爾朱榮⑬皇太后・皇帝・百官まとめてヒャッハー河陰の変part3
前回までは『魏書』爾朱榮伝によって
河陰の変の流れをざっと見てきました。
ここからは、『通鑑』に依拠しつつ、
細かめに見ていきたいと思います。
まあ、
北魏の腐臭というか、死臭というか、
溢れる負のチャクラをご堪能下さい。
▼霊太后「爾朱榮を阻むはずの官軍はどうなったのよ?!?!」
挙兵の当初、
爾朱榮が晋陽を発した頃、
洛陽にいたビビリの世隆は
ケツをまくって逃げ出します。
逃げ先は当然のように北、
山西の上党で爾朱榮と合流します。
身を挺して朝廷をだましたわけで、
ビビリの世隆としては上出来
と言ってよいでしょう。
一方、
霊太后はどうしていたか。
王公を召して対策を諮ったものの、
みな太后の行いを嫌ったために
意見を言う者もなかったそうです。
ここにきて日頃の不人気がカーニヴォー。
人間、
逆境になると誰が友達かが分かります。
「爾朱榮は卑しい夷に過ぎません。兵を挙げてこちらに向かっておりますが、宿衛の兵でも十分に掣肘できます。まして、険要に拠って疲弊を待てば、爾朱榮は千里の行軍を経て士馬も疲れており、必ずや打ち破れます」
何一つエビデンスはありませんが、
寵臣の徐紇がようようお茶を濁し、
その言葉を真に受けた霊太后、
「そ、そうね、きっとそうよ、そうに決まってるワ」
李神軌を大将に任じ、
鄭儼の一族の鄭季明と鄭先護に河橋を守らせ、
費穆という人を小平津に派遣しました。
洛陽の北、
河陽=黄河北岸の渡しを防衛線としたのです。
さて、
爾朱榮の軍勢が河陽に到ると、
城を守っていた鄭氏の二人は
さっさと降ってしまいます。
鄭先護と元子攸は呢懇の仲だったらしい。
そんなら、
不人気大爆発の霊太后よりも元子攸につく、
それが当代の士大夫の嗜みというものです。
彼らの後ろには一族百人がいるのですから、
負け戦の美学には殉じられないのですよ。
いくさ人ではありませんのでね。
鄭氏の降伏を知ると、
費穆も投降してしまう。
後で詳述しますが、
鄭氏の二人が投降しなくても、
費穆は勝手に投降したかもです。
最後に残る李神軌は
洛陽に逃げ戻りました。
河陽に置かれた官軍はあっちゅう間に瓦解、
防衛線は飴の如くとろけてしまったわけです。
それを知った謀主の徐紇さん、
夜には詔と偽って皇帝の馬十頭を盗み、
東の兗州を指して逃げ出してしまいます。
羊侃という人を頼ったようですが、
この方もなかなか数奇な人生です。
宇宙大将軍と深いご縁があります。
もう一人の霊太后の寵臣、
鄭儼はどうしたでしょう?
こちらも男らしく、
故郷の滎陽に出奔しました。
二人とも爾朱榮から名指しで
殺害予告されていますからね。
逃げ出したくもなるというものです。
洛陽にある霊太后と幼主は、
性的な意味ではなく、
政治的な意味で丸裸ですよ。
▼霊太后と幼主の殺害現場からお送りします。
李神軌が逃げ戻った時点で霊太后は抵抗を諦め、
仏門に入って世を捨てることを考えたようです。
そのため、
孝明帝の後宮にあった妃嬪を出家させ、
自らも剃髪して尼となりました。
剃毛じゃないよ。
霊太后の思惑としては、
皇太后の立場を捨てれば爾朱榮は納得する、
そのように考えていただろうと思われます。
己の権勢を維持するための傀儡=幼主など
知ったことではないでしょう。
爾朱榮は騎兵を遣わし、
霊太后と幼主を河陰に連行させました。
この時、
霊太后が抵抗したという記録はありません。
おそらく、
霊太后は爾朱榮を説伏できると見ていた。
それが証拠に、
河陰に到着した霊太后は、
縷々として自己弁護の言を吐いたようです。
その有様を『魏書』『通鑑』はともに、
「陳説するところ多し」と表現しています。
爾朱榮はあからさまに孝明帝派です。
その孝明帝を毒殺したであろう
霊太后が多弁を弄したところで、
怒りの火に油を注ぐだけでしょう。
ここからは『北史』の記述を見ていきます。
『魏書』と比して非常に生々しいです。
▽
『北史』爾朱榮伝
榮惑武衞將軍費穆之言,
謂天下乘機可取。
乃譎朝士共為盟誓,
將向河陰西北三里,
至南北長堤,
悉命下馬西度,
即遣胡騎四面圍之。
榮は武衞將軍の費穆の言に惑い、
謂えらく、天下は機に乘じて取るべし、と。
乃ち朝士と共に盟誓を為すと譎り、
將いて河陰の西北三里に向かう。
南北の長堤に至らば、
悉く命じて馬を下りて西に度らしむ。
即ち胡騎を遣りて四面に之を圍ましむ。
△
まだ二人が生きている間に
爾朱榮は百官と誓約を行うと騙し、
河陰から西北の長堤に向かいます。
この堤は南北に伸びていたようです。
それを越えるにあたって、
馬を下りるよう命じました。
堤を西に下りると、
騎兵が駆けて百官を囲みます。
もうイヤな予感しかしません。
▽
『北史』爾朱榮伝
妄言丞相高陽王欲反,
殺百官王公卿士二千餘人,
皆斂手就戮。
丞相の高陽王は反かんと欲す、と妄りに言い、
百官、王公、卿士の二千餘人を殺し、
皆な手を斂めて戮に就く。
△
爾朱榮は、丞相の高陽王が叛こうとした、
と言いがかりをつけ、居並ぶ百官と王侯、
あわせて二千人以上を殺し尽くします。
兵が一万に満たないとしてもすべて騎兵、
そう考えると、二千人の朝臣の殺害など
わけなく行えたと思われます。
▽
『魏書』高涼王孤六世孫鷙伝
武泰元年,
尒朱榮至河陰,
殺戮朝士,
鷙與榮共登高冢
俯而觀之。
武泰元年、
尒朱榮は河陰に至り、
朝士を殺戮せり。
鷙は榮と共に高冢に登り、
俯きて之を觀る。
△
この様子を爾朱榮は、
堤の上から見下ろしていたそうです。
眼下には阿鼻叫喚の地獄絵図。
なかなかよいご趣味ですね。
爾朱榮「見ろ!百官がゴミのようだ」
たぶん、
爆笑とかしてたんじゃない?
やっぱりサイコパスや。。。
▽
『北史』爾朱榮伝
又命二三十人拔刀走行宮,
莊帝及彭城王、霸城王俱出帳。
榮先遣并州人郭羅察共西部高車叱列殺鬼
在帝左右,相與為應。
及見事起,
假言防衞,抱帝入帳,
餘人即害彭城、霸城二王。
乃令四五十人遷帝於河橋,
沈靈太后及少主於河。
又た二、三十人に命じ、刀を拔きて行宮に走らす。
莊帝、及び、彭城王、霸城王は俱に帳を出ず。
榮は先に并州の人の郭羅察を西部高車の叱列殺鬼と
共に遣りて帝の左右に在らしめ、
相い與に應を為さしむ。
事の起こるを見るに及び、
防衞すと假言して帝を抱えて帳に入りらしめ、
餘人は即ち彭城、霸城の二王を害せり。
乃ち四、五十人をして帝を河橋に遷らしめ、
靈太后、及び、少主を河に沈む。
△
堤上の爾朱榮は何を思ったか、
兵を孝荘帝のいる行宮に向かわせます。
孝荘帝の左右には、
郭羅察と叱列殺鬼という人があり、
向かってくる兵を見て応じました。
ちなみに、
郭羅察は郭羅刹の音訛と思われます。
羅刹に殺鬼を皇帝の左右に置くって、あんた。
孝荘帝は二人により帳=幕舎に入れられ、
外に残った兄の元劭と弟の元子正は、
兵たちにより殺害されてしまいます。。
えええ。
さらに、孝荘帝の身柄は東の河橋に移され、
その際に霊太后と幼主も黄河に沈められます。
爾朱榮「もうどうにでもなーれ★」
つまり、
『北史』爾朱榮伝の記述によれば、
百官の殺害が最初にあり、
ついで
孝荘帝の兄弟の彭城王と覇城王が殺され、
最後に霊太后と幼主が沈められたわけです。
霊太后の亡骸ですが、
後にその妹が収め、
仏寺に葬られたそうです。
ちなみに、
霊太后はこの時30代半ばと見られます。
たぶん10代半ばから後半で
孝明帝=元詡を生んだと考えられ、
それから19年が過ぎているわけで、
そうなると30代と考えざるを得ない。
お婆ちゃんじゃないよ。
全然イケる。
まだお若いのに。。。
その若さが北魏を誤ったとも言えます。
幼主の亡骸については記録がありません。
これだけでも、
北魏の権威を地面にめり込む勢いで
地に落としたわけでありますが、
河陰の変はこれだけでは終わりません。
まだあるのかよ。。。
▽
『北史』爾朱榮伝
時又有朝士百餘人後至,
仍於堤東被圍。
遂臨以白刃,
唱云能為禪文者出,當原其命。
時有隴西李神儁、頓丘李諧、
太原溫子昇並當世辭人,
皆在圍中,
恥是從命,俯伏不應。
有御史趙元則者,
恐不免死,出作禪文。
榮令人誡軍士,
言元氏既滅,尒朱氏興,
其眾咸稱萬歲。
時に又た朝士百餘人の後れて至るあり。
仍りて堤の東に圍を被る。
遂に臨むに白刃を以てし、
唱えて云えらく、
能く禪文を為す者の出ずれば、
當に其の命を原さん、と。
時に隴西の李神儁、頓丘の李諧、
太原の溫子昇あり、
並びに當世の辭人にして皆な圍中に在るも、
是れ命に從うを恥じ、俯伏して應ぜず。
御史の趙元則なる者あり、
死を免れざるを恐れ、出でて禪文を作せり。
榮は人をして軍士を誡め、
元氏は既に滅び、尒朱氏は興れり
と言わしめ、其の眾は咸な萬歲と稱す。
△
ちょっと補足すると、
この時、ちょうど日が暮れたと思います。
『魏書』を編纂した魏収の自序では、
魏収も河陰の変に巻き込まれております、
その際、周りを騎兵に包囲されたものの、
日暮れに遭って助かったとされています。
事によると、
遅れてきた朝士の一人だった可能性もある。
なぜなら、
李神儁、李諧、溫子昇といった
文人たちが含まれているからです。
霊太后と幼主を黄河に沈めてスッキリ、
いよいよ簒奪を決意した爾朱榮、
折りしも日が落ちてあたりは暗くなる。
日が暮れると、
人はロクなことを考えません。
そこに100人ほどの朝臣が遅れて来ます。
100人は騎兵に包囲され、
白刃を突きつけられました。
「禅譲の文を書けるなら、命は助けてやろう」
しびれるほどにワルモノ発言です。
しかし、これほど強烈な脅迫もないです。
何しろ、
堤の先ではすでに2000人ほど死んでます。
しかし、
包囲の中にある名だたる文人たちは、
禅譲の文を書くことを肯んじません。
そりゃ、
自分の文章で王朝イッコ滅びますから。
後世から何と罵られますことやら。
名家の人々にできることではありません。
一方、
わりとコッパな趙元則さんとしては、
後世の評価より今の命が惜しいわけで。
進み出て禅譲の文を書き上げてしまいます。
禅譲の文は爾朱榮の許に届けられました。
爾朱榮は兵士たちに命じ、
「元氏はすでに滅び、爾朱氏が興った」
と叫ばせます。
さらに、兵士は声を揃えて万歳と称します。
ノリノリです。
しかし、
なぜかここから占いに走ります。
なんなんだよ。
▽
『北史』爾朱榮伝
榮遂鑄金為己像,
數四不成。
時榮所信幽州人劉靈助
善卜占,
言今時人事未可。
榮乃曰:
「若我作不吉,當迎天穆立之。」
靈助曰:
「天穆亦不吉,
唯長樂王有王兆耳。」
榮は遂に金を鑄て己が像を為し、
數四にして成らず。
時に榮の信ずる所の幽州の人の劉靈助は
卜占を善くし、言えらく、
「今時は人事未だ可ならず」と。
榮は乃ち曰わく、
「若し我は吉ならざると作さば、
當に天穆を迎えて之を立つべし」と。
靈助は曰わく、
「天穆も亦た吉ならず、
唯だ長樂王に王兆あるのみ」と。
△
爾朱榮は金で自分の姿を鋳させ、
四回試みても形になりません。
ここは『魏書』と同じですね。
その時、
占いが得意な側近の劉霊助が
しゃしゃり出て参ります。
「簒奪はまだ時機尚早でございます」
「ワシがあかんのやったら元天穆はどうや?」
「元天穆も不吉、ただ長楽王あるのみです」
ダメ出しされた爾朱榮さん、
ここでフワーッとします。
なぜなのか。
▽
『北史』爾朱榮伝
榮亦精神恍惚,不自支持,
遂便愧悔,
至四更中,乃迎莊帝,
望馬首叩頭請死。
榮は亦た精神恍惚として,自ら支持せず、
遂に便ち愧悔す。
四更中に至り、乃ち莊帝を迎え、
馬首に望みて叩頭して死を請えり。
△
恍惚の意は
人事不省に近いと思うのですが、
字面だけみるとイッたみたいです。
その上、
気持ちが落ち着くと激しく後悔、
深夜になって孝荘帝を迎え、
その馬前に叩頭して死罪を請うた、と。
ジェットコースター・テンション、
体験者に聞くところ、
DVする人もこんな感じらしいです。
それはさておき、
スゴイ経緯ですけど
孝荘帝の一命は救われ、
北魏は余命を保ちました。
以上、黄河に到るところは『通鑑』、
それ以降は『北史』を見てきました。
おそらく、それ以前に北魏は自壊し、
爾朱榮はそれゆえに易々と河陰に到り、
霊太后と幼い皇帝を殺害したわけです。
しかも、
その場で禅譲まで企てております。
幸か不幸か、
占いのために未遂で終わりますが、
北魏はここで一度滅んだと考えて、
大きな誤りはないと思います。
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