爾朱榮⑮皇太后・皇帝・百官まとめてヒャッハー河陰の変part5
ここまで、
爾朱榮伝を中心に河陰の変を見てきました。
とはいえ、
正史には列伝に具合悪いことを書かない、
というルールみたいなものがあります。
別名「忖度」。
しかも、
『魏書』=穢史。
魏収の忖度が全開です。
ですので、
ある事件を多角的に知るには、
関係者の伝をすべて読まなくてはならない。
河陰の変ともなると関係者は無数にいます。
しかも大半は死人。
けっこうキツイです。
なので、
『魏書』『北史』の列伝からいくつかを
抜粋して点描してみたいと思います。
▼元順:朝臣2,000人殺しは事前に決定されていた?
ちょっと興味深い記述があります。
▽
『北史』元順伝
尒朱榮之奉莊帝、
召百官悉至河陰。
素聞順數諫諍、
惜其亮直,謂朱瑞曰、
「可語元僕射、
但在省,不須來。」
順不達其旨、聞害衣冠、
遂便出走。
為陵戶鮮于康奴所害。
尒朱榮の莊帝を奉ずるに、
百官を召して悉く河陰に至らしむ。
素より順の數々諫諍せるを聞き、
其の亮直を惜しみて朱瑞に謂いて曰わく、
「元僕射に語るべし、
但だ省に在りて來るを須たず」と。
順は其の旨に達せず、衣冠を害すると聞き、
遂に便ち出で走る。
陵戶の鮮于康奴の害するところとなる。
△
上記の記事より、
孝荘帝の詔で百官が河陰に向かった、
ということが分かります。
ということは、
詔を伝える人があり、
河陰から洛陽に向かった。
その人は爾朱榮に伝言を命じられた、
大行臺郎中の朱瑞と見られます。
朱瑞は平城の南の桑乾の出身、
祖父の朱就は沛縣令、
父の朱惠は行太原太守
を務めています。
この人はたぶん漢人ですかね。
後に、
山東を本貫と申請しています。
そのためか、
朱瑞はこれ以降、洛陽に駐在します。
爾朱榮の意を孝荘帝に伝える役目です。
さて、
元順という人はたびたび霊太后を諫め、
爾朱榮はその忠良を評価していました。
それで、
爾朱榮は洛陽に向かう朱瑞に
「元僕射=元順には来なくていいと言え」
と命じています。
孝荘帝の即位の慶賀させるなら、
この発言の意図が分かりません。
しかし、
すでに朝臣の殺戮を決定していたとすると、
爾朱榮の発言は元順を救おうとする意図と
理解できます。
では、
朱瑞はいつ河陰から洛陽に向かったか?
最も遅く見積もっても河陰の変の当日、
未明のことでしょう。
霊太后は幼主とともに早朝から河陰に向かい、
朝臣もそれに従っています。
朱瑞は前夜に河陰を発ち、
洛陽の朝会に参加したと見ます。
そこから、
朝臣とともに河陰に向かった。
少々の混乱は予想されますが、
事態が事態なのでやむをえない。
また、
朝臣を殺害して霊太后と幼主を生かすという
選択があったかと言えば、考えにくいですね。
この記事に拠る場合、
霊太后、幼主、百官の殺戮がセットで
すでに決められており、
爾朱榮伝の行き当たりばったりな記事は
加害の計画性を弱めるための魏収の曲筆、
そう解されるかと思います。
なお、
元順は変事を聞いて洛陽を出たところ、
陵戸の鮮于康奴に殺害されてしまいます。
陵戸と言えば、
皇帝の陵墓のお世話をする人ですね。
孝文帝の陵墓は長陵、
宣武帝の陵墓は景陵、
いずれも洛陽の北にあります。
陵戸は陵墓近くに住んだはずですから
たぶん、
河陰に向かおうとして殺されたのかな。
しかし、
なんでいきなり殺すんでしょうね。
▼劉靈助:河陰の変に「蜘蛛の糸」は存在していたか?
先に、曲筆穢史でお馴染みの魏収が
河陰の変を生き残った話をしました。
その時、
居合わせた温子昇も生き残っています。
単純に日暮れにあったようですが、
枢機に関わらない文人ということも
関係していそうに思います。
他に河陰の殺戮から逃れた例を探すと、
『魏書』劉靈助伝に記述がありました。
▽
『魏書』劉靈助伝
建義初、
榮於河陰
王公卿士悉見屠害。
建義の初め、
榮の河陰にあるや、
王公卿士は悉く屠害さる。
時奉車都尉盧道虔兄弟
亦相率朝於行宮。
時に奉車都尉の盧道虔の兄弟も亦た
相い率て行宮に朝せり。
靈助以其州里、
衞護之。
靈助は其の州里なるを以て
之を衞護せり。
由是朝士與諸盧相隨
免害者數十人。
是に由りて朝士の諸盧と相い隨いて
害を免る者數十人なり。
△
盧道虔は范陽の盧氏、
燕出身の劉霊助と同郷だったようで、
その地縁によって救われたそうです。
つまり、
爾朱兵団の幹部と知り合いであれば、
河陰の変もワンチャンあったのです。
とはいえ、
爾朱兵団の構成員はご承知のとおり
北辺の将兵に偏っていますから、
キラキラ系士大夫と知り合う機会は
そうそうなかったでしょう。
そのため、
士大夫はがっつり殺害されました。
盧道虔&知り合いズは例外に過ぎません。
とはいえ、
地方名士にとっての輿望というものが、
単なる自己満足ではなく現実的必要性を
持っていたことも窺える逸話であります。
▼河陰の変の被害者リスト。
河陰の変で殺害された人の筆頭は、
皇太后:胡氏
皇帝:元釗
丞相:元雍
この三人ということになります。
フツー、
この三人だけでも国家は崩れますね。
強いて言うなら、
この後に帝位に即く元子攸の兄弟、
元劭
元子正
といったあたりでしょうか。
これはまあ、未来への布石ですけども。
史書に河陰の変で殺害された朝臣は
1000~2000人とされているわけで、
その痕跡が『魏書』に残っております。
そこで、
河陰の変の死者をかき集めて
官品順に並べてみましょう。
官職は『魏書』官氏志から孝文帝の
太和年間に用いられたものに従い、
孝明帝の頃とはちょっと違いますが、
まあ、雰囲気は伝わるからいいか。
なお、
職を兼務している場合、
一番高いものに従います。
第一品中
元欽:司空公
從第一品上
元略:尚書令
從第一品中
封鑒:右光祿大夫
王溫:左光祿大夫、光祿勳卿、侍中
元順:兼左僕射
從第一品下
裴延儁:御史中尉、兼侍中、吏部尚書
張超業:金紫光祿大夫
馮穆:金紫光祿大夫
第二品上
元恒:侍中
裴詢:散騎常侍、七兵尚書、兼侍中
元汎:光祿大夫、宗正卿
范紹:太府卿 ※仮に少府卿に準じる
第二品下
楊暐:散騎常侍、安南將軍
從第二品上
元法壽:平東將軍、光祿大夫
從第二品中
陸希悅:光祿大夫
從第二品下
宇文慶安:武衞將軍
元超:光祿大夫、領將作大匠
第三品上
元叔仁:征虜將軍、通直散騎常侍
元義興:輔國將軍、通直散騎常侍
王誕:龍驤將軍、正平太守
元湛:廷尉少卿
源纂:太府少卿
第三品中
王誦:給事黃門侍郎
第三品下
袁昇:太學博士、司徒記室、尚書儀曹郎中
元讞:左將軍、太中大夫
從第三品上
元謙:前軍將軍、征蠻都督
第四品上
崔勵:太尉長史
崔忻:兼尚書左丞
李皓:散騎侍郎
高長雲:輔國將軍、中散大夫
第四品中
李瑾:通直散騎侍郎
第五品中
李仁曜:太尉錄事參事
王忻:汝南王悅記室參軍
從第五品上
李義遠:國子博士
裴諧:著作佐郎
從第五品中
李曖:尚書左外兵郎
李弼:尚書郎、齋帥
李延孝:尚書屯田郎中
第六品上
李義慎:司空屬
從第六品上
李神軌:領中書舍人
陸士述:符璽郎中
地方官
河内太守:李遐
官位不詳
元彝
元毓
王遵業
袁翻
崔暹
鄭季明
崔士泰
李瑒
上から下まで50人ほどおりますが、
これはあくまで正史に伝がある人、
つまり、
宗室と名家出身のみなさんです。
趙元則みたいなコッパは現れません。
しかし、
尚書令
尚書左僕射
吏部尚書
尚書左丞
と尚書省の高官が目立ちますね。
つまるところ、
北魏の朝廷では尚書省が
花形だったんでしょうけど。
なかなか壊滅的です。
この結果、
北魏の朝廷は総入れ替えとなり、
新王朝が開かれた言ってもよい。
要するに、
皇帝は元氏のままでありますが、
実際にはほぼ別の国なのですね。
三国志の局面に譬えると、
董卓大暴れの後に曹操が献帝を保護した、
その時期くらいの感じでしょうかねえ。
この場合、
爾朱榮が董卓と曹操を兼ねます。
けっこう絶望的ですね、北魏。
これが北魏の実質的な滅亡です。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
不穏な空気とともに、
新帝=元子攸と爾朱兵団は
ついに河陰から洛陽に向かいます。
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