爾朱榮⑰無人の洛陽に人を呼び返すべく頑張りました。
▼事例から学ぶ士大夫の逃げ足。
爾朱榮が来ると聞いて洛陽の士大夫は
一目散に逃げだしてしまいました。
そんな士大夫の洛陽逃避行に関する記録が
『北史』に残っておりますので、ちょっと
見てみましょう。
▽
『北史』元韶伝
子韶、字世冑。
好學、美容儀。
子の韶、字は世冑なり。
學を好み、容儀美し。
初、尒朱榮將入洛、
父劭恐、
以韶寄所親滎陽太守鄭仲明。
初め、尒朱榮の將に洛に入らんとするに、
父の劭は恐れ、
韶を以て親しむ所の滎陽太守の鄭仲明に寄す。
仲明尋為城人所殺。
仲明は尋いで城人の殺すところと為る。
韶因亂與乳母相失,
遂與仲明兄子僧副避難。
韶は亂に因り乳母と相い失い、
遂に仲明の兄子の僧副と難を避く。
路中為賊逼、
僧副恐不免、
因令韶下馬。
路中に賊の逼るところと為り、
僧副は免ぜざるを恐れ、
因りて韶をして馬より下らしむ。
僧副謂客曰、
「窮鳥投人、尚或矜愍。
況諸王如何棄乎?」
僧副舉刃逼之、客乃退。
僧副は客に謂いて曰わく、
「窮鳥の人に投ずるに、尚お或いは矜愍す。
況んや諸王を如何に棄てんや?」と。
僧副は刃を舉げて之に逼り、客は乃ち退く。
韶逢一老母姓程、
哀之、隱於私家。
韶は一老母の姓程というものに逢うに、
之を哀み、私家に隱せり。
居十餘日、
莊帝訪而獲焉、
襲封彭城王。
居ること十餘日、
莊帝は訪ねてこれを獲て、
襲いて彭城王に封じらる。
△
待てコラ。
元劭と言えば、
孝荘帝=元子攸の兄ですよね?
元子攸、元劭、元子正の三人は
爾朱榮の軍勢が南下すると、
洛陽を抜けて合流しています。
その一方で元劭は、
子の元韶を滎陽に送っていました。
滎陽は洛陽の東、汜水関を越えた先です。
つまり、疎開させたのですね。
漢人なら故郷に送ったところですが、
宗室の元氏は洛陽に遷都した際、
洛陽の人とされて故郷=洛陽なので。
逃がす先がありませんでした。
そこで、
昵懇の仲の鄭仲明が太守を務める
滎陽に子を逃がしていたわけです。
上級国民の処世術に瞠目するザマス!
ちなみに、
引用文の後半は意味がよく通らず、
おそらく脱落があると思いますが、
要するに、
・鄭仲明が城民に殺害される
・仲明の甥の鄭僧副が元韶と脱出
・元韶は程というバアサンに匿われる
・孝荘帝が回収して彭城王を継がせる
というつまらないお話です。
爾朱氏の内実を知っていたであろう
元劭が子供を逃がしていたわけです。
普通の士大夫ならすっ飛んで逃げます。
ただし、
宗室の多くは近隣の知人縁者に頼り、
洛陽近郊に隠れていたことも推測が
可能ということになりましょうね。
だから、
洛陽に人はいなくなっても近郊には
士大夫がけっこう潜んでいた、はずです。
▼まずは人を呼び返すために反省して追贈を乱発します。
洛陽に入った爾朱榮ですが、
肝腎の洛陽に人がいません。
士大夫は、
「略奪と殺戮を行うんじゃないか」
「洛陽から晋陽への遷都に連行されるんじゃないか」
と心配していたわけですが、
それは杞憂に終わります。
反省した爾朱榮が孝荘帝に上奏しています。
※長いのでスルー推奨。
▽
『魏書』爾朱榮伝
榮聞之、上書曰、
榮は之を聞き、上書して曰わく、
「臣世荷蕃寄、征討累年、
奉忠王室、志存效死。
「臣は世々蕃寄を荷い、征討すること累年、
忠を王室に奉じ、志は效死に存す。
直以太后淫亂、
孝明暴崩、
遂率義兵、扶立社稷。
直だ太后の淫亂にして
孝明の暴崩せるを以て
遂に義兵を率いて社稷を扶け立てり。
陛下登祚之始、
人情未安、
大兵交際、難可齊一、
諸王朝貴橫死者眾。
陛下の祚に登るの始め、
人情は未だ安んぜず、
大兵は交際して可く齊一なり難く、
諸王、朝貴の橫死する者眾し。
臣今粉軀
不足塞往責以謝亡者。
臣は今、軀を粉にするも
往責を塞ぎて以て亡者に謝するに足らず。
然追榮褒德、
謂之不朽。
乞降天慈、
微申私責。
然れど榮を追いて德を褒む、
之を不朽と謂う。
乞うらく、天慈を降して
微かに私責を申べんことを。
無上王請追尊帝號、
諸王、刺史乞贈三司、
其位班三品請贈令僕、
五品之官各贈方伯、
六品已下及白民
贈以鎮郡。
無上王に帝號を追尊せんことを請い、
諸王、刺史は三司を贈るを乞い
其の位の班三品なるは令僕を贈るを請い、
五品の官は各々方伯を贈り、
六品已下、白民に及ぶものは
贈るに鎮郡を以ってせん。
諸死者無後聽繼、
即授封爵。
諸々の死する者の後なきは繼ぐを聽し、
即ち封爵を授けん。
均其高下節級別科、
使恩洽存亡、
有慰生死。」
均しく其の高下に級を節して科を別ち、
恩を存亡に洽くせば、
生死を慰めることあらん」と。
△
要約すると、
河陰の変で殺害した者に、
・諸王、州刺史にあった人は儀同三司
・三品の官僚は尚書令、尚書僕射
・五品の官僚は州刺史
・六品以下の官僚と無官の人は鎮将か郡太守
それぞれの官職を追贈し、
子がなければ養子を迎えて跡を継ぐことを認める
という大盤振る舞いを求めたのですね。
孝荘帝のお返事がこちら。
▽
『魏書』爾朱榮伝
詔曰:
「覽表不勝鯁塞。
朕德行無感、
致茲酷濫。
尋繹往事、貫切於懷。
可如所表。」
詔して曰わく、
「表を覽るに鯁塞に勝えず。
朕の德行に感なく、
茲の酷濫を致せり。
尋いで往事を繹くは、懷に貫切なり。
表する所の如くして可なり」と。
自茲已後、贈終叨濫、
庸人賤品、動至大官、
為識者所不貴。
茲より已後、贈終は叨濫し、
庸人賤品,動もすれば大官に至り、
識者の貴ばざる所と為れり。
武定中、齊文襄王
始革其失,追褒有典焉。
武定中、齊の文襄王は
始めて其の失を革め、追褒に典あらしむ。
△
孝荘帝が上奏を拒むわけもなく、
爾朱榮の望む通りに追贈などが
行われました。
追贈の官職がインフレするのは当然、
誰も喜ばなくなったそうです。
で、
東魏では高歓の子の文襄=高澄が弊害を改め、
追贈のインフレを抑制したそうです。
はいはい、魏収魏収。
さらに、
爾朱榮は次の手を打ちます。
▽
『魏書』爾朱榮伝
榮啟帝遣使
循城勞問、
於是人情遂安、
朝士逃亡者
亦稍來歸闕。
榮は帝に啟して使を遣りて
城を循りて勞問せしめ、
是において人情は遂に安んじ、
朝士の逃亡せる者も
亦た稍く來りて闕に歸せり。
榮又奏請番直、
朔望之日引見三公、令僕、尚書、
九卿及司州牧、河南尹、
洛陽河陰執事之官、
參論國治、經綸王道、以為常式。
榮は又た奏して番直を請い、
朔望の日に三公、令僕、尚書、
九卿、及び司州牧、河南尹、
洛陽河陰の執事の官を引見し
國治を參論して王道を經綸し、
以て常式と為す。
△
洛陽城内に使者を巡らせて官民を安堵させ、
逃亡した士大夫も戻ってきたようですね。
さらに、
毎月の朔日と望日に
三公六卿に尚書省の高官に加え、
地域行政を司る司州牧と河南尹を
集めて国政を議論する場を設けます。
これは政治へのやる気を見せた、
という解釈でよいかと思います。
これまでとは違うわけですよ。
なお、
朔日は月の初め、望日は十五夜です。
ひとまず、洛陽に人が戻ってきつつあったようです。
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