしむ。
文宣皇帝の崩ずるに及び、
凶禮は多く訊訪され、
勑して哀策を撰せしむ。
後に特進を授かり、卒せり。
△
北齊建国の天保元年(550)、
ライバルの魏収は43歳でした。
10歳年上の邢子才さんは53歳。
東魏の文壇では、
魏収や祖孝徴といったあたりが
中心となっていき、邢子才さんは
徐々に中心から外れていきます。
サバイバル能力が高かった邢子才さん、
地雷臭に反応したのかも知れませんけど。
経書の章句に関心を移したのも、
このような事情が背景にあった、
と解釈できるように思います。
上文を見ても分かりますとおり、
北齊に入ってからの邢子才さん、
文人としての絶頂期は過ぎており、
ちょっとしたお仕事をするのみです。
ただ、
文宣帝=高洋が崩御した際には、
喪礼についてさまざまな諮問を
受けたようです。
実質的には、
これが邢子才さんの最後の仕事です。
それより程なくして、
邢子才さんも世を去ったようです。
亡くなった年と享年は伝わりません。
北齊の世になって以降は、
高官として勤めながらも
冒頭に見たような悠々とした
暮らしをしていたのでしょうね。
家庭は冷えても友達は多い。
文学について論じるのが楽しみ。
こんな殺伐とした時代ではありますが、
好きなように生きた人もいたことには
ちょっとした救いを感じてしまいます。
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