爾朱榮⑱王爵を異姓に与えてみましたよ問題はキラキラ系士大夫キライ?
▼異姓の王爵を復してみました。
爾朱榮自身は孝荘帝の即位の際に
太原王に封じられております。
その前は梁郡公でした。
なので、爵位を進めたわけですが、
合わせて変なことをしています。
異姓王を複数誕生させているのです。
まとめるとこんな感じ。
源紹景 :隴西王 ← 馮翊郡公
陸子彰 :濮陽郡王 ← 東郡公
馮冏 :扶風郡公から王爵に復する
長孫悅 :北平公から王爵に復する
長孫承業 :馮翊王 ← 上黨公
何が狙いなんでしょうね。
こんな記事がありました。
▽
『北史』陸子彰伝
建義初、
尒朱榮欲循舊事、
庶姓封王。
由是封子彰濮陽郡王。
建義の初め、
尒朱榮は舊事に循わんと欲し、
庶姓は王に封ぜらる。
是に由りて子彰は濮陽郡王に封ぜらる。
△
つまり、
旧制に戻ろうとしたようです。
おおむね、王爵の臣下が代替わりする際に
爵位を下げられる場合は「随例」という
用語を使って記述されるのですけども、
その分布を調べてみたところ、
多くが孝文帝の治世に王爵を失っています。
それ以前は異姓王も普通に存在していました。
孝文帝の治世、
王爵は元氏もとい拓跋氏に限定されたらしい。
爾朱榮はそれを旧に復そうと図ったわけです。
孝文帝の施策はおそらく、
宗室である元氏の権威を高めるのが目的、
爾朱榮はそれが気に入らなかったようです。
拓跋氏=元氏は部族連合の代表者、
そういう理解だったんでしょうかねえ。
遊牧民は合従連衡がかなり激しく、
強い首長が現れるとあっという間に
周辺の部族に推戴されて連合します。
ただし、
推戴にあたっては合議制が敷かれ、
首長一族の一存では決まりません。
爾朱榮のように漢化されていない
遊牧部族の人にとって、
儒教の長子相続は異常かもですね。
この王爵を復された人々がいずれも
非漢人の名門出身者である点からも
そんな雰囲気が見え隠れしています。
▼晋陽遷都の始末。
元子攸と爾朱榮が洛陽に入る前、
士民は次のように噂していました。
「爾朱榮は晋陽に遷都するつもりだ」
この顛末に関する史料が残っています。
▽
『北史』元諶伝
謐兄諶、字興伯、
性平和、位都官尚書。
謐の兄の諶、字は興伯、
性平和にして都官尚書に位せり。
尒朱榮之入洛陽、
啟莊帝欲遷都晉陽。
尒朱榮の洛陽に入るや、
莊帝に啟して晉陽に遷都せんと欲す。
帝以問諶、
爭之以為不可。
帝は以て諶に問い、
之を爭いて以て不可と為す。
榮怒曰、
「何關君而固執也!
且河陰之役、君應之。」
榮は怒りて曰わく、
「何ぞ君に關わりて固執せんや!
且つ河陰の役、君は之に應ずべし」と。
諶曰:
「天下事天下論之、
何以河陰之酷而恐元諶!
宗室戚屬、位居常伯。
生既無益、
死復何損!
正使今日碎首流腸、
亦無所懼。」
諶は曰わく、
「天下の事は天下、之を論ず。
何ぞ河陰の酷を以て元諶を恐れしめんや!
宗室の戚屬にして位は常伯に居る。
生きて既に益なくんば、
死して復た何をか損なわん!
正に今日、首を碎きて腸を流れしむるとも、
亦た懼るるところなし」と。
榮大怒,欲罪諶。
其從弟世隆固諫、乃止。
見者莫不震悚、
諶顏色自若。
榮は大いに怒り、諶を罪せんと欲す。
其の從弟の世隆は固く諫め、乃ち止む。
見る者の震悚せざるなきも、
諶の顏色は自若たり。
△
爾朱榮は孝荘帝に遷都を上奏しています。
孝荘帝はそれを尚書右僕射の元諶に諮り、
元諶は
「ダメ、絶対」
と反対しました。
ただ、反対理由は記述がありません。
当然、爾朱榮は怒り爆発です。
「ワレに何の関わりがあんねん!
河陰に沈めんぞ、コラあ!!!」
当然、周りの人はガクブルですよ。
一方の元諶は空気を読まずに反論します。
「天下の大事は天下と論じるのが筋でしょう。
河陰の殺戮でこの元諶がビビるとでも?
宗室の身で高官を与えられていながら、
生きて役に立たなければ死んでも無問題。
脳ミソが飛び出して腸が流れ出ようとも
恐れるものなどございません」
怯まない元諶に爾朱榮は感じ入ることなく
ますます怒り狂って処刑しようとします。
このあたり、爾朱榮の器量は小さめです。
しかし、
元諶は尚書右僕射、
尚書令に次ぐ高官です。
いきなり殺害するとちょっとヤバい。
せっかく洛陽に戻った士民がまたぞろ
逃げ出していきかねません。
それを懸念したヘタレの爾朱世隆が
とりなして元諶は命拾いします。
放っておくと確実に爾朱榮が殺ってます。
しかし、
爾朱世隆が爾朱榮を宥めている間も、
元諶はそ知らぬ顔だったようですから
なかなかイイ根性ですね。
このお話の続きをどうぞ。
▽
後數日,帝與榮見宮闕壯麗、
列樹成行。
後數日、帝と榮は宮闕の壯麗、
列樹の行を成すを見る。
乃歎曰、
「臣一昨愚志、有遷京之意。
今見皇居壯觀、
亦何用去河洛而就晉陽。
臣熟思元尚書言、
深不可奪。」
是以遷都議因罷。
乃ち歎じて曰わく、
「臣は一昨に愚志にして遷京の意あり。
今、皇居の壯觀を見るに、
亦た何ぞ用て河洛を去りて晉陽に就かん。
臣の元尚書の言を熟思するに、
深く奪うべからざるなり」と。
是れ以て遷都の議は因りて罷む。
△
それから数日後のこと、
孝荘帝と爾朱榮はおそらく望楼から
洛陽の宮城を眺める機会を持ちます。
おそらく、元諶か爾朱世隆あたりが、
孝荘帝に入れ知恵したのでしょうね。
宮城は広壮な殿屋の甍が連なり、
樹木が整然と並ぶ壮麗なものです。
山西肆州の山出しなんぞイチコロ。
「洛陽を捨てて晋陽に遷都するなど、
できようはずもありませんわ。
元尚書の言葉に従うよりあらへん」
爾朱榮はそう言って遷都を諦めました。
そんなわけで、
爾朱榮の晋陽遷都はご破算となりました。
▼爾朱榮と洛陽のキラキラ系士大夫。
異姓封王や晋陽遷都を見る限り、
爾朱榮は孝文帝の洛陽遷都を画期とする
北魏=拓跋部の漢化に対しては、
けっこうな反感を持っていたと見られます。
この点は、
南安王の一族である北郷長公主を妻とし、
元氏と結びつきを作りつつも、
その妹は洛陽遷都反対派の重鎮=穆氏の
穆建に嫁いでいたことが象徴的ですよね。
要するに、
爾朱榮、あるいはその父の爾朱新興あたりは
山西の山奥で牧畜を営みながら、
洛陽でキラキラ文化生活を営む高官連中を
わりと深刻に嫌っていたのかも知れません。
当時の宗室が爾朱榮をどう見ていたか、
垣間見える史料もちょっとだけあります。
▽
『北史』元略伝
後為尚書令、靈太后甚寵任之。
其見委信、殆與元徽相埒。
後に尚書令と為り、靈太后は甚だ之を寵任す。
其の委信さるること、殆ど元徽と相い埒し。
於時天下多事、軍國萬端、
略守常自保、無他裨益。
唯具臣而已。
時に天下多事にして軍國萬端なるも、
略は常を守りて自ら保ち、他に裨益するなし。
唯だ具臣なるのみ。
尒朱榮、略之姑夫、
略素所輕忽。
略又黨於鄭儼、徐紇、
榮兼銜之。
尒朱榮は略の姑夫なるも、
略の素より輕忽する所なり。
略は又た鄭儼、徐紇に黨し、
榮は兼ねて之を銜む。
榮入洛也、見害於河陰。
加贈太保、司空公、
諡曰文貞。
榮の洛に入るや、河陰に害さる。
太保、司空公を加贈し、
諡して文貞と曰う。
△
この元略という人にとって
爾朱榮は叔母の夫ですね。
南安王楨┬元英┬元攸
│ ├元熙
│ ├元誘
│ ├元略
│
├北郷長公主
┃
爾朱榮
元英は宣武帝の治世に
宗室の重鎮でありました。
爾朱榮はその妹婿、
意外と権力の中枢に近いです?
元略はパパンの元英ほどの器量はなし、
「具臣」とはつまり、
「いるだけパンチ」ってこと、
なんの役にも立たんわけです。
そんな元略さん、
「いるだけパンチ」でも家柄は最高、
なもんで、
叔母の夫の爾朱榮を軽んじておったと。
さらに、
霊太后の寵臣の鄭儼、徐紇に阿ります。
爾朱榮としては、
「こいつぁメチャ許せんよなあー」
というわけで親戚なのに河陰でアボン。
きっちり伏線を回収されています。
ただ、
具臣=いるだけパンチの元略でも
河陰でアボンした際の官職は、
尚書令
なんですよね。
尚書省の最高位やんけ。
北魏の任官機能は崩壊していました。
だから、
河陰の変も費穆の意見に従ったものの、
爾朱榮の士大夫嫌いも影響してそう。
爾朱榮の政策というのは、
おおむね鮮卑というか遊牧民としての
復古主義だった感じですかねえ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます