爾朱榮⑳二代目柱国大将軍襲名&葛榮って誰よ?

▼柱国大将軍(2代目)に任命されました。


晋陽に引き上げた爾朱榮ですが、

2ヶ月後の7月に詔があり、

柱国大将軍に任じられます。




『魏書』爾朱榮伝


七月、詔曰、

「乾坤統物、

星象贊其功。

皇王御運、

股肱匡其業。

是以

周道中缺、

齊晉立濟世之忠。

殷祚或虧、

彭韋振救時之節。

前朝失御、

厄運荐臻。

太原王榮、

爰戴朕躬、

推臨萬國。

勳踰伊霍,

功格二儀。

王室不壞,

伊人是賴。

可柱國大將軍、兼錄尚書事、

餘如故。」


七月、詔して曰わく、

「乾坤は物を統べ、

 星象は其の功を贊え、

 皇王は運を御し、

 股肱は其の業を匡く。

 是れ以て

 周道の中ばに缺くるも

 齊晉は世を濟うの忠を立て、

 殷祚の或いは虧くも

 彭韋は時を救うの節を振るう。

 前朝の御を失うより厄運は荐に臻し。

 太原王の榮は

 爰に朕の躬を戴き、

 推して萬國に臨ましむ

 勳は伊霍を踰え、

 功は二儀に格し。

 王室の壞れざるは、

 伊の人に是れ賴る。

 柱國大將軍、兼錄尚書事とし、

 餘は故の如かるべし」と。




柱國大將軍となっていますが、

柱國の官は戦国楚にありました。


上柱国とか、

上ウナギ丼みたいな感じで

アッパークラスだったみたい。


まあ、

おそらく無関係でしょうね。


『魏書』によりますと、

長孫嵩という人が太武帝から柱國大將軍に

任じられていますが、それ以外の例はなし。


なので、

爾朱榮は2代目柱国大将軍になります。


ちなみに、

長孫嵩は柱國大將軍となった後、

親征の際に留守を委ねられてます。


元老扱いはされていたみたい。

でも、

ていの良い引退勧告風でもある。


孝荘帝の願いが透けているような、

そうでもないような。


「柱国大将軍」というと北周、

八柱国、十二大将軍の制が有名です。


ネタ元はこのあたりだったのですかね。


宇文泰に始まる西魏→周の関中政権も

北魏→爾朱兵団の伝統の下にある、

と考えてよいのかも知れませんね。




▼葛榮が目をつけられた理由について。


爾朱榮が屋上に屋を架すように

柱国大将軍となる一方、

山東の葛榮がワラワラしてます。




『魏書』爾朱榮伝


時葛榮將向京師,

眾號百萬。

相州刺史李神軌閉門自守。

賊鋒已過汲郡,

所在村塢悉被殘略。

榮啟求討之。


 時に葛榮は將に京師に向かわんとし、

 眾は百萬と號す。

 相州刺史の李神軌は門を閉ざして自ら守る。

 賊鋒は已に汲郡を過ぎ、

 所在の村塢は悉く殘略を被る。

 榮は啟して之を討たんことを求む。




葛榮という人は

懐朔鎮将であったと言いますから、

もともと流民として六鎮の乱に参加、

柔然可汗の阿那瓌に五原で敗れ、

定州に流れ込んだ後に頭角を現した、

という経緯っぽいです。


六鎮の乱の発生当時、

懐朔鎮将には弘農楊氏の楊鈞という人が

左遷チックな扱いで赴任していました。


中央から派遣されたわけですが、

少し世代を遡りますと、

可朱渾元の曽祖父の可朱渾護野肱、

鮮于世榮の父の鮮于寶業

といった人々が鎮将に任じられており、

現地登用も行われていたらしいですね。


ちなみに、

可朱渾元はたぶん爾朱榮よりやや年下、

鮮于世榮は一回り年下だと思います。


だから、

その曽祖父、父だと世代的にはちょい上、

孝文帝から宣武帝の頃のお話でしょうか。


葛榮もたぶんそのクチで、

懐朔鎮に住んでいた叩き上げでしょう。


鎮将には、

・洛陽から左遷された人

・在地叩き上げの人

この2種類が混ざっていたわけです。


なんだかんだ言って、

後者は鎮内の顔役だったはず。

だから、

叛乱の際に祭り上げられたわけですね。


その葛榮が率いる叛乱軍は

鄴攻めに手こずっていました。


この時、

鄴を守る相州刺史は李神軌、

となっていますが、

『北史』は李神儁、

どっちが正かというと、どっちもダメ。


李神軌は河陰の変で殺されましたし、

李神儁は相州に出鎮した記録がない。


なんのイヤガラセですかねえ。


正解は李神。




『魏書』李神伝


神志氣自若,

撫勞兵民,小大用命。

既而葛榮盡銳攻之,

久不能克。

會尒朱榮擒葛榮於鄴西,

事平。


 (李)神は志氣自若、

 兵民を撫勞して小大は命を用う。

 既にして葛榮は銳を盡くして之を攻むるも、

 久しく克くする能わず。

 會々尒朱榮は葛榮を鄴西に擒え、

 事は平らげり。




李神は乱の発生後に相州に遣わされ、

それからずっと相州にいたようです。


元顥が相州刺史として赴任した際も

相州に留まって従ったのでしょう。


その元顥が江南に遁走しましたので、

やむなく相州の防備を引き継ぎます。


この方、

若い頃から豪胆で鳴らしており、

色々な戦場を経験しています。


わりと珍しい生粋の武人。


そのためか、

相州でも余裕綽綽だったようです。

目立ちませんけどなかなかスゴイ。


李神がいたのは北魏の幸運でした。


その李神が率いる鄴の守りは固く、

葛榮は足止めされてしまいます。


当然、糧秣が不足を来たす。


結果、

叛乱軍は黄河を渡った汲郡まで進出、

糧秣の確保に務めていたわけですね。


なので、

叛乱軍が整然と勢力を拡大していた、

という理解はおそらく事実誤認でして、

食料確保のために必死で略奪していた、

という理解が正しいでしょう。


百万の軍勢と号して洛陽に向かおうとしていた、

という記述はたぶん誇大広告だと思うのですよ。


それなら、

詔で命じられたはずですしね。

爾朱榮から申し出る必要なし。


そして、

爾朱榮は実態を見抜いてたクサイ。




『北齊書』神武帝本紀


及尒朱榮擊葛榮、

令神武喻下賊別稱王者七人。


 尒朱榮の葛榮を擊つに及び、

 神武をして喻して

 賊の別に王を稱する者七人を下らしむ。




北齊神武帝=高歓の記事ですが、

高歓は葛榮の賊徒を抜け出して

爾朱榮に身を投じています。


で、

葛榮との戦の前に賊徒の中で

王号を称していた者たちから

七人を投降させています。


つまり、

高歓は葛榮の賊徒と連絡していたはず。


とはいえ、

賊徒で王を称していた者たちが

どれくらいの程度かは疑問があり、




『魏書』李裔伝


洛周僭竊、特無綱紀。

至於市令驛帥、

咸以為王、

呼曰市王、驛王。


 洛周は僭竊するも,特に綱紀なし。

 市令、驛帥に至るまで、

 咸な以て王と為し、

 呼びて市王、驛王と曰う。




これは葛榮に吸収された杜洛周に

関する記事ですが、

市令=市場の監督者、

驛帥=駅の管理者

といった連中も王を称していたようです。


実に庶民的ですね。

たぶん葛榮の軍も似た感じ。


さすがに、

高歓が投降させたのはもう少しまともに

一軍を率いるレベルの人なんでしょうけど。


そういう連中と通じた者たちが、

爾朱兵団にワラワラいたはずです。


けっこう投降者がいましたので。


そんな事情もあり、

爾朱榮は上奏してまず葛榮の征討を

申し出たのであろうと推測されます。


勝手が分かっているから、

やりやすいわけですよね。

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