爾朱榮⑯洛陽で孝荘帝との君臣ギスギスフィーリング。

▼いよいよ洛陽入城、ですけど本当は晋陽に還りたかったです。


さて、

河陰の変の翌日4月14日、

爾朱榮と元子攸は洛陽に入ります。


一応、

新皇帝=元子攸の入城です。




『魏書』爾朱榮伝

十四日、輿駕入宮。

 十四日、輿駕は宮に入れり。




ンンー、アッサリしてますねえ。

しかし、

『北史』に恥ずかしい記述がありますよお?




『北史』爾朱榮伝

其士馬三千餘騎、

既濫殺朝士、

乃不敢入京。

 其の士馬は三千餘騎、

 既に濫りに朝士を殺し、

 乃ち敢えて京に入らず。


即欲向北為移都之計。

 即ち北に向かいて

 都を移すの計を為さんと欲す。


持疑經日、

始奉駕向洛陽宮。

 疑いを持して日を經り、

 始めて駕を奉じて洛陽宮に向かう。


及上北芒、

視城闕、復懷畏懼、

不肯更前。

 北芒に上るに及び、

 城闕を視て復た畏懼を懷き、

 更に前むを肯ぜず。


武衞將軍汎禮苦執不聽。

 武衞將軍の汎禮は苦執して聽さず。




この記述によると、

爾朱榮は河陰で朝士を虐殺したため、

洛陽に入らず晋陽への遷都を企てた、

ということになりますね。


ビビりなのか。。。


ここでちょっと気になる点が。


「疑を持して日を經り」という

言い回しから推測するに、

爾朱榮が晋陽遷都を考えてから、

数日が経っていたらしいです。


ただ、

河陰の変からの日数で言えば、

洛陽入城は翌日なんですよね。


その間に日はありません。


そうなると、

爾朱榮の晋陽遷都の意向は、

河陰の変より前からあった、

と考えなくてはなりませんね。


おそらく、

洛陽に向かう際に晋陽への遷都を

一つの案として織り込んでいた。


それはさておき、

しぶしぶ洛陽に向かう爾朱榮、

邙山を越えれば眼下には洛陽。


北魏の国都の威容が広がります。


爾朱榮はまた洛陽に入る気を失い、

馬を返して晋陽に還ろうとした。


武衞將軍の汎禮という人が

爾朱榮の馬の轡を握って離さず、

いやがる爾朱榮をムリクリ

洛陽に向かわせたらしいです。


このあたり、

分かってやったものの

やってみると怖くなる。


爾朱榮の感覚は普通の人に近いですね。


百官を殺戮した人とは思えませんが、

イヤイヤながら洛陽に向かう爾朱榮、

ようやく洛陽に到着いたします。




『北史』爾朱榮伝

復前入城、不朝戍、

北來之人,皆乘馬入殿。

 復た前みて城に入るも朝戍せず、

 北來の人は皆な馬に乘りて殿に入る。


諸貴死散、無復次序。

莊帝左右、唯有故舊數人。

 諸貴は死散し、復た次序なし。

 莊帝の左右には唯だ故舊數人あるのみ。




この時、

洛陽の城の衛兵などは逃げ散っており、

出入自由になってしまっていたらしい。


これは、

「不朝戍」から読み取れます。


なもんで、

爾朱兵団の連中は乗馬のままで入城し、

おそらくは宮城にも下馬せず入った。


一昨日にやると死刑確定なくらい

無礼千万の行いなわけですけども、

咎める人がそもそもおりません。


ついでに言えば、

下馬しなかったということは

爾朱兵団のみなさんは臨戦態勢だった、

ということでもありましょうね。


洛陽の兵と一戦を構えることも、

想定していただろうと思います。


爾朱榮がイヤイヤしたのは、

単に気が咎めたからではない、と。


しかし、

兵士も逃げ散って残る者がない。


帝位に即いた元子攸の左右にも

数人の友人があるだけでした。


これが北魏の新帝ですから、

なんとも寂寥の感があります。




▼明光殿で君臣ギスギスフィーリング。


洛陽に入った孝荘帝と爾朱榮、

とりあえず上っ面だけでも仲良く

できるよう頑張っていたようです。




『北史』爾朱榮伝

榮猶執移都之議、

上亦無以拒焉。

 榮は猶お都を移すべきの議を執り、

 上も亦た以て拒むなし。


又在明光殿重謝河橋之事、

誓言無復二心。

 又た明光殿に在りて重ねて河橋の事を謝し、

 誓いて復た二心なきを言う。


莊帝自起止之、

因復為榮誓、

言無疑心。

 莊帝は自ら起ちて之を止め、

 因りて復た為の榮に誓い、

 疑心なきを言う。




洛陽を見た爾朱榮は、

「やっぱり晋陽に遷都すべきやなあ」

と思っていたようですが、とりあえず、

明光殿というところで孝荘帝に謁見し、

河陰の殺戮を陳謝します。


明光殿、

おそらく皇帝が臣下を謁見する場です。


堂上に皇帝の玉座があり、

左右に百官が居並ぶ場だったのでしょう。


そこで、

玉座に着いた孝荘帝に跪拝し、

二度とそのような二心は持たないと

誓って見せたようですね。


孝荘帝は座を起って爾朱榮を止め、

自らも爾朱榮を決して疑わないと

誓います。


一件落着かと思いきや、

これで終わらないのが北魏末。




『北史』爾朱榮伝

榮喜、因求酒一遍。

 榮は喜び、因りて酒を求むること一遍す。


及醉熟、

帝欲誅之、

左右苦諫乃止。

 醉いの熟するに及び、

 帝は之を誅さんと欲するも、

 左右は苦諫して乃ち止む。


即以牀轝向中常侍省。

 即ち牀轝を以て中常侍省に向かわす。


榮夜半方寤、

遂達旦不眠、

自此不復禁中宿矣。

 榮は夜半に方に寤め、

 遂に旦に達するまで眠らず。

 此より復た禁中に宿らざるなり。




単純な爾朱榮は孝荘帝の誓いを喜び、

酒を取り寄せて飲み始めてしまいます。


しかも、

泥酔して寝落ちまでする始末。


当然、孝荘帝としましては、

「この場で始末しちまうか、、、」

というお気持ちがノンストップです。


まあ、

そこは左右の者たちが止めましたが、

ベロンベロンの爾朱榮を輿に載せて

中常侍省にドナドナさせます。


明光殿にこんなものがあると

ジャマで仕方ないですからね。


中常侍省で爆睡していた爾朱榮は

夜半になって目が覚めますが、

それより朝まで一睡もしません。


宮城は敵地と思い出したらしい。


それから、

宮城には泊まらなくなります。


つまり、

洛陽に駐屯している間、

爾朱榮は洛陽の私邸にいた、

そういうことなのでしょうね。




▼宮城はさておき洛陽城内は人が逃げ出していました。


宮城のうちでは孝荘帝と爾朱榮が

危機一髪の綱渡りをしていますが、

外はどうなっていたのでしょう。




『魏書』爾朱榮伝

于時或云

榮欲遷都晉陽、

或云

欲肆兵大掠。

 時に或るものは云えらく、

「榮は晉陽に遷都せんと欲す」と。

 或るひとは云えらく、

「兵を肆にして大いに掠めんと欲す」と。


迭相驚恐、人情駭震。

 迭々相い驚き恐れ、人情は駭震す。


京邑士子不一存、

率皆逃竄、無敢出者。

 京邑の士子は一に存せず、

 率いて皆な逃竄し、敢えて出ずる者なし。


直衞空虛、官守廢曠。

 直衞は空虛にして官守は廢曠せり。




洛陽は殷賑を極めた国都です。

官僚を除いても多くの住民がいました。


北魏代の人口は記録がありませんが、

西晋の太康初年に河南郡は11.4万戸を抱え、

1戸4人としても人口は45万人に上ります。


唐の杜佑が編纂した『通典』によると、

北魏孝明帝期の全国総戸数は500万戸を

超えたとしていますが出典は不明です。


ちなみに、

西晋の太康初年でも全国では246万戸に欠けます。


戦乱を経た上に河北だけで、

北魏の戸数が西晋全土の2倍?


またまたご冗談を。


しかし、他に史料がないため、

アホみたいな感じで計算してみますと、


 西晋(太康初年)246万戸

 北魏(孝明帝期)500万戸

  → 北魏の戸数は西晋の約2倍


 西晋(太康初年)の河南郡の戸数

  11.4万戸

 北魏(孝明帝期)の河南郡の戸数

  22.8万戸 = 11.4万戸 × 2


全国均質と計算して22.8万戸、

洛陽に集中していたとすると

100万都市だったんじゃね?

くらいの勢いですね。


まあ、

数字は参考程度としておき、

北魏の洛陽は大都市でした、

という程度にご理解下さい。


その洛陽の場内に河陰の変の噂は伝わっています。


当然、流言蜚語が爆発、

「爾朱榮は晋陽に遷都するつもりだ」

「いや、洛陽で掠奪を働くつもりだ」

とみなが脅えていたわけです。


そりゃそうだ。


士大夫とは利を観るに聡いものです。

金目の物をかき集めて難を避けます。


結果、

残る士大夫は十人に一人だったそうな。


すっからかんの洛陽ですが、

そこで爾朱榮がどう振る舞いますやら。


楽しみなところです。

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