蘇綽③六條詔書その一「心を治むるを先にす」を読む。

さて、宇文泰の信任を得た蘇綽さん、

その目指すところが「六條詔書」です。


コイツは「六條」だけに六か条からなり、

 治心ちしんを先にす

 教化をあつくす

 地の利をくす

 賢良けんりょう

 獄訟ごくしょううれ

 賦役ふえきひとしうす

という六つの章からなっております。


正直、いまでも通用する部分があったり、

「はあ?」という部分もあったりします。


しかし、当時の理想的な政治を考えるには

なかなかよい材料でもあるのですよね。


それではさっそく。




又為六條詔書、奏施行之。

其一、先治心,曰、

凡今之方伯守令、

皆受命天朝、出臨下國、

論其尊貴、並古之諸侯也。

是以前世帝王、每稱共治天下者、

唯良宰守耳。

明知百僚卿尹、雖各有所司、

然其治民之本、莫若宰守之最重也。


又た六條詔書を為し、奏して之を施行す。

其の一「治心を先にす」に曰わく、

凡そ今の方伯・守令は

皆な命を天朝に受け、出でて下國に臨む。

其の尊貴を論ずれば、古の諸侯に並ぶなり。

是れ以て前世の帝王は、每に共に天下を治する者は、

唯だ良宰守あるのみと稱す。

明知の百僚・卿尹、各々司るところありと雖も、

然れども其の民を治むるの本は宰守の最も重きに若くはなきなり。



まずは方伯・守令、つまり、

州刺史、郡太守、縣令の重要性を説きます。


中央の官僚と違い、これらの官は民に直面します。

つまり、ここでしくじると天下が乱れるのです。


ゆえに、

「帝王とともに天下を治めるのは良宰守のみ」

とまで言い切るわけです。


西魏という国家がいかに統治に留意したか、

そういうことがよく伝わるかと思います。


実際のところ、少数の鮮卑族で多数の漢人を

統治しなければならない事情もありますしね。


地方行政で不満を感じさせるわけにはいかない。


そして、この六條詔書そのものが、

地方官に対して書かれたものなのですね。




凡治民之體、先當治心。

心者、一身之主、百行之本。

心不清淨、則思慮妄生。

思慮妄生、則見理不明。

見理不明、則是非謬亂。

是非謬亂、則一身不能自治、

安能治民也。

是以治民之要、在清心而已。


凡そ民を治むるの體は、先ず當に心を治むべし。

心は、一身の主、百行の本なり。

心の清淨ならざれば、則ち思慮に妄生ず。

思慮に妄生ぜば、則ち理を見るに明らかならず。

理を見るに明らかならざれば、則ち是非は謬亂す。

是非の謬亂せば、則ち一身も自ら治むるあたわず、

安んぞ能く民を治めんや。

是れ以て民を治むるの要は、清心に在るのみ。



お気づきのとおり、蘇綽の文章は平易です。

論旨が分かりやすい。


民を治めるにあたっては心を澄ませ、

心が澄んでいなければ妄説が生じ、

妄説が生じれば理を見る目が曇り、

目が曇れば是非を取り違える。

そんなんテメー一身も治められんのに

民を治めるなんぞできますかいな。


これを蘇綽は清心と呼んでおりますが、

さらにかみ砕いて説明していきます。




夫所謂清心者、非不貪貨財之謂也。

乃欲使心氣清和、志意端靜。

心和志靜、則邪僻之慮、無因而作。

邪僻不作、則凡所思念、無不皆得至公之理。

率至公之理以臨其民、則彼下民孰不從化。

是以稱治民之本、先在治心。


夫れ所謂清心は、貨財を貪らざるの謂にあらざるなり。

乃ち心氣をして清和、志意をして端靜ならしめんと欲しするなり。

心の和にして志の靜ならば、則ち邪僻の慮は因りて作るなし。

邪僻の作らざれば、則ち凡そ思念するところは皆な至公の理を得ざるなし。

至公の理を率きて以て其の民に臨まば、則ち彼の下民は孰んぞ從化せざらんや。

是れ以て民を治むるの本は先ず心を治むるにありと稱するなり。



いきなり、

「清心は清廉とはまったく違う」と言います。


清廉も求められがちですが、蘇綽はちょっと違う。

清廉の根っこの部分を求めているように思います。


具体的には、

心は和やかにして志は静であれ、というのですね。

なぜか?

心が和やかで志が静であればいらんことをしない。

いらんことをしなければ至公の理を得られる、と。


至公の理を得られればどうなるかというと、

民はその教化に従うと主張しております。


地方官は牧民官とも呼ばれますが、

民は官に指導されるべき者なのです。


少なくとも蘇綽の中では。


これは当時の郷村秩序に基づいており、

郷村では漢代の父老と同様に名門勢家が

土地を兼併して富を蓄積しつつ、一方で

郷村の秩序維持をも担っておったのです。


蘇綽の父が郡太守であったように、

地元の有力者が行政と一体化しています。


これはたぶんヨソもあまり変わりません。


官僚になった人々の多くは家と官の間で

板挟みになっていたと想像されるのです。


家の利と官の利の調整がそのお仕事、

かつ、地元の秩序も維持しないとダメ。


これが当時の官僚というヤツです。


それに対して蘇綽は、

「家の利を捨てて官と地元のためにせよ」

そう言ったと解釈するのがよいのかなと。




其次又在治身。

凡人君之身者、乃百姓之表、一國之的也。

表不正、不可求直影。

的不明、不可責射中。

今君身不能自治、而望治百姓、

是猶曲表而求直影也。

君行不能自脩、而欲百姓脩行者、

是猶無的而責射中也。

故為人君者、必心如清水、形如白玉。

躬行仁義、躬行孝悌、

躬行忠信、躬行禮讓、

躬行廉平、躬行儉約、

然後繼之以無倦、

加之以明察。

行此八者、以訓其民。

是以其人畏而愛之、則而象之、

不待家教日見而自興行矣。


其の次は又た身を治むるにあり。

凡そ人君の身は、乃ち百姓の表、一國の的なり。

表の正しからざれば、影の直ぐなるを求むるべからず。

的の明らかならざれば、中を射るを責むべからず。

今、君の身の自ら治むるあたわずして百姓を治むるを望むは、

是れ猶お曲がれる表にして影の直ぐなるを求むるがごときなり。

君の行いの自ら脩むるあたわずして百姓の行いを脩むるを欲するは、

是れ猶お的なくして中を射るを責むるがごときなり。

故に人君たるものは、必ず心は清水の如く、形は白玉の如し。

躬ずから仁義を行い、躬ずから孝悌を行い、

躬ずから忠信を行い、躬ずから禮讓を行い、

躬ずから廉平を行い、躬ずから儉約を行い、

然る後に之に繼ぐに倦むなきを以てし、

之に加うるに明察を以てす。

此の八を行わば、以て其の民を訓む。

是れ以て其の人は畏れて之を愛し、則りて之を象り、

家教の日々見るを待たずして自ら行いを興さん。



さらに蘇綽は

心を治めるとともに、身も治めろと言います。


ハードル高い。


これは別にカッコをちゃんとしろということではなく、

仁義、孝悌、忠信、禮讓、廉平、儉約を率先垂範しろ、

という意味に近いようです。


官吏がそうであってこそ、民はそれを手本とする、と。

手本を示さなければ、民も従いようがないと言います。


中国古代において

「礼は下民に下らず、刑は士大夫に上らず」

と言われるように民と士大夫は明確に分かれます。


要するに万人は平等ではないわけです。


あくまで蘇綽にとっての民は、

統治され、教化されるべき人々の集まりであって、

自発的に自らを改める人々ではなかったわけです。


ただ、

今、君の身の自ら治むるあたわずして百姓を治むるを望むは、

是れ猶お曲がれる表にして影の直ぐなるを求むるがごときなり。

君の行いの自ら脩むるあたわずして百姓の行いを脩むるを欲するは、

是れ猶お的なくして中を射るを責むるがごときなり。

という言い回しはなかなか刺さりますね。


「よきにはからえ」ではうまくいかないのです。

ちゃんと目標や理想を明確にしないとダメ、と。


このあたりは現代にも一脈通じますかねえ、、、


このように、「六條詔書」は地方官に対して、

自らの心から正せと迫っているわけですので、

どう考えてもブラック企業スレスレであります。

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