爾朱榮⑭皇太后・皇帝・百官まとめてヒャッハー河陰の変part4


次に、河陰の変がなぜ起こったか、

斜め方向から考えてみたいと思います。


▼たぶんマジメだけど壊れちゃった費穆さん。


「公の士馬は万人を出ず、今、長駆して洛に向かう。前に横陳なく、既にして戦勝の威なし。群情は素より厭服せず。京師の衆、百官の盛を以って公の虚実を知らば、軽侮の心あらん。若し大いに誅罰を行わずば、更めて親党を樹て、恐るらくは公の北に還るの日、未だ太行を渡らずして内変を作さん」


これは費穆が爾朱榮に述べた言葉です。

要するに、

・爾朱榮の兵は一万に及ばない

・戦をしておらず士気は高くない

・人々は爾朱榮の威名に服してはいない

・爾朱兵団の実状を知れば侮られかねない

・侮られれば洛陽の百官は必ずや叛く

実際のところ、けっこう適切な進言です。


ナメられると叛きやがる。

だからコロす。


この費穆という人は、

河陰の変の原因として嫌われますが、

ここまでの経歴は悪くありません。


むしろイイ。


代の人で

祖父を費于、

父を費萬

と言いますから、

漢人ではないでしょうね。


最初は涇州の平西将軍府の長史となり、

刺史の皇甫集の非法を厳しく諌めました。


この皇甫集は霊太后の母方の姻戚です。


そもそも、

霊太后に好意を抱いてはいない。


さらに、六鎮の乱が起こると、

李崇の北伐に従って転戦し、

撤退にあたっては

朔州刺史として後事を

委ねられています。


朔州は六鎮の乱の激しいエリアです。

置き去りにされた感もありますが。


その後、朔州から雲州刺史に転じ、

周りの州が六鎮の叛徒に陥っても

唯一堅守を続けたとされています。


同じく堅守を続ける武川鎮から

勇将の賀抜勝が敵陣を抜け出し、

援軍を求めた先でもありました。


結局、援軍が来ることはなく、

費穆は城を捨てて秀容に逃れ、

そこから洛陽に帰還しました。


六鎮の乱に抵抗する同志ですから、

爾朱榮は費穆を歓迎したでしょう。


費穆は洛陽に還って罪を請い、

孝明帝は詔を下して許しました。


この一件について言えば、

費穆に咎はなく、

援軍を送らなかった朝廷が悪い。


おそらく、

爾朱榮も口添えしたと思われます。


費穆は人生の一番厳しい時期を

爾朱榮に援けられたわけですね。


その後、

費穆は朝廷に尽くす心を変えず、

いくつかの叛乱を平定しています。


こうして見る限り、

費穆という人は任に忠実な人でした。


そういう人が爾朱榮に降った理由は一つ、

尽忠したところで報いることを知らない、

北魏の朝廷に愛想をつかしたのでしょう。


史書は、

爾朱榮は費穆の投降を喜んだと記します。


これは、

小平津を労せず渡れるというだけでなく、

雲州から逃れた際に援助をおこなった

費穆との再会を喜んだ、という意味も

あるように思われます。


思うに、

北魏に疲れ果てた費穆はおそらく、

マジメに爾朱榮のために考え、

百官の殺戮を進言したと推測します。


河陰の変の発生にあたっては、

こういう裏事情もあったのです。


つまり、

霊太后、テメーはダメだ、ということ。



▼河陰の変にあたって爾朱兵団のみなさんの態度はどうだったか。


爾朱榮は費穆との関係性もあり、

その言葉を信じ込みました。


爾朱榮と姻戚関係にある慕容紹宗は、

この暴挙を諫止したようです。


爾朱榮

「洛陽の士大夫は多いが、驕って他人を舐め腐っとる。一発カマさんと大人しいならんやろ。百官が出迎えに出たら、皆殺しにしようと思うねんけど、どないや?」

慕容紹宗

「皇太后がエロで道に外れ、ロクデナシが朝政にあたって国政を乱しております。それゆえ、あなたが義兵を挙げて朝廷を清められようとしているわけです。今、理由もなく朝士を殺して忠臣と佞臣を区別しなければ、おそらく天下は失望するでしょう。長久の策とは申せません」


必死こいて諌めた慕容紹宗ですが、

爾朱榮は翻意しませんでした。


一方、

禅譲についてはどうだったのでしょう。


見てのとおり、

費穆さんはそこまで言っておりません。


明かに無計画に見えるこの行い、

果たしてどこから出たのでしょう。




『周書』賀抜岳伝


榮既殺害朝士,

時齊神武為榮軍都督,

勸榮稱帝,

左右多欲同之,

榮疑未決。

岳乃從容進而言曰:

「將軍首舉義兵,共除姦逆,

功勤未立,逆有此謀,

可謂速禍,

未見其福。」

榮尋亦自悟,乃尊立孝莊。

岳又勸榮誅齊神武以謝天下。

左右咸言:

「高歡雖復庸疏,言不思難,

今四方尚梗,事藉武臣,

請捨之,

收其後効。」

榮乃止。


 榮は既に朝士を殺害するに

 時に齊神武は榮の軍都督たり、

 榮に帝を稱するを勸めり。

 左右は多く之に同ぜんと欲するも、

 榮は疑いて未だ決さず。

 岳は乃ち從容として進みて言いて曰わく、

「將軍は義兵を首舉し、共に姦逆を除くに

 功勤は未だ立たず、逆に此の謀あるは、

 禍を速めると謂うべし。

 未だ其の福を見ず」と。

 榮は尋いで亦た自ら悟り、乃ち孝莊を尊立せり。

 岳は又た榮に齊神武を誅して

 以て天下に謝するを勸めり。

 左右は咸な言えらく、

「高歡は復た庸疏と雖も、言いて難を思わず、

 今、四方は尚お梗く、事は武臣に藉る。

 請うらくは之を捨て。

 其の後効を收めん」と。

 榮は乃ち止む。




高歓、やっぱりテメーか。。。


前段で何気にネタバレしているので

改めての愕きはまったくないのですが、

後に東魏の実権を握る高歓の勧めである、

と『周書』は主張しているわけですね。


周はすなわち西魏、

西魏は宇文泰を中心とする政権ですが、

その兵団は賀抜岳に従っておりました。


よって、

賀抜岳は西魏の祖とも言える存在です。

鵜呑みにはできないのですよねえ。


何らかのバイアスもございましょう。


加えて、

ちょっと気になる点があります。




『北史』賀抜岳伝

未幾,

孝明帝暴崩,榮疑有故,

乃舉兵赴洛。

配岳甲卒二千,為先驅。

至河陰,榮既殺朝士,

因欲稱帝,疑未能決。

岳乃從容致諫,

榮尋亦自悟,

乃尊立孝莊。


 未だ幾ばくもせず、

 孝明帝は暴かに崩じ,榮は故あるを疑い、

 乃ち兵を舉げて洛に赴く。

 岳に甲卒二千を配し、先驅となす。

 河陰に至り、榮は既に朝士を殺し、

 因りて帝を稱さんと欲するも、

 疑いて未だ決する能わず。

 岳は乃ち從容として諫を致し、

 榮は尋いで亦た自ら悟り、

 乃ち孝莊を尊立せり。




『周書』もそうなのですが、

洛陽に向かう爾朱榮の軍勢では、

賀抜岳が先駆だったとしています。


一方、『通鑑』を見ると、

孝明帝の私詔で出兵した際の先駆は、

高歓となっているのですよねえ。


どっちが正しいかは分かりません。


ただ何となく、

この二人は置換可能だった。


当時の爾朱榮の帷幕において

高歓と賀抜岳の二人の存在が大きく、

かつ、

対立していたのではないかという

推測をちょっとしていたりします。


なぜなら、

高歓=懐朔鎮

賀抜岳=武川鎮

とそれぞれの出自が異なり、

その利害を代表した可能性が

否定できないからなのですね。


ちなみに、

慕容紹宗は爾朱榮の姻戚のため、

これらの派閥争いは無関係と見られ、

劉霊助はいずれにも関わらず、

燕の方の行商人の出自だそうです。


爾朱榮の恩倖みたいなもんですね。


そういうわけで、

爾朱兵団では爾朱榮の即位について

懐朔鎮派閥と武川鎮派閥がそれぞれ、

賛成反対に分かれたかと思います。


どっちがどっちかは藪の中ですけど、

『魏書』『北史』を比較する限り、

武川鎮軍閥が反対したっぽいです。


『魏書』のバイアスが強すぎます。


いずれにせよ、

北魏にトドメを刺した河陰の変は、

費穆という不遇の武官と爾朱榮の

人間的な関係から端を発しており、

それが爾朱兵団の派閥争いにより

禅譲寸前まで暴走したのであろう、

そういう風に考えるのも一興です。

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